紀元前74年ごろ、神武天皇、筑紫「岡水門(岡田宮)」へ

岡田宮(岡水門)の神武天皇

岡田宮

福岡県北九州市の「岡田神社」。

「古事記」が、東征中の神武天皇が一年滞在したと書く「岡田宮」の候補地だ。


「日本書紀」だと「岡水門」に約50日滞在とのことで、神武天皇が船団で移動した点から見れば書紀のほうが妥当という気もするが、まぁどっちでもいい話か。

肝心なことは、なぜ神武天皇は瀬戸内海を離れて、わざわざ日本海側に回ってきたのか、だろう。


そもそも神武天皇が東征を決意した要因の一つには、饒速日命(ニギハヤヒ)なる人物が「この国の中心地」に降臨していることを、塩土老翁(シオツチ)から聞かされたことにあった。


日本書紀によると、ニギハヤヒは古代からの有力豪族「物部氏」の先祖にあたり、畿内に降臨すると土豪の「長髄彦(ナガスネヒコ)」の妹を娶って、君主の座におさまっていた。


しかし、ニギハヤヒは神武天皇の畿内入りを知ると、抵抗を続けるナガスネヒコを殺害して、皇軍に帰順した。

ニギハヤヒは、神武天皇と同じ「天つ神の表(しるし)」を持つ人物だった。


皇室の正史が、皇室と物部氏は同じシンボルを持つグループの一員だと言ってるわけだ。その上で、はじめから両者の上下関係は決まっていたのだと。

北九州の物部氏

剣神社

福岡県直方市で、そのニギハヤヒを祀る「劔(つるぎ)神社」。


社伝によると、成務天皇のとき筑紫国造の「田道命」が、筑紫物部を率いて神々を祀らせたことが創建の由来だという。

「田道命」は、皇族で四道将軍の「大彦命」の5世孫にあたり、初代の筑紫国造だ。


『日本の神々 神社と聖地 1 九州』によると、劒神社が鎮座する遠賀川(おんががわ)一帯には「剣神社」や「八剣神社」など剣霊を祀る神社が多数あって、現在では揃ってヤマトタケルと草薙剣を主祭神としているものの、元々は物部氏が一族の「兵仗」を祀っていた地域だろうということだ。

北九州の物部系神社

上はその『日本の神々』で、北九州の物部系神社としてあげられている、「剣神社」「八剣神社」「六ヶ嶽神社」「古物神社」「天照神社」「高倉神社」などを、赤でマークしてみたGoogleマップ。


「古事記」の岡田宮(緑のマーク)にしても、「日本書紀」の岡水門(河口)にしても、物部のエリアにかなり近い。


物部氏といえば、のちに朝廷の武器庫を管理した軍事氏族で、鉄器製造にも長けていたという。

東征に当たって神武天皇が、総帥のニギハヤヒが同じシンボルを持つ物部一族に、協力を要請しに行った可能性はないんだろうか。

河内の物部氏

石切劔箭神社

こちらは東大阪市でニギハヤヒを祀る、式内社の「石切劔箭神社」。


ここ旧河内国の一帯も、物部氏の一大拠点として知られる地域だ。あまり語られないことだが、安芸に2ヶ月、吉備に3年滞在した神武天皇は、河内にも2ヶ月のあいだ留まっている。


そして、いよいよと生駒山からの奈良入りを目指したところで、待ち構えてたナガスネヒコの反撃を受けて、敗退。退却の憂き目に遭われたのだった。

熊野の物部氏

熊野速玉大社

(熊野速玉社)

生駒ルートを断念した皇軍は、南下して和歌山の紀の川ルートを利用するかと思いきや、危険極まりない熊野灘に進む。で、案の定というか、ここでは神武天皇の二人の兄が溺死してしまうという大惨事に。


そうまでして皇軍が目指した熊野にも、やはり物部氏がいた。


まず、高天原の聖剣「ふつのみたま」で皇軍の窮地を救った「高倉下(たかくらじ)」なる人物は、物部氏の史書といわれる『先代旧事本紀』によれば、ニギハヤヒの実の息子だ。

後の時代になるが、初代の熊野国造はニギハヤヒの5世孫だ。


何だか、物部氏が皇室に協力するのは最初から決められていることで、神武天皇も当然のようにそれを利用した。

ぼくには、そんな印象さえある。

岡田宮のご朱印

参考までに、神武天皇が東征の決意を述べるくだりをコピペしておく。

ぼくは、神武天皇は元々ニギハヤヒを知っていて、ニギハヤヒの降りた場所なら都にふさわしいはずだ、と確信している印象を受けるが、どうだろうか。

さて、塩土老翁に聞いてみると、『東方に美しい国があり、四方を青山が囲んでいます。その中に、天磐船に乗って飛び降った者がおります。』と言った。

私が思うに、その国は必ず天つ日嗣の大業を弘め、天下に君臨するのに十分な土地である。まさしく我が国の中心地ではあるまいか。

天から飛び降ったという者は、饒速日であろうか。その地へ行き、都を定めることにしようではないか。

(Kindle版『日本書紀』宮澤豊穂)