西暦212年頃、四道将軍・武渟川別、東海へ

武渟川別を祀る津神社

津神社

岐阜市で、武渟川別(たけぬなかわわけ)を祀る「津神社」。

武渟川別は、第8代孝元天皇の皇子「大彦命」の子で、第10代崇神天皇の時代に父と一緒に「四道将軍」に選ばれると、東海地方の攻略を担当したという人物だ。


日本書紀によれば、勅命によって四道将軍が出動したのは崇神天皇10年。長浜浩明さんの計算だと、西暦212年頃のことだ。


この時、冬10月に出発した四道将軍は、翌年4月末には異俗の平定を奏上したという。

その間、わずか半年。

東海を担当した武渟川別は、一体どこまで進軍したんだろう。

栃木県、那須の古墳群

駒形大塚古墳

JR宇都宮駅から、北東にクルマで1時間。

栃木県は那須郡の那珂川流域に、古墳時代前期の前方後「方」墳が、南北5キロに渡って並んでいる。


上の写真は、その中でも一番古い「駒形大塚古墳」で、墳丘長は60.5m。

築造年代は、考古学者の広瀬和雄さんによれば、3世紀末だ。

侍塚古墳と那須国造碑―下野の前方後方墳と古代石碑

栃木の古墳の専門家によると、それまで人間が生活していなかった那須に、3世紀後半に突如として前方後方墳と方墳の文化が持ちこまれたんだそうだ。

副葬品は、当時の関東地方の中では質・量ともに抜きんでていて、土器類からは東海、畿内との強い政治的結びつきが読み取れるんだとか。

(『侍塚古墳と那須国造碑―下野の前方後方墳と古代石碑』眞保昌弘/2008年

先代旧事本紀

ところで『先代旧事本紀』によれば、第12代景行天皇(在位290〜320年)の御世に「建沼河命」の孫が、初代の「那須国造」に任命されたという。


武渟川別が四道将軍として活躍した時代から90年近く経って、どうやらその一族は関東地方最北部まで勢力を伸ばしていたようだ。

東海に林立する物部系国造

東海に林立する物部系国造

『先代旧事本紀』の記述をどこまで当てにしていいのかは分からないが、最終巻の「国造本紀」だけは、何らかの確かな元ネタがあったのでは、と考える学者さんもいる。


それで、武渟川別が派遣された東海地方の国造を見てみると、物部氏に属する人物が国造を張ってることが多いと分かる。


上のグーグルマップ、緑のマークの「素賀(すが)国造」(掛川市)だけは神武天皇ご指名らしいが、赤いマークはみな物部系だ。

西から、「遠淡海(とおつおうみ)国造」(磐田市)、「久努(くの)国造」(袋井市)、「珠流河国造」(富士市)、「伊豆国造」(三島市)と、ズラリだ。


まぁ残念ながら根拠は薄いんだが、ぼくはこの物部氏と組んで、武渟川別は東海を平定していったんじゃないかと思っている。

なので、第一回遠征の212年時点では、彼らは伊豆まで進んだんじゃないか。


なお、ポッカリ空いた静岡市の国造ってのが、例のヤマトタケルを火炙りにした裏切り者で、本居宣長によればその実体は「蝦夷」らしいが、現地で登用された土豪だったんだろうか。

詳細は不明だ。

沼津市の前方後方墳

高尾山古墳

静岡県沼津市の「高尾山古墳」。

東日本では最古級という前方後方墳で、墳丘長は62m。

市の教育委員会によれば、築造年代は西暦230年ごろが推定されるそうで、ここまでの文脈から言えば物部系「伊豆国造」のお墓だろうか。

茨城県の物部氏

稲村神社

茨城県常陸太田市の式内社「稲村神社」では、物部氏の祖神「ニギハヤヒ(饒速日)」を祀っていた。


古代には北の果てに近かった常陸国で、なにゆえニギハヤヒ?と不思議に思ったが、当時この辺りを治めていた「久自国造」が物部氏だったからのようだ。

さすがはヤマト随一の軍事氏族といったところか、常に最前線にいるのは物部氏だったのか。


西暦237年頃、出雲振根、誅殺される (四隅突出型の終焉と出雲族の東遷)につづく