(宮簀媛を祀る「氷上姉子神社」2025夏参詣)
日本書紀によると、東征から帰還したヤマトタケルは「尾張氏の女」宮簀媛と結婚して、尾張に長く逗留したという。
古事記では、伊勢でヤマトヒメから草薙剣を授かったあと、ヤマトタケルは尾張で「尾張国造の祖先」美夜受比売と婚約して東征に向かい、その帰路に尾張に立ち寄り、正式に結婚したという。
『尾張国風土記』逸文にも「尾張連等の遠い先祖」である宮酢姫命が登場し、ヤマトタケルから「私の形見」として神剣を預けられ、熱田社を建ててそれを祭ったとある。
(氷上姉子神社)
だが不思議なことに、これだけ新婚生活が語られるミヤスヒメは、記紀のヤマトタケルの系譜にその名がない。尾張氏の系譜がダラダラ述べられる『先代旧事本紀』にも、やはりミヤスヒメの名前はない。
なので名古屋の歴史学者・福岡猛志さんは、ミヤズヒメは「まさに草薙剣がなぜこの熱田社にあるのかということを物語る話としてのみそこに存在する」と書かれている。
結論だけ申しますと、私は新井喜久夫さんがおっしゃっているように、このミヤズヒメというのは、ミヤス、 つまり宮の主、神様に仕えるべき巫女的な役割を負う人物として、他ならぬ草薙剣を熱田に置くべき、その理由を作り出す人物として創作された、あるいは考え出された、そういうものとして生み出された女性だと思います。
そしてやがて尾張氏の系譜の中に正式に位置づけられたとき、尾張氏にとって最も重要な意味を持つ建稲種命と結びつけられたのだというように考えるわけです。
(『古代史のなかの女性たち』1998年)
同じようなことは、一冊丸ごとをヤマトタケルに費やした論考『ヤマトタケル』(1977年)のなかで、歴史学者の吉井巌さんも論じられている。
吉井さんによれば、そもそも「王権のシンボル」であるはずの草薙剣が、皇族でもない尾張氏の熱田社の祭神であるのはおかしい。ゆえにそれは、元々は尾張氏に伝わる神剣であろうということだ。
それがある時、その神剣を皇室に伝わる「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と同一のものとして、王権のシンボルに加える事情が発生した。
そこで考案されたのが「斎王からヤマトタケルへの草薙剣の付与と、ヤマトタケルがこの剣をミヤズヒメの許に残して死ぬという構想」だった———と吉井さんはいわれる。
すなわちヤマトタケルはミヤズヒメに剣を残して死ななければならない役割りを与えられている。
この役割りのために、ミヤズヒメを中心とする尾張氏の服属伝承は、ヤマトタケルの東征の帰路に場所を移して語られることとなったのである。
(『ヤマトタケル』吉井巌/1977年)
定説では、ヤマトタケルは草薙剣を身辺から離したことにより、「伊勢神宮のご加護」を失って死を招いたとされているようだ。
そうやって「伊勢神宮の神威譚」という空気をまといながらも、しかし記紀や風土記に共通するのは、ヤマトタケルが草薙剣をミヤスヒメの許に置いたまま去っていったという一点のみ。
なので吉井さんは、あくまで草薙剣を中心にしたこの展開を、「あらかじめ定められた物語の大筋」だと書かれている。
つまり、尾張氏の系譜に出てこないミヤスヒメは創作された人物で、それにまつわるエピソードは全て「作り話」ということだろう。
古事記では、初夜を迎えたミヤズヒメは、ヤマトタケルへの答歌の冒頭で「高光る 日の御子 やすみしし わが大君(多迦比迦流 比能美古 夜須美斯志 和賀意富岐美)」という詞章で歌い始めるが、そのような讃称は『万葉集』で天武・持統の両天皇にはじめて用いられ、天武天皇系の皇子にしか用いられない」という、かなり新しいものだという。
———というわけで、ミヤスヒメという人物が、草薙剣が熱田社に祀られる理由を説明するために創作された、架空の人間であることは納得できた。
だとしたら、その剣をヤマトヒメ(皇室)からミヤスヒメ(尾張氏)まで運んだのちに崩御した、ヤマトタケルのその「死」も、同じく誰かの手で創作された可能性があるんじゃないだろうか。
(継体天皇陵「今城塚古墳」写真AC)
記紀において、大伴氏や物部氏のような股肱の臣でもないのに、異様に厚遇されているのが、尾張氏だ。
なんとその祖神「天火明命」は、古事記の系譜だと「天忍穂耳尊」の長男、すなわち天孫ニニギの兄に当たるとされている。
んで実際に、尾張氏の血統が天皇の兄だった時代があるわけで、それが第26代継体天皇の最初の妃「尾張目子媛」が産んだ、第27代安閑天皇と第28代宣化天皇。
継体天皇はその後、仁徳天皇4x4のインブリードという第24代仁賢天皇のプリンセス「手白香皇女(たしらかのひめみこ)」とのあいだに第29代欽明天皇を儲けていて、以上を系図で表すと、こうなる。
ぼくは個人的に、ヤマトタケルは第13代成務天皇と同一人物だと思っていて、両者を分離させて父が天皇でない天皇(仲哀天皇)が存在する皇統譜を創作したのは、同じく父が天皇でない第23代顕宗天皇、第24代仁賢天皇の時代のことだとも思っている。
【関連記事】ヤマトタケルは成務天皇か 〜倭武天皇と市辺天皇〜
(今城塚古墳 写真AC )
ところで継体天皇の即位では、大連の大伴金村がひざまずいて「天子の璽符としての鏡と剣」を奉って、即位を乞い願う儀式が行われたと日本書紀に書いてある。
まだ「三種の神器」の概念もなければ、熱田社から草薙剣が運ばれたとも書いてない。
なのでぼくは、即位後の継体天皇が妻の実家を持ち上げるために、尾張氏の祖神「天火明命」を皇統譜に加えた時、一緒に尾張氏の神宝「草薙剣」を祀る巫女・ミヤスヒメも創作されたんじゃないか———という印象を持っている。
むろん、草薙剣の持ち主が死ぬことで、その熱田社への安置が定まるんだから、ヤマトタケルの悲劇的な「死」も、同じタイミングで創作されたんだろうとぼくは思う。
(オトヨを祀る「上知我麻神社」2025夏参詣)
謎といえば、景行天皇時代の尾張氏自体、けっこう謎が多い豪族という気がする。
まず古事記では、ミヤズヒメは「尾張国造の祖先」だというが、「国造本紀」には初代の尾張国造について「天火明命の十三世孫の小止与(おとよ)命」だと書いてある。
んで「天孫本紀」の方には、オトヨ(乎止與命)の子が「建稲種(たけいなだね)命」だと書いてあって、この人はミヤスヒメの兄だという。
つまりミヤスヒメは「尾張国造の祖先」じゃなくて、「娘」または「妹」と書かれるべき立場なわけだ。
(建稲種命を祀る「成海神社」2025夏参詣)
まぁぼく自身はミヤスヒメは架空の人物だと思っているんだから、そこは深く考えないとしても、初代の尾張国造(オトヨ)が成務天皇の時代に指名された、という点にも違和感がある。
というのも、尾張氏といえば、第5代孝昭天皇には皇后(世襲足媛)を出し、第10代崇神天皇には后妃(尾張大海媛)を出したとされる、古くからの外戚だから。
それが景行天皇の時代になっても、まだ国造として認められていないというのは、チト遅すぎる感がある。
(建稲種命を祀る「内々神社」写真AC)
すでに神武天皇の御世には、宇佐都彦命、椎根津彦命、天日鷲命、天道根命など9人が国造に就任し、崇神天皇の時代にも出雲、上毛野、科野などに12人。
景行天皇だって、甲斐をはじめ6人を国造に承認してるんだから、尾張氏も一緒に認めてやれよ!という気になってしまう。
(建稲種命を祀る「尾張戸神社」写真AC)
尾張氏へのもうひとつの疑問が、皇室との長く深い関係がある「海人族」なのに、ヤマトタケルの東征に「水軍」として参加した形跡がないこと。
鎌倉時代に成立した『寛平尾張国熱田大神宮縁起』なる古文書には、ミヤズヒメの兄「建稲種命」がヤマトタケルに従軍して、帰路に駿河の海で亡くなった———と書かれているそうだが、日本書紀でヤマトタケルの副将に任命されたのは、吉備武彦と大伴武日の二人だ。
(建稲種命を祀る「羽豆神社」写真AC)
だが尾張氏といえば「宮廷の膳部方面に職掌を持ち」「海産物の貢献」などで各地の海人系豪族をとりまとめ、「伊勢湾一帯の海人の宰領家」だと考えられてる一族だ。
(『日本の神々』松前健/1974年)
また、尾張氏に関係がある地名や神社が、播磨・備前・周防から越前にまで見られることから、「漁民というより輸送を主とする海民」つまりは「海運業」を牛耳っていた一族だという説もある。
(『東海学の創造をめざして』2001年)
そんな海のプロフェッショナル集団の尾張氏に、あのとき水軍編成の声がかからなかった理由は、ズバリ、西暦300年頃の尾張氏には、まだそれほどの実力が備わっていなかったから———というのがぼくの想像だ。
弥生時代の濃尾平野には「朝日遺跡」という、当時の日本では最大級の弥生集落があって、そこでは「農業に従事せず、貝類の採取や漁労」に特化した集団が、農耕集団と共存して暮らしていたという。
(『東西弥生文化の結節点・朝日遺跡』原田幹/2013年)
しかしその朝日遺跡はAD100年頃からの洪水の多発で、湿地化が進んでしまったらしい。つまりは水没だ。それで住民たちは他所への移住が余儀なくされ、一部は南の名古屋台地方面に移っていったそうだ。
(出典『東西弥生文化の結節点・朝日遺跡』)
上の「図17」は弥生時代前期の地形になるが、古墳時代に入っても平野南部の湿地状態は続いていたそうだ。
大垣市教育委員会によるボーリング調査の結果、古墳時代前期には岐阜県大垣市まで海が迫っていたことが分かっていて、ヤマトタケルは船で伊吹山を目指した可能性もあるそうだ。
(『継体大王と尾張の目子媛』1994年)
そんな、全体として農耕生産性の低い地域で、尾張氏が本拠地としたのは知多半島の付け根あたりだという。
ミヤスヒメの居住地とされる「氷上邑(鳴海郷)」がそれで、そこから熱田台地に北進したというのが、文献から考えられる尾張氏の歩みらしい(新井喜久夫)。
んじゃ、ヤマトタケル東征当時の尾張氏の実力はというと、考古学的にはこんなかんじか。
(出典『邪馬台国時代の東海の王・東之宮古墳』赤塚次郎/2018年)
西暦300年頃の尾張の内陸地(庄内川水系)、名古屋市守山区には「白鳥塚古墳」という全長115mの前方後円墳が造営されているが、これは文献から考えられる尾張氏の歴史からすると、尾張氏のお墓ではない。
陸地(農耕地)にこだわりがない海人族の尾張氏が、それなりの古墳を築造したのは4世紀の中頃で、直径50mほどの円墳「兜山古墳」がその第一号だとされている。
立地的にはミヤスヒメの「氷上邑(氷上姉子神社)」からは1kmほどの距離にある。
なお、守山区の「白鳥塚古墳」(115m)は、宮内庁が崇神天皇陵に治定する「行燈山古墳」(天理市/242m)の相似形とみられる上級グレードのお墓になるが、当時の濃尾平野にはサイズだけなら引けを取らない「青塚古墳」(犬山市/123m)や「坊の塚古墳」(各務原市/120m)なんてのが造営されていた。
濃尾平野において、まだ尾張氏が突出した存在ではなかったことの証明になるんだろう。
(「青塚古墳」2021春見学)
んじゃ尾張氏が、東海を代表する大勢力になったのはいつかというと、考古学からは5世紀末、が考えられているようだ。
5世紀後半の尾張南部では、独自の技法を持つ「円筒埴輪」を生産していて、寸胴ぎみのプロポーション、二突帯三段という形態上のおおまかな共通性はあったものの、まだ統一感がなく、仕上がりにバラつきが目立ったそうだ。
それが5世紀の末になると、形や大きさが規格化、画一化されて「猿投型円筒埴輪」として大量生産のシステムが構築されたのだという。むろん、その背景には「それを可能にする地域統合、統治集団の存在」が考えられるだろう。
(『古代豪族』2015年)
そしてほどなく、熱田社のすぐ近くに東海では史上最大となる前方後円墳「断夫山古墳」(151m)が造営されるわけで、尾張氏が濃尾平野で突出したのは、5C末から6C初頭———すなわち「尾張連草香」が娘の「目子媛」を継体天皇に嫁がせて、のちの安閑天皇、宣化天皇を儲けた時代に、尾張氏は一気に飛躍を遂げた、ということのようだ。
おそらく同じ頃に、尾張氏の祖神「天火明命」が天孫ニニギの兄だとされる皇統譜や、尾張氏の神剣を皇室に結びつけるミヤスヒメや、その兄で尾張北部の豪族と政略結婚した「建稲種命」の伝承も創作されたと思われるが、物証になるようなものは特にない。
ただ「建稲種命」はその名前から、尾張氏が農耕に転じたのちに構想された、穀物神の人格化だという説もあるようだ。
また、愛知県に点在する「建稲種命」を祀る神社をつないだ内側が、古代の尾張氏の勢力圏だという説もあった(大下武)。
ここからは余談。
たまにネットなどで、尾張氏はヤマトへの対抗軸として(前方後円墳ではなく)前方後方墳を採用した———みたいな説を見かけるが、それがFACTではないことは、上の方の「名古屋台地の古墳編年」から容易に理解できる。
前方後方墳が主流だったのは、岐阜や美濃、犬山あたりの濃尾平野北部の話で、そこらへんも景行天皇が行幸した西暦300年頃からは、前方後円墳にシフトしていったようだ。
(出典『邪馬台国時代の東海の王・東之宮古墳』赤塚次郎/2018年)
最後にミヤスヒメが創建した熱田社について触れておくと、「神宮」を号するようになったのは明治時代からで、それまでは「熱田神社」だったようだ。
807年成立の『古語拾遺』(斎部広成)によると、平安初期の熱田社は朝廷から重視されておらず、新嘗祭や月嘗祭での奉幣が行われていなかったそうだ。正史『続日本紀』にも熱田社への言及は皆無らしい。
結局、斎部広成が『古語拾遺』で熱田社の惨状を嘆いた15年後、熱田社もようやく「従四位下」の神階を得て、966年には「正一位」にまで昇りつめたそうだ。
ちなみに熱田社は尾張国の「三宮」で、一の宮は真清田神社だ。
実際の創建時期は、やはり断夫山古墳が築造された6世紀前半頃が定説のようで、すべては尾張氏が今上天皇の外戚になったとき、整えられたと考えられてるみたいだ。
景行天皇(13)につづく