何度も出てくる「長浜浩明さんの計算」とは?

簡単にいうと、長浜浩明さんという方が『古代日本「謎」の時代を解き明かす - 神武天皇即位は紀元前70年だった!』(2012年)という本の中で計算した歴代天皇の在位年代のこと。


長浜さんは東京工業大学のご出身で、卒業後は大手の設計事務所に入社されたそうだ。

おそらく、そんなキャリアだからこそ気がつけたのが、『日本書紀』の神武東征のくだりが、「大阪平野の発達史」のある年代と奇妙な一致を見せるという事実だ。

戦後の復興期、大阪でも多くの高層建物が建設され、戦後数十年に亘り隈なく掘られた地盤の調査資料から、大阪の地下構造と形成過程が明らかになっていったのです。

その大阪平野の発達過程は7つに区分され、一番古いものは2万年前の「古大阪平野時代」、その後、河内「湾」の時代、河内「潟」の時代を経て、現在は河内「湖Ⅱ」の時代らしい。

そしてそれら7枚の古地図を並べてみたとき、長浜さんは気がついた。

一枚の地図だけに、『日本書紀』で神武天皇が大阪湾に進軍した時の状況が、そのまま表されていると。


それは「河内潟の時代」、紀元前1050〜前50年の大阪の古地図だった。

この期間に限れば、あの『日本書紀』の描写は歴史的事実に基づいた記録だと、考えることができるわけだ。

   上町台地から北へ伸びる開口部のやや東側、淡路新町辺り(②)の約2260年前の地層から、チリメンユキガイが出土した。

この貝は汽水域に生息することから、河内湾は潟になっていたことが分かる。

そして、南森町から森小路に至るラインの奥は淡水域になっていた。

これを裏付けるかのように、森ノ宮貝塚の上部や日下貝塚は淡水貝・セタシジミに変っていた。


   この時代、上町台地から伸びる砂州は更に北進し、開口部は狭まり、河内潟に流れ込む河川水はここから大阪湾へと流れ出ていたが、満潮になると狭まった開口部を通って海水が潟内部へ逆流し、四~五キロ奥の大阪城の辺りまで達した。

そして干潮になると、潟の水は開口部から大阪湾へと勢いよく流れ出た。これが浪速、難波の由来であろう。


「難波碕に着こうとするとき、早い潮流があって大変早く着いた」


この一文は、磐余彦命(※神武天皇)一行が、河内潟の狭い開口部から流入する潮流に乗って一気に潟内部に侵入し、難波碕に着いたことを物語っている。

河内潟中央部には、弥生時代前期からの高井田遺跡や茨田安田遺跡があり、干潮時には陸地も現れていたことが分かる。

注目すべきは、「干潮時になると上流部にまで船で遡上出来た」とした梶山彦太郎氏の指摘である。

  しかし「図6 河内湖Ⅰの時代」(西暦150〜350年頃)では、水の流れは河内湖から大阪湾に流れ出るだけで、日本書紀の描くような状況は実現しない・・・という話。

つづいて長浜さんの探求は、文献に向かう。

裴松之(はいしょうし)は南朝・宋の時代の歴史家で、『三国志』では取り上げられなかった資料を元に、「裴松之の注」なる補足を行った人物。

その「注」には三国時代の倭人の風習として、次のような記述があるそうだ。

其俗 不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀

(倭人は歳の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている)

要は「倭人は一年を二年に数えていた」と、当時の中国人が記録していたというわけだ。

そしてその明らかな終わりは、「暦博士」という官職が『日本書紀』に表れる「欽明天皇」の時代、西暦で539〜571年の在位期間の前まで辺りか、というのが長浜さんの推理だ。


ならば、欽明天皇以前の天皇の年齢は、およそ半分に計算すればいい。

そうして導かれた神武天皇の即位は、紀元前70年。

それはまさに「河内潟」の時代に相当するのだった・・・。


もちろん、ご著書では細かい分析がなされているわけだが、現在でも絶賛販売中の本『日本の誕生』にも同様の計算が掲載されているので、そちらを買って読んでください。

『日本の誕生 科学が明かす日本人と皇室のルーツ 』(WAC BUNKO 358) 

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