鹿島神宮・香取神宮はいつ創建されたか

鹿島神宮の高天原

鹿島神宮・東の一之鳥居

常陸国一の宮「鹿島神宮」には東西南北4カ所に「第一の鳥居」がもうけられ、広大な神域を形成しているそうだが、そのうち「東の一之鳥居」が立つのが太平洋に面した「明石の浜」(2023年秋訪問)。


出雲のオオクニヌシを降伏させたタケミカヅチが、初めて東国に上陸した地点として神聖視されているのだとか。

高天原の鬼塚

鹿島神宮から明石の浜に向かう道中で立ち寄った「鬼塚」。

東西85m、高さ10mの丘(古墳?)だ。


1968年刊行の『鹿島神宮』(東実)によると、神宮から2キロ離れたこの辺りは、当時は「飛び地」として神宮の境内になっていて、その名も「高天原」といったそうだ(現在も高天原の地名は残るが、鬼塚は鹿嶋市宮津台)。


東実さんが鹿島神宮の宮司をおつとめされた頃は、高天原は松林が広がる砂地ぎみの台地になっていて、鬼塚に登ると太平洋が一望できたんだそうだが、今は住宅に囲まれてその風情はない。

沼尾神社と坂戸神社

沼尾神社

明石浜鳥居から西に向かい、カシマサッカースタジアムを越えて1キロ進んだ一帯は、「常陸国風土記」が書かれた8世紀には「沼尾池」なる池が広がっていたのだという(今は田畑)。


風土記に出てくる古老がいうには「神世に天より流れ来し水沼」だそうで、「鹿島神」の本質を沼尾池にみる歴史家もいるそうだ。


その沼尾池(跡)の北側に鎮座してフツヌシを祀るのが、鹿島神宮境外摂社の「沼尾神社」。

実際には写真よりも薄暗く、音もなく静まりかえった境内は、結構コワいです(笑)。

坂戸神社

風土記の時代、池を挟んで沼尾神社の南1キロの対岸に鎮座したのが、同「坂戸神社」。

現在の祭神は、藤原氏の祖神アメノコヤネ。


グーグルマップなど開いてみれば、北から沼尾神社ー坂戸神社ー鹿島神宮が、ほぼ等間隔に、ほぼ直線上に並んでいることが見て取れるが、それもそのはず、常陸国風土記によれば「天の大神社・坂戸社・沼尾社の三社を総称して香島天之大神」といったんだそうだ。

鹿島の「神郡」はその「三社」に対して与えられたものだという。

そして当地の「郡家(郡役所)」は、元は沼尾池のほとりにあったものが、風土記の頃には「天の大神社」の南に移っていて、三社の中心地が北から南に移動したことが分かるんだそうだ(『日本の神々11関東』)。


なお「天の大神社」について、地元・鹿嶋市の文化スポーツ振興事業団が発行している『図説・鹿嶋の歴史(原始・古代編)』(2006年)には、「大和朝廷の司祭する天之大神の社」と書いてあって、一方、坂戸社と沼尾社は「地元神」だと書いてある。


それら地元神がヤマトの神に取り込まれ、神郡を与えられ、神宮にまとめられたのが、現在の「鹿島神宮」の祖型・・・という理解でいいんだろうか。

『図説・鹿嶋の歴史(原始・古代編)』(2006年)

ただ、この「天之大神の社」の祭神は、現在の記紀のタケミカヅチではない。


鹿島の神がタケミカヅチと記されたのは、公文書では836年(続日本後紀)が初で、それ以前だと807年の忌部氏の史書『古語拾遺』が最古だそうだ。


タケミカヅチは藤原氏の氏神だが、常陸国風土記を編纂したのは不比等の子・宇合というから、当の藤原氏が、713年当時はタケミカヅチを鹿島の神だとは考えていなかったことになるわけか。

鹿島神宮・香取神宮はいつ創建されたか

香取神宮本殿

(香取神宮)

古い神社の創建がいつかなんて、分からないのがフツーだが、鹿島・香取ほどの大社になると、さすがにいろいろ史料も残っているようだ。


まず、両神宮が「神宮」になった時期だが、どうやら奈良時代の前半のことらしい。

『香取私記』によると、聖武天皇の天平4年(732)、天下大早のため、詔により降雨を祈ったところ、霊験あって降雨があったので、それまでは香取神社といったのを、改めて神宮の称号を賜わったように記されている。

(中略)

香取神宮がこのように朝廷から特別の好遇をうけていたのも、上代において長いあいだ権勢をほしいままにしてきた藤原氏が、鹿島神宮とともに、当宮をその氏神として崇敬・庇護してきたことが主たる原因であったように思われる。


(『房総の古社』菱沼勇/梅田義彦/1975年)

鹿島神宮本殿

鹿島神宮)

上記の引用には香取の件しか書かれてないが、両神宮はおおむね足取りを揃えているので、鹿島の方も同じころに「神宮」の称号を得たのだろう。


720年に成立した「日本書紀」に出てくる神宮が「大三輪」「出雲」「石上」「伊勢」だけなのは、成立当時はまだ鹿島・香取が「神宮」ではなかったこともあるのかも知れない。


なお、常陸国風土記によれば、鹿島神宮が「神郡」を持ったのは649年で、初めて「神殿」が造営されたのは天智天皇(668ー672年)の御世のことだという。


「神郡」は三社に対して与えられたんだから、鹿島神宮が今のような孤高の存在になったのは649年より後で、「神宮」の称号が与えられた732年頃よりも前・・・の期間になるんだろうか。

古墳時代までなかった方形周溝墓

そういえば鹿島神宮は、社伝として神武天皇時代の創建を主張しているが、さすがにそれはないと思う。


神武天皇の即位は「皇紀」だとBC660年、長浜浩明さんの計算だとBC70年と、いずれにしても弥生時代で、実はその時代の鹿嶋界隈が近畿を中心にした文化圏とは「隔絶」していたことを示すFACTは、多数見つかっているようだ。


上掲の『鹿嶋の歴史』から、そのいくつかを紹介すると、まず古墳時代の初期に入るまで現れない「方形周溝墓」がひとつ。

横浜の方形周溝墓(埋文よこはま35)

出典「横浜の方形周溝墓(埋文よこはま35)」

上のイラストは、横浜市の埋蔵文化財センター発行のPDFに載っていた「方形周溝墓」の想像図。


近畿から広まったこの墓制は、弥生時代中期には神奈川県から千葉県にまで達していたそうだが、鹿嶋には古墳時代初期まで現れなかったという。


常陸では、古墳時代に入る直前まで東北地方南部の「弥生土器棺墓」を使っていたというから、要はその頃まで「蝦夷」の世界に属し、その南端にあったんだろう。

鹿嶋では弥生土器にも縄文を施文していた

鹿嶋では、市内で見つかっている弥生土器のほとんどに、縄文が施されているそうだ。

弥生式の便利なハードは受け入れたが、精神面ではずっと縄文時代が続いていたということだろうか。

古墳時代初期になっても、弥生土器と土師器が混在

鹿嶋では、古墳時代初期の竪穴住居跡から「土師器」とともに弥生土器が出土していて、それらは同時に使用されていたと考えられているそうだ。


ただ、土師器のほうは鹿嶋人が作ったのではなく「大和朝廷の先陣部隊とでもいうべき集団が、西方から移住」して持ちこまれたという可能性が指摘されている。


常陸国風土記には、崇神天皇の時代に「建借間命(タケカシマ)」という将軍が常陸の平定に赴任してきたとあるが、長浜浩明さんの計算では崇神天皇の在位は207〜241年になるので、タケカシマや続く「黒坂命」の軍団が土師器を持ちこんだとすれば、考古学のFACTにおおむね一致することになる。

鹿嶋市内には前方後方墳がない

姫塚古墳

姫塚古墳

前方後「方」墳は、方形周溝墓が発展したものらしいので、後者がなければ前者もないのは当たり前か。


ただ、水戸市に近い大洗町には、3世紀半ばに築造された29mの前方後方墳「姫塚古墳」があるんだが、おそらくそれも、タケカシマらの手で土師器同様に中央から持ちこまれたものなんだろう。


どうもヤマトははじめ、水戸市のあたりに対蝦夷攻略の前線基地を置いていたようで、姫塚古墳に始まる「磯浜古墳群」では、4世紀後半までに6基の古墳が造営されている。

それが4世紀末に南下して、鹿嶋市の「宮中野古墳群」に中心地が移ったと見られているんだそうだ。


日本書紀によれば、4世紀前半にはヤマトタケルの手で蝦夷を降伏させたとあるので、最前線で頑張る必要性がなくなっていたのかも知れない。


鹿嶋には7世紀前半まで古墳が造営されていって、茨城県でも最大の規模となったが、その後、律令政府の国府が霞ヶ浦北岸の石岡市に置かれ、そっちに常陸の中心は移っていったのだとか。

鹿嶋市の古墳にはハニワがない

岩偶「くりやっほー」鹿嶋市どきどきセンター

(岩偶「くりやっほー」鹿嶋市どきどきセンターにて)

鹿嶋市には400基もの古墳が造られたが、そのうち埴輪を持つものは、わずかに全体の2%もないのだという(平成18年時点)。


この少なさの理由について『鹿嶋の歴史』では、埴輪を持つ古墳の埋葬者が「畿内大和政権と深い関わりを持つ者」あるいは「宗教的司祭者やシャーマン的な占術者といった性格の支配者」に限られたのではないか、という考察がなされている。


ぶっちゃけ、中央から来た中臣氏とか物部氏とかだけはOKで、鹿嶋に生まれて鹿嶋に育った地元民はNGと、そういう話だろうか。

・・・といった感じで、弥生時代から古墳時代にかけての鹿嶋界隈は、ハッキリ言ってまだ縄文時代の続きといった印象で、近畿との関わりはほぼゼロといった状況だったようだ。


第10代崇神天皇の御世になってヤマトの侵略が始まり、それに屈する形で中央の文化が浸透していった・・・それが常陸の古墳時代の幕開けだったようだ。


古事記のアメノミナカヌシとタケミカヅチ」につづく