皇室(天皇家)のルーツは朝鮮半島ではない
〜『逆説の日本史』の影響力
大山古墳の長持形石棺
(出典『古墳時代のシンボル 仁徳陵古墳』一瀬和夫)
1872(明治5)年、当時の堺県が教務省に「仁徳陵古墳」の清掃を申し出て、許可されて「前方部」の斜面で露見した埋葬施設を調査したとき、記録したのが上の石棺の図。
5世紀の「王の棺」といわれ、畿内中心に有力首長の古墳に採用された「長持形石棺」だ。
この頃の九州では朝鮮式の「横穴式石室」が採り入れられつつあったが、堺県の調査結果を見るかぎり、仁徳陵の中心主体部(後円部)の埋葬施設は、ヤマト伝統の「竪穴式石室」だったとみて「さしつかえない」と、考古学者の一瀬和夫さんは書かれている。
(『古墳時代のシンボル 仁徳陵古墳』2009年)
(出典『古墳時代のシンボル 仁徳陵古墳』)
ところでこの件を旅仲間に話したとき、最初の反応はこうだった。
——あれ?天皇陵は立ち入りも発掘も禁止されていて、中がどうなってるのか全く分からないんじゃなかったっけ?
実はぼくも、読んで最初の反応は同じだった。
だから前方部とはいえ、あの!!大仙陵古墳の、副葬品を含む石室の状態が判明しているという事実には驚かされた(ニワカなので…)。
そして驚いた後にはホッとした。
出てきたのは5世紀のヤマトがフツーに採用していた、日本オリジナルの石棺と埋葬施設だったからだ。
そうして今更ながらに気付かされたのが、若い頃に愛読した『逆説の日本史1』(1993年)の影響力だ。
そこでは、宮内庁が頑なに天皇陵古墳の発掘調査に反対する理由について、こう書かれていた。
それは、「天皇陵を発掘すると天皇家と朝鮮半島の関係が明らかになるから、反対しているのだ」という見方である。
もっと具体的に言えば、「天皇家の祖先が朝鮮半島から渡来したことの証拠が出てくる恐れがあるからだ」、ということだ。
(「第五章 天皇陵と朝鮮半島編」)
(今のお考えは知らないが)1992年当時の井沢氏の歴史観は、「邪馬台国東遷説」と「河内王朝説」をミックスした感じで、九州の「応神王朝」が畿内にあった「原大和国家」の「仲哀王朝」を滅ぼして、大和朝廷に成り代わったというもの。
それで井沢氏は、新王朝の始祖・応神天皇は5世紀ごろの人物だというんだから、まず気になるのは「天皇家の祖先」の出身地だという朝鮮半島の、5世紀ごろのお墓だろう。
新羅の皇南大塚(積石木槨墳)
(皇南大塚 出典「ハンギョレ新聞」)
それでまず、上の写真が5世紀の新羅の王墓で「皇南大塚」。
朝鮮半島では最大の古墳で、ふたつの円墳が合体したような「双円墳」なる墳形。墳丘長は120m。高さ25m。
学問的には「積石木槨墳」といって「木棺を安置した木槨の周囲を人頭大の河原石で覆い,さらに盛土した新羅独特の墓制である」んだとか。
(『世界大百科事典』)
高句麗の将軍塚
(高句麗将軍墳 出典『日朝古代史 嘘と恨の原点』)
んでこちらが、高句麗の「将軍墳」で、好太王(広開土王)の息子・長寿王の陵だと考えられているそうだ。
見ての通りに石を積み上げた「方壇階梯積石塚」とかいうもので、底面は一辺およそ32mの正方形。高さは12.5m。石室は「横穴式」だ。
ま、一目瞭然、どっちも日本じゃ全く見かけないお墓なわけで、それぞれにオリジナリティに溢れていることは確かなことだ。
(光正寺古墳)
井沢氏のいう「天皇家の祖先」が、いつ朝鮮半島から渡来したかはご著書には書いてなかった気がするが、実際のところ、井沢氏が4世紀後半の九州にあったという「応神王朝」の時代、九州の墓制の主役といえば、フツーにヤマト式の前方後円墳だった。
つまり、古墳時代前半の首長墓について言えば、日本列島が朝鮮半島の影響下にあった証拠はない。
上の写真は、2022年春に見物してきた福岡県宇美町の「光正寺古墳」で、3世紀後半〜4世紀初頭に築造されたという54mの前方後円墳だ。
博多にも同時代の「那珂八幡宮古墳」(75m)なんかがある。
(赤塚古墳 宇佐市公式サイト)
ちなみに九州で一番古い前方後円墳は、3世紀末に造られたという大分県宇佐市の「赤塚古墳」(57.5m)で、九州北部では広く採用された「箱式石棺」を使いつつ、「三角縁神獣鏡」が4面出土するなど、ヤマトの影響も強く感じさせる墳墓だそうだ。
奈良県桜井市に史上初の前方後円墳、278mの「箸墓(はしはか)古墳」が造営されたのは(諸説あるが)250〜280年ごろだというので、それから大して経たないうちに、遠い九州でもヤマト式の前方後円墳がポツポツ造られていた、という流れ。
東遷したのは卑弥呼本人か?
んで、仮に九州から畿内に東遷したのが「応神王朝」ではなく、3世紀半ばの「邪馬台国」の「卑弥呼」ご本人だったとしても、それが箸墓古墳の被葬者に収まるのはチト無理があると思わせる理由が、これ。
北部九州は中国鏡をはじめとした多彩な品々の副葬、出雲は墳丘斜面への葺石(貼石)、丹後は刳抜式木棺や鉄器の副葬、吉備は円筒埴輪につながる特殊器台形土器や特殊壷形土器の樹立、近江や東海は前方後方形の墳丘など。
それら弥生墳墓の諸要素を統合して、斉一度を高め、大型化によっていっそうのビジュアル化をはかった墳墓様式が、三世紀中ごろに成立した前方後円墳である。
(『前方後円墳とはなにか』広瀬和雄/2019年)
前方後円墳の誕生には、九州から東海までのさまざまな弥生墳丘墓の要素が必要だった。
邪馬台国が、九州にあったか畿内にあったかは今は措くとしても、遅くとも2世紀前半には畿内にあった王権でないと、箸墓の主になるのは時間的に難しいように、ぼくには思えるのだった。
5世紀のヤマトと須恵器
さて、応神陵や仁徳陵を発掘しても、皇室のルーツが朝鮮半島にあることを示す証拠は出てこない———とぼくが思える理由をいくつか。
まずは5世紀になって、畿内でも使われるようになったという朝鮮半島由来の「須恵器」。
それまでの土師器より頑丈で保水力が高いため、酒など大量の水分の貯蔵に優れていたんだそうだが、朝鮮半島では3世紀には確実に「灰色の器」を使っていたというのに、九州では3C後半から4Cに受容、畿内では4C末から5C初頭に入って、ようやく生産が始められたのだという。
(『第九回百舌鳥古墳群講演会記録集 海を渡った交流の証し—遺物からみた五世紀の倭と朝鮮半島—』¥400)
もしも皇室が朝鮮半島から来たのだとして、なぜ便利な須恵器を持ちこまなかったのか。
それとも渡来したのは、まだ朝鮮にも須恵器のなかった、2世紀以前のことなんだろうか。
5世紀のヤマトと馬
ヤマトでは、「馬」も5世紀中ごろになってようやく、大阪府四條畷市の「蔀屋北(しとみやきた)遺跡」や、長野県の伊那谷南部で生産が始められたが、これも朝鮮半島では「辰韓」「弁韓」「馬韓」のいわゆる「原三国時代」には、乗用を目的として生産が行われていたという。
なお、弥生時代終末期の「亀井遺跡」(八尾市)などからは馬の骨が出土しているが、これらは「散発的渡来」というそうで、骨が出たということ以上のことは全くの不明なんだとか。
ただ、重たい馬を渡海させるには、古墳時代になって開発された「準構造船」が必要と考えられていて、生きた馬を弥生時代に輸送するのは不可能だったという説が有力なんだそうだ(同書)。
5世紀のヤマトと鉄
(鉄鋌 出典:宮内庁公式サイト)
朝鮮・韓国考古学を専門にされている井上主税さんによると、畿内では5世紀の古墳から「威信財」として出土する「鉄鋌(てつてい)」が、6世紀になると副葬されなくなる事実から、わが国における製鉄の開始は6世紀ごろと考えられるのだという(同書)。
5世紀のうちは、鉄は朝鮮半島から素材(鉄鋌)の状態で輸入していたわけで、皇室は製鉄の方法などの情報を持っていなかったのだろう。
(『火の鳥・黎明編』1967年)
以上、5世紀の「須恵器」「馬(牧)」「製鉄」の事情を見てみたが、もしも皇室が手塚治虫が『火の鳥・黎明編』で描いたような渡来人で、3世紀半ばに「倭人」を征服した侵略者だとしたら、その手にはすでに「須恵器」も「馬」も「製鉄」も、ガッシリと握られていたはずだった。
しかし実際には5世紀に入るまで、皇室はそのどれも持ってはいなかった。
ならば皇室のルーツは朝鮮半島にはなかったか、あったとしても半島との繋がりを全て失うほど遠い昔のことだったか、そのいずれかであるような気がするが、後者の場合は根拠となる物証などを期待する方が無理な話で、考えるだけ時間の無駄ってことになるんだろうか。
「葛城《磐之媛》の権勢と仁徳天皇の実年代」につづく