出雲神話⑳「出雲国造神賀詞」のオオクニヌシとオオモノヌシ

日本書紀のオオモノヌシ

大神山神社

鳥取県米子市の式内社、「大神山神社」。


観光案内に、大己貴神が鎮座する神体山「伯耆大山」を遙拝する云々と書いてあったので、てっきり「オオミワ山神社」かと思い込んでいたら、正しくは「オオガミ山神社」だった。失礼しました。

大神山神社・神門

さて、日本書紀は大国主神の別名として「大物主神」をあげ、それは大己貴神の「幸魂奇魂(瑞祥と神霊の魂)」だと書いている。

(神代第8段、第6の一書)


その大己貴神は、「日本国の三諸山」に住みたいというオオモノヌシの願いを聞き入れて、三諸に神宮を造営した。


それが「大三輪の神」で、「甘茂(かも)君」「大三輪君」、そして初代の皇后「姬蹈鞴五十鈴姬命(ひめたたらいすずひめ)」などの親神になったという。

大神神社のオオモノヌシ

大神神社

上の写真は、オオモノヌシを祀る大和国一の宮、奈良県桜井市の「大神(おおみわ)神社」。

本殿を持たず、日本を代表する神奈備「三輪山」を神体山として遙拝する、古式の神社として有名だ。


日本書紀の一書は、オオモノヌシ=大己貴神だというが、大神神社では今、それぞれを別の神として祀っている。


三輪山には、山麓、中腹、山頂に三カ所の「磐座」が存在していて、それぞれスクナヒコナ、オオナムチ、オオモノヌシが、別々に祀られているそうだ。


昭和25〜58年のあいだ、宮司を務められた中山和敬さんによれば、大神神社の主祭神はあくまで「大物主大神」であって、大己貴命と少彦名命は「摂末社」の待遇でしかないそうだ。

 神饌もまた本案(案とは神饌などをおく木の台)は大物主大神一柱のみに献げ、大己貴神・少彦名神への神饌は脇案に、しかも相嘗の形でお供えする。 

おそれ多いことながら、早く申せば摂末社の御待遇と大差ないのである。


(『大神神社』中山和敬/1971年)

『大神神社』中山和敬/1971年

『出雲国造神賀詞』のオオモノヌシ

もう一件、オオクニヌシと大物主神を同一視するのが『出雲国造神賀詞』だ。


奈良・平安の時代に、代替わりした出雲国造が上京して天皇に奏上した「よごと(祝詞)」がそれだが、その中に「国譲り」に応じた大穴持命(オオクニヌシ)が自分の「和魂(にぎみたま)」を八咫の鏡に取り託けて、「倭の大物主くしみかたまの命」と名を称えて、皇孫の守護神として「大御和の神奈備」に鎮座した・・・というくだりがある。


つまりは、オオクニヌシ=大物主神。


このとき守護に当たったのは「大穴持命の和魂」だけではなく、その御子神たちも加わった。

図にしてみれば、こんなかんじだ。

オオクニヌシファミリーによる皇室守護の結界?

三輪山の「大神神社」にはオオナモチの「和魂」が、宇奈提の「河俣神社」にはコトシロヌシが、葛城の「高鴨神社」にはアジスキタカヒコネが、そして飛鳥にはカヤナルミがそれぞれ配置され、四神による結界?のなかで、藤原京または飛鳥京(緑のマーク)が守られている、そういうイメージだろう。


でもこの話、ちょっと考えれば成り立たないことがすぐ分かる。


なぜなら、オオナモチが国を譲って「杵築宮」に隠居したとき、まだ奈良盆地には守るべき皇孫など存在していなかったからだ。

京都御所

(京都御所 写真AC)

言うまでもなく、国譲りを受けて天孫ニニギが降臨した場所は「日向の襲の高千穂峰」、すなわち南九州で、大和ではない。


それに、仮に神賀詞の奏上がはじまったのが藤原京か飛鳥京の時代だったとしても、710年には平城京への遷都が行われ、結界の中から天皇の都は消えていた。

しかし出雲国造は、都がさらに北の京都に移ってからも、同じ神賀詞を繰り返したという。


こりゃ一体どういうことか?

神武東征とオオモノヌシ

日本書紀・神代第9段、第2の一書では、大己貴神が国譲りを受け入れて幽界に隠居したあと、経津主神(フツヌシ)による地上の掃討戦が行われ、首魁であるオオモノヌシとコトシロヌシが帰順している。


このとき、皇祖・高皇産霊尊(タカミムスビ)はオオモノヌシに娘のミホツヒメを娶せると、永久に皇孫を守護せよと命じて地上に降ろしたとされている。


この一書の神話と神賀詞の世界観はかなり近いように、ぼくは思う。


おそらくこの神話は、神武東征の最終局面、物部氏(フツヌシ)による軍事作戦で「三輪氏(オオモノヌシ)」と「鴨氏(コトシロヌシ)」が降伏し、神武天皇への服従を誓ったという、実際に起きた(であろう)歴史上の事件を表しているのだと、ぼくは思う。


それで、あらためて神賀詞の「守護神」の図を見てみれば、藤原京や飛鳥京より中央に近い場所に、わが国初の皇居、畝傍山麓の「橿原宮」があることに気が付いたりする・・・。

橿原神宮と畝傍山

(橿原神宮と畝傍山 写真AC)

三輪氏の服属儀礼のオオモノヌシ

ここでプロに援護射撃してもらうなら、歴史学者の岡田精司氏は、出雲国造神賀詞の「守護神」の部分は「あとからの追加」で、本来は「三輪氏の氏上が宮廷で奏上した」服属儀礼だったのはないか、と書かれている。

なぜ三輪山の神がここに顔を出すのだろうか。

オオモノヌシは非常に重要な神様だけれども、天皇に降伏する形をとっていたということです。 


出雲の国造が天皇に忠誠を誓うその賀詞の中で、私も忠誠を誓うために皇居の周りを守りますよと約束している。

 

しかしこの部分は、元々は別の形で、オオモノヌシとその子どもたちが皇居をお護りしますという誓いをする。 


おそらく三輪氏がしていたのでしょうが、そういう別系統の誓いを、出雲の国造の誓いのことばの中にはめ込んだのではないかと思われます。


(『神社の古代史』岡田精司/1985年)

なるほど、元々は三輪・鴨のオオモノヌシグループが、橿原宮あたりを守護するという簡単な図式だったものが、オオモノヌシに大国主が「別名」として接続されたとたん、一気に話がややこしくなったということか。


まぁ出雲国造にはそうするだけの理由があったんだろうが、それは一体なんだったんだろう。

荒神谷遺跡

プレ出雲氏、発祥の地か?荒神谷遺跡)

出雲国造家と蘇我氏

出雲国造家は、もともとは松江市を本拠にした「意宇(おう)氏」という人たちだったが、崇神天皇60年ごろ、出雲市から出雲全域に影響を広げていた「プレ出雲氏」と対立すると、ヤマトの軍勢を呼び込むかたちでそれを滅ぼしてしまった、とぼくは思っている。


そのとき滅ぼされた「プレ出雲氏」が奉斎していたのが、のちにオオクニヌシと呼ばれる「大穴持命」だ。


日本書紀によれば、内乱のあと出雲臣(当時はまだ意宇氏)は大穴持命を放置していたが、ヤマトに命じられて祭祀を再開している。

おそらくこれが、今に続く「出雲大社」の祭りの始めなんじゃないだろうか(社殿の造営は8世紀か?)。

出雲の東西二大勢力(6世紀後半)

(山代二子塚古墳・説明板より)

時は流れて6世紀後半。

出雲では、東部・意宇郡の出雲臣(国造家)と、西部・出雲郡の「神門(かんど)臣」が対立していた(またかよ!)。


東部の出雲臣は新興の「蘇我氏」をバックにつけ、「大陸風飾り大刀」をブンブン振り回していた。

かたや西部の神門臣は、古豪の「物部氏」をバックにつけて「倭風大刀」で対抗していた。


古墳も出雲臣は前方後「方」墳、神門臣は前方後「円」墳で張り合っていたようだ。


争いの結果は、中央で物部氏が蘇我氏に敗れると、物部に与した神門臣も没落し、出雲一円で蘇我の「大陸大刀」が使われるようになった。

神門臣は、出雲臣の「同族」に組み込まれ、下風に立たされることを余儀なくされた。


ぼくは『古事記』はもともとは蘇我氏の自家製「天皇記(帝紀)」だった説の支持者なので、古事記でやたらページ数の多い「出雲神話」は、この頃の蘇我氏と出雲臣の蜜月関係から、大きく採り入れられたものなんじゃないかと思っていたりする。


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古事記外伝

出雲国造家と藤原(中臣)氏

しかし、いつの世にも栄枯盛衰がある。

今度は蘇我氏が「中臣氏」らに滅ぼされると、出雲臣は中央での後ろ盾を失ってしまう。


それでも大化の改新からしばらくは「神郡」が設置されたりと、出雲国内での権勢は維持されていたが、結局のところ「国造」は律令制にとっては異物でしかない。

出雲国造家といえど、先行きに保証はなかった。


そんな状況下で始められた神賀詞の奏上だが、『古事記外伝』によると、大化の改新のあと大豪族にのし上がった藤原/中臣氏の姿が、チラチラと見えているという。

神賀詞の奏上は、最初から天皇の前で奏上されたわけではない。 


(出雲)果安のときには、神祇官の副長官である大副(たいふ)の前で果安が奏上し、大副が、しかじかの神賀詞が奏上されましたと天皇の前で復奏するという形式がとられた。 


その大副は、中臣一族の人足(ひとたり)だ。 

つまり神賀詞の奏上にも、中臣氏が関与していたということだ。 

中臣人足は、のちに神宮祭主、神祇伯(神祗官トップの長官)などを歴任している。


(『古事記外伝』藤巻一保/2011年)

『古事記外伝』では、藤原/中臣氏による「祭政の掌握」への手段として、「古事記」「杵築大社(出雲大社)」そして「出雲国造神賀詞」が作られたという主張がなされていて、要は出雲国造家は、藤原=中臣氏とガッチリ手を組んだということらしい。

日本神話の謎がよくわかる本

そこに至るプロセスとして、神話学者の松前健氏は、神賀詞の奏上は朝廷からの強制ではなく、「自家の社会的地位の上昇と安定のため」に、出雲国造側から「売り込んだ」ものではないかとお考えだ。

そこでバスに乗り遅れた国造家として、大奮発した出血的大サービスが、この神賀詞の奏上式なのであった。

莫大な神宝および幣物の献上、それに天皇の御寿の長久を祈る呪詞の奏上など、大和朝廷にとっては、これほどうれしいものはない。 


そのヨゴトには国造の祖神ホヒと子のヒナドリが、オオナムチをなだめまつり、国土を献上させたという大功が述べられている。 

この伝承の売りこみ運動だったのである。


(『日本神話の謎がよくわかる本』松前健/1994年)

出雲国造神賀詞と皇室

JR出雲市駅

さて松前説が本当なら、神賀詞の「守護神」も、「服属」とか「懲罰」とか「使役」のようなネガティブなものではなく、むしろ積極的に買って出た「ご奉仕」のような役目になるんだろう。


しかしその「守護神」たちが、かつて神武天皇に侵略され、征服された部族が奉じた神々であることは、当の皇室が一番分かっていたことのはず。


そんな大和土着の神々の首魁「オオモノヌシ」に、こちらもかつて、出雲国造家がヤマトと共闘して滅ぼした部族「プレ出雲氏」の神「オオナモチ」を接続することで、出雲国造神賀詞はいわば、ヤマトを「脅しながら祝う」ような、そういうニュアンスを持ったんじゃないか。


両者の血塗られた共犯関係を確認させ、共有させ、出雲を見捨てないことを承認させる。

オオナモチは、そんな目的のために利用された神だったんじゃないか。


そしてその目論見は成功したのだろう。


オオナモチは「封印」どころか日本中に拡散し続けて、ついには海を越えて「樺太」や「台湾」でも祀られた。そして出雲国造家は現在でも、皇室に次ぐ名家として、その血脈を蕩々と繋いでいるのだった。

伯耆大山

(伯耆大山)

ところで今回初めて「出雲国風土記」を熟読(といっても現代語訳)してみて面白かったのは、編纂に当たった当時の国造さんが、時にはヤマトを受け入れ、時には拒絶してと、いろいろ苦心してるのが分かったことだ。


受け入れたのは、イザナミの「国生み」や、オオクニヌシの死後の「宮殿」の件。


一方スサノオについては、あくまで山間部の小領主に留めたがってるのか、有名な「八雲立つ」の歌を出雲土着の「国引き」の神、ヤツカミズオミツの歌だとトップ記事から主張して、日本書紀をまるで無視していたりする。


まぁそのくらいのサイズがスサノオの実像だという、出雲人の共通認識があったのかも知れない。


出雲神話の旅」おわり