神武天皇の部将③天道根命
〜初代・紀伊国造〜
日前神宮・ 國懸神宮の天道根神社
2020年夏に参詣した、紀伊国一宮・名神大社・官幣大社の「日前神宮・ 國懸神宮」(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)。
全国でも唯一の、ひとつの社地に二つの「神宮」が鎮座する珍しいスタイルで、古代には「神郡」を許された7社に入り、「神階」を超越して伊勢神宮に継ぐ地位を得たスーパー神社だ。
ご神体は、アマテラスの分身である「日像鏡・日矛鏡」。
その「日前神宮・ 國懸神宮」の境内摂社に、アメノミチネを祀る「天道根神社」がある。
アメノミチネは、神武天皇に命じられて、初代の「紀伊国造」に就任したという人物だ。
天道根命の名前は、正史「日本書紀」には出てこない。彼の人生が語られるのは、物部氏の末裔が平安時代に著したという『先代旧事本紀』という歴史書でだ。
と言ってもあまり詳しい話題はなくて、ニギハヤヒという「天つ神」が天孫降臨した際に付き従った32将の一人であることと、橿原で即位した神武天皇に紀伊国造に任じられたことの二点だけ。
日本書紀のアメノミチネ
ただ、この二点の間に起こったことは、実は正史・日本書紀の方で読み取ることができる。
ニギハヤヒ(饒速日)は神武天皇の同族で、彼らは同じ「天上界の表徴」を持っていた。
そもそも神武天皇が日向を発って東征に出たのは、ニギハヤヒが「天磐船」で畿内に降臨したことを知ったからだっだ。
降臨したニギハヤヒは、土地の豪族 ナガスネヒコの妹をヨメにして、彼らの主君として君臨していたが、ナガスネヒコが神武天皇に抵抗すると、あっさりブッ殺して「多くの兵を率いて帰順した」という。
素直に考えれば、このとき帰順した将の一人が、アメノミチネだったのだろう。
そして彼は、ナガスネヒコ軍の残党狩りや、神武天皇の大和平定に尽力したのだろう。その褒賞が、紀伊国造の地位だと思われる。
紀伊国造の「鏡」と「矛」
今では日前神宮、國懸神宮ともに「鏡」をご神体とする両神宮だが、江戸時代までは「鏡」と「矛」がそれぞれのご神体だったと考えられていたらしい(本居宣長ほか)。
この、左右対称に配置された「鏡」と「矛」について、文化人類学者の大林太良さんは、鏡は「祭祀」、矛は「軍事」を象徴しているのだと主張されている(『 私の一宮巡詣記』)。
祭政一致、祭祀者にして武人という、この時代の国造のあり方がリアルに感じられるご説明だと、ぼくは思う。
なお、全国に国造はたくさんいたが、奈良・平安の時代になっても朝廷で就任式が行われたのは、出雲と紀伊の二国だけだったそうだ。
(『神社の古代史』岡田精司)
さて、「日前神宮・ 國懸神宮」の境内摂社には、ここ和歌山の地で神武天皇の軍と戦った、「名草戸畔(なぐさとべ)」を祀る「中言神社」(なかごとじんじゃ)もあった。
「名草」はこのあたりの地名で、「戸畔」は講談社学術文庫や中公文庫の『日本書紀』では「女賊」と訳されている。
神武東征では他にも、「丹敷戸畔(たしきとべ)」と「新城戸畔(にいきとべ)」という女賊が「誅」されたと書いてある。
詳しいことは分からないが、 おそらくは邪馬台国の卑弥呼のような、女性シャーマンなんだろう。
この名草の女賊を自らのご先祖だと主張する、意外な人がいる。
先の大戦で日本が敗戦したのちも、フィリピンのルパング島で30年も戦い続けた男、 小野田寛郎さんだ。
著書 『生きる』にはこんな一説がある。
私が聞いた口伝によれば、神武が全国を支配していく過程(神武東征)で、他の諸族は次々に屈服したにもかかわらず、和歌山の名草(現在の海草郡)の人々だけは名草戸畔がリーダーとなって迎え撃ち、神武軍を撃退した。
それでやむなく神武軍は紀伊半島を迂回して熊野に入らざるを得なかった。
なるほど『日本書紀』を素直に読めば、なぜ神武天皇は紀の川ルートで大和盆地に向かわなかったのかが不思議になるが、名草戸畔らの抵抗が激しくて、手を焼いた可能性があるわけか。
小野田さんは、名草の人々に語り継がれる反骨の歴史こそが、自分の負けん気を育てたと語られているが、人間、何が心の支えになるかは分からないもんだ。
ただ、現在の中言神社で「名草姫」と一緒に祀られている「名草彦」は、ヤマトに帰順して第5代の紀伊国造「大名草比古命」となったという説もあって、歴史は一面的には捉えられない難しさもある・・・。
「神武天皇の部将④天日別命」につづく