スサノオは出雲の製鉄の神か

スサノオは製鉄の神か

和鋼博物館

島根県安来市の、市立「和鋼(わこう)博物館」。


「和鋼」とは、砂鉄を原料に、木炭を燃料にした「たたら」で生産された「ハガネ」のことで、この製法は江戸時代までは、わが国の鉄総生産量の80%以上を占めたのだとか。


むかしは出雲といえば鉄、のイメージだったそうで、中世に限ってみても、製鉄遺跡の集中には目を見張るものがある。

日本列島製鉄遺跡分布図(平安末〜中世)

(出典『和鋼博物館 展示ガイド』)

そんなイメージのせいか、出雲の神・スサノオを「製鉄の神」だとみる説は多い。


『伊勢神宮と出雲大社』(瀧音能之/2010年)という本には、「出雲国風土記」のスサノオ本人の伝承が、山間部の「須佐—大原—安来」と一直線に並び、このうちの須佐が製鉄地だったことから、この並びは製鉄集団の平野部への進出経路だったのではないかと書いてある。

古代の鉄と神々

古い本だが、名著で知られる『古代の鉄と神々』(真弓常忠/1985年)には、スサノオを「鉄神」だとする学者の説が紹介されている。


まず吉野裕氏は、スサノオとは「渚沙(すさ)の男」すなわち海や川の洲(渚)に堆積した砂鉄から鉄を造り出した男たちを意味すると説き、彼らの名がそのまま彼らが奉斎する神の名になったのがスサノオだという。


また水野祐氏は、新羅から渡来した「韓鍛冶」の集団が奉じた祖神がスサノオだといい、須佐に土着した彼らが山間部一帯に勢力を広げ、やがて意宇(安来)にまで達したことを表すのが風土記のスサノオ説話だという。

出雲国「風土記」のスサノオ

須佐神社・社頭

(須佐神社  写真AC)

さていずれの説も、風土記の「須佐の郷」にスサノオを奉じた製鉄民がいたということなので、せっかくなので引用しておく。

須佐の郷。

神須佐能袁の命が、「この国は小さいとはいえ、国として手頃な良いところである。だから私の御名は、木や石などにはつけまい」とおっしゃって、すぐにご自分の御魂をここに鎮め置かれた。

そして大須佐田・小須佐田をお定めになった。だから、須佐といった。 


(『風土記・上』角川ソフィア文庫)

それでぼくが気になるのが、スサノオが「鉄神」だとして、それは歴史上のいつ頃からの事なのかだ。


出雲国風土記を読んだ感じでは、山間部に広がるスサノオの信仰は、島根半島に広がるカミムスビ(神魂命)の信仰と同時代に、出雲を南北で二分していた印象がある。


そこに後から被さってきたのがオオナモチ(大穴持命=のちにオオクニヌシ)を奉じる集団で、スサノオやカミムスビの娘を娶る「婚姻」という形で、しだいに出雲全土を制覇していった、というのが風土記からぼくが読んだところ。


だからぼくの印象としては、スサノオを製鉄神として奉じる信仰は、オオナモチの信仰より古くなくてはいけない、ということになる。


※ なお個人の感想だが、そのオオナモチを奉斎する集団は、クシミケヌを奉じる意宇の集団(のちの出雲国造)とヤマトの連合軍に敗北して、離散したと思っている。

離散後は四道将軍や物部の軍団に組み込まれ、東海や関東に屯田していったと思うが、それは他の記事にて

弥生時代の製鉄

弥生時代の製鉄

ところで『三国志・魏志韓伝』にあるように、弥生時代後半から古墳時代にかけて、「倭人」は朝鮮半島の弁辰(のちの任那・加羅)まで鉄素材を調達に出かけていたようだ。


ただその時代でも、国内の製鉄は細々とは行われていたそうで、その方法には自然通風が必要ゆえに、初期の製鉄地は山間部や山麓が多かったらしい。

それはさておき、この当時の製鉄法を技術的に考えると、弥生期より古墳期ごろまでの製鉄は、山あいの沢のような場所で自然通風に依存して天候のよい日を選び、砂鉄を集積したうえで何日も薪を燃やしつづけ、ごく粗雑な鉧塊(還元鉄)を造っていた。

 

そしてこれをふたたび火中に入れて赤め、打ったり、叩いたりして、小さな鉄製品を造るというきわめて原始的な方法であったのであろう。


(『鉄から読む日本の歴史』窪田蔵郎/1966年)

というわけで、弥生時代末には国内で製鉄らしきことが行われていたのは確かなことのようだが、和鋼博物館の「展示ガイド」によれば、それは広島県庄原市「戸の丸山遺跡」や三原市「小丸遺跡」など山陽地方の山中の話で、残念ながら出雲にはその痕跡は見あたらないようだ。

出雲の製鉄史

それじゃ出雲の製鉄はいつからかというと、和鋼博物館の「展示ガイド」によれば、古いものでも「羽森第三遺跡」(雲南市)や「今佐屋山遺跡」(邑智郡)など、6世紀後半までしか遡れないという。


山間部以外でも、「中海」の南岸の遺跡からも製鉄の跡はみつかっているが、そちらも6世紀後半〜7世紀のもの(岩屋口南、徳見津、五反田)ということで、古くはない。


ただ、同時代の山間部のものより「集約的な体制」が見られるという。

それじゃ出雲の製鉄はいつからかというと、和鋼博物館の「展示ガイド」によれば、古いものでも「羽森第三遺跡」(雲南市)や「今佐屋山遺跡」(邑智郡)など、6世紀後半までしか遡れないという。  山間部以外でも、「中海」の南岸の遺跡からも製鉄の跡はみつかっているが、そちらも6世紀後半〜7世紀のもの(岩屋口南、徳見津、五反田)ということで、古くはない。  ただ、同時代の山間部のものより「集約的な体制」が見られるという。

(安来市と中海 写真AC)

むー、思ってたよりずっと新しい出雲の製鉄史だが、『解説 出雲国風土記』には興味深いことが書いてあった。

「中海」南岸の遺跡での製鉄を管理したのは、「出雲東部の豪族層」だろうというのだ。

須恵器や玉と同様に、鉄も特殊な技術と物資、労働力を要する特殊な生産物である。

 六世紀後半から七世紀にかけて進展した出雲東部の豪族層によって、それらの生産が管理された可能性が高いだろう。


(「古代出雲の鉄生産」)

6C後半〜7Cの出雲東部の豪族層といえば、出雲臣=出雲国造をおいて他にはないだろう。

その本拠地は松江市から安来市に広がる「意宇(おう)郡」だ。


出雲国風土記には、その意宇郡「安来郷」に残るスサノオの伝承が収録されている。

安来の郷。

神須佐乃袁の命が、国土の果てまでお巡りなさった。

その時、ここにやって来られて、「わたしの御心は安らかになった」とおっしゃった。だから安来といった。 


(『風土記・上』角川ソフィア文庫)

安来神社

(安来神社)

古代出雲の中心地だった意宇を「国土の果て」というあたり、スサノオを奉斎した部族が山間部から平野部に出てきた人たちであることに異論はない。

ただ、スサノオが製鉄神かというと、ちょっと考えてしまう。


考古学のFACTが示すとおり、出雲の製鉄は6C後半から。

中央では、欽明天皇から推古天皇の時代だ。


仮に出雲に「製鉄神」が誕生したとしてもそのタイミングなわけで、神話に登場する神としてはいくらなんでも遅すぎる。

そんな製鉄神を、オオナモチ(大国主)の前(親)に差し込むのは無理があるように、ぼくには思える。

出雲国風土記の「一つ目の鬼」

なお、出雲国風土記には「一つ目の鬼」の伝承があって、これを日本書紀に登場する鍛冶の神、「天目一箇神(あめのまひとつ)」と考えて、そこには製鉄集団と農耕集団の対立の歴史が反映されている、とする説がある。

阿用の郷。古老が伝えて言うには、昔、ある人がここの山田を烟(けむり)たててこれを守っていた。

そのとき一つ目の鬼が来て、耕している人の息子を食べた。

そのとき息子の父母は竹原の中に隠れていたが、竹の葉が動いた。

そのとき食べられている息子が「ああ、ああ【原文・・・動々(あよあよ)】。」と言った。だから、阿欲といった 。


(『解説 出雲国風土記』島根県古代文化センター/2014年)

しかし『解説』によれば、「一つ目の鬼」説話が載る「大原郡」には鉄生産の跡がないので、これはあくまで山間部の「農耕」に関する伝承だと考えた方がいいとのこと。


「一つ目の鬼」は、中国では山田の経営を妨害する「干ばつの神」とされていて、その到来を予測して、火を炊いて警戒している様子を表しているのがこの説話だと、地元の研究者の間では考えられているようだ。


鉄は古代史のロマンに満ち満ちているので、何かとイメージ先行になりがちだということだろうか。