西暦355年頃、応神天皇の誕生

〜「河内政権論(河内王朝論)」への反論〜

応神天皇の誕生と九州王朝

「応神天皇御降誕」の碑

「応神天皇御降誕地」の碑が立つ、福岡県糟屋郡宇美町の「宇美八幡宮」。


日本書紀によれば、応神天皇が生まれたのは仲哀天皇の9年12月14日のこと。


しかし同書には、神功皇后は8年9月の時点ですでに懐妊されていたとあるので、応神天皇は最低でも15ヶ月の間、母のお腹にいたことになる。


もちろんこれは、神功皇后の力を持ち上げている「聖母」の伝説だろう。

宇美八幡宮神門

ところでこの「九州で生まれた天皇」の存在は、戦後、皇国史観の呪縛から解放されたばかりの歴史学者たちの関心を、強く刺激したようだ。


まずは1948年のシンポジウムで江上波夫が発表した「騎馬民族征服説」


この説によれば、4世紀初頭に中国大陸から「北方系騎馬民族」の一団が、朝鮮半島経由で九州に渡ってきたのだという。

このときの騎馬民族の王が、のちに「崇神天皇」と呼ばれるようになる人物。


九州で力を蓄えた彼らは、4世紀中頃に畿内に進出すると、強大な王権を打ち立てたという。

江上説によれば、この時、九州から攻め上がってきた王が、応神天皇なのだという。

宇美八幡宮拝殿

江上波夫に続いたのが、1952年に水野祐が発表した「三王朝交替説」。


江上説と違うのは、水野説では応神天皇自身が、北方アジアから渡ってきた「大陸系騎馬民族」が九州に建国した、「狗奴国」の王その人だということ。


当時、畿内には崇神・成務・仲哀とつづいた王権があったが、九州から攻め上って、これを滅ぼしたのが応神の子、仁徳だと水野はいう。


水野説のポイントは、崇神に始まる畿内の「古王朝」と、応神に始まる九州の「中王朝」は「系譜的には無血縁関係」で赤の他人だという点。

要は「万世一系」の完全否定だ。

河内政権論(河内王朝論)登場

近畿中部の大古墳群

出典『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』

まぁさすがに今では江上や水野の説を支持する人はいないだろうが、4世紀後半の畿内に血統が異なる2つの王権が併存していたと主張する説は、バリバリの現役として生きている。


「河内政権(王朝)論」だ。


上の「図3」は、古墳時代前期から中期(250〜500年)に造営された「機内五大古墳群」の分布。


はじめは「箸墓古墳」に始まる奈良盆地東部の「大和・柳本古墳群」に展開した大型の前方後円墳は、350年頃から奈良盆地北部(奈良市)の「佐紀古墳群」、奈良盆地西部の「馬見古墳群」へと広がり、5世紀に入ると突如、山を越えて河内平野に移動した。


しかもそのサイズは奈良盆地の200〜300mをはるかに超える、400メートルオーバーというデカさ。


ここに大きな「断絶」を見た歴史学者は、河内に勃興した新興の王権が、奈良盆地の旧王権にとって変わって政権交替したと考えた。

これが「河内政権論」。

直木先生は一貫して、基本的に大阪平野を地盤とする有力者、豪族が制海権を握って強大となって新しく政権を河内の地に樹立したのだとおっしゃっておられます。

(中略)

ですから、河内政権論についてまとめてみますと、応神のころに大阪平野に基盤を持つ勢力が、当時の権力を奪取して、それまでの勢力に取ってかわったと考える学説というのが河内政権論であります。

(『検証!河内政権論』堺市)

『検証!河内政権論』

文献史学からの反論

河内政権論は仮説なので、もちろん反論はある。


文献史学だと、門脇禎二さんが一貫して懐疑的な立場をとられたが、多岐にわたるその論点のうち、ぼくら一般人にも分かりやすい事実を一つというと、この表か。

「河内王朝」期の陵墓・宮都所在地一覧

出典(『邪馬台国と地域王国』門脇禎二/2008年)

「河内王朝」の天皇は、応神天皇から武烈天皇までの11帝だが、このうち「宮都」を大阪平野においたのは、仁徳天皇・反正天皇の2帝のみ(応神天皇は行宮)で、他はみな奈良盆地・大和で執政している。


これだけを見れば、当時の天皇は基本的には大和に暮らしていて、いざ崩御となると河内に葬られた・・・というように思える。

考古学からの反論

畿内五大古墳群の消長

考古学、なかでも古墳を専門とする広瀬和雄さんの反論はこうだ。


まず、河内に勃興したという新興の王朝は、なぜ旧王朝のシンボルである前方後円墳を継承しているのか。


また、上の「表5」にあるように、河内政権の時代といわれる「古墳5期」から「7期」の間も、奈良盆地の「佐紀」や「馬見」でも前方後円墳が造営され続けていたのはなぜか。


しかも、奈良盆地と河内平野の古墳の間には、受け継がれ、発展していった要素が認められていて「断絶」がないという。

五大古墳群の展開と消長

(出典『天皇陵古墳を歩く』今尾文昭/2018年)

上の図は、考古学者の今尾文昭さんが作成されたもので、各古墳のサイズやルックスが視覚的にまとめられていて分かりやすい(「山辺・磯城」は今尾さんの命名で、「大和・柳本」を拡大したもの)」。


まず、最も古い「山辺・磯城」の「行燈山」と「渋谷向山」には「周濠」が見られるが、これは次世代の「佐紀」でも採用されている。


この「佐紀」で生まれたのが「造り出し」と「陪冢」で、これは河内の「古市古墳群」でも「百舌鳥古墳群」でも受け継がれている。


さらに、河内に最も早く築造された巨大古墳が「津堂城山」で、ここには「周濠」を囲む「周堤」が出現しているが、それは同時期に奈良盆地の「馬見」に築造された「築山」「巣山」にも採用されているのだという。


ぼくには河内と大和の古墳たちは、タテにもヨコにもつながっている、という印象がある。

畿内における墳丘形態と大型古墳群の関係

(出典『巨大古墳の出現』一瀬和夫/2011年)

あまりに専門的すぎて全く理解できず、ただの受け売りになるが、大和の古墳と河内の古墳の墳丘の形態が、複雑に絡み合って繋がっているというのが「図86」。


考古学者・一瀬和夫さんの作成によるが、「大和・柳本」の「崇神型(行燈山)」の墳丘形態は、「佐紀」を経由して「古市」の「応神陵古墳(誉田御廟山古墳)」に至り、同じく「大和・柳本」の「景行型(渋谷向山)」は、「馬見」を経て「百舌鳥」の「仁徳陵古墳(大仙陵古墳)」に受け継がれているのだという。


つまりは「河内政権論」の根拠となる二つの超巨大古墳には、最も古い「大和・柳本」で見られた墳丘形態の差異さえもが、差異のまんまに継承されているということのようだ。

佐紀陵山古墳の相似形

佐紀陵山古墳

(佐紀陵山古墳 写真AC)

奈良県奈良市にある、墳丘長207mの前方後円墳「佐紀陵山古墳」(4世紀後半)。


宮内庁が、垂仁天皇皇后の「日葉酢媛」のお墓というこの古墳には面白い話があって、西暦400年前後、この古墳の相似形と思わしき古墳が畿内に4基、丹後に1基、築造されているのだという。


その内訳はこう。

○兵庫県神戸市の「五色塚古墳」(194m)4C末

○大阪府岸和田市の「摩湯山古墳」(200m)4C末

○滋賀県大津市の「膳所茶臼山古墳」(122m)4C末〜5C初

○京都府京丹後市の「網野銚子山古墳」(201m)4C末〜5C初

○三重県伊賀市の「御墓山古墳」(188m)5C初〜5C前半


このうち、丹後の「網野銚子山古墳」について広瀬和雄さんは、その築造は中央政権による「顕彰」ではないかと書かれている。


何が顕彰されたかは不明だが、「新羅本紀」には346年、360年、393年に「倭」が攻めてきたとあるので、こうした海外遠征に兵を出した功績が顕彰された可能性はあるだろう。

津堂城山古墳の相似形

津堂城山古墳

(津堂城山古墳 写真AC)

西暦400年頃、河内の「古市」に初めて作られた巨大古墳が、208メートルの「津堂城山古墳」。


「津堂城山」に作られた「周堤」が、山を越えた奈良盆地「馬見」でも採用されている件は書いたが、実は墳丘形態においても「馬見」の「巣山」、「磯城」の「島の山」とは相似が認められると、考古学者の坂靖さんが書かれている。

(『大和王権の古代学』2020年)


また「津堂城山」では、仁徳陵からも出土して「王の棺」といわれる「長持形石棺」が見つかっているが、これも同時期の「佐紀」の「宝来山」にも採用されているのだという。


では、と「佐紀陵山古墳」の相似形を「赤」、「津堂城山古墳」の相似形と(棺が同じ宝来山古墳)を「緑」で、Google マップにマークしてみると、こんな感じ。

※丹後除く

関連性や分布から考えれば、これらを同時並行的に造営できた主体は一つだろう。


しかもその政権はその頃、朝鮮半島に大規模な軍を出していて、高句麗の好太王(広開土王)と戦争までしていたと、あちら側の記録に書いてある。


しかし「河内政権論」では、そんな重要な時期に、畿内では新旧政権による「内乱」が起きていたという・・・。

「内戦」してる余裕はあったのか

仁徳陵古墳

(大仙陵古墳 写真AC)

巨大古墳造りにしても、海外遠征にしても、政権は畿内と周辺の多くの豪族たちの力を借りて、事業を成し遂げていったことだろう。


しかし大和と河内の間で、政権が交代するような内戦を行っていて、人々は一つに団結できたもんだろうか。


ゼネコン大林組の試算によると、仁徳陵古墳の築造には延べ670万7000人が必要で、1日あたりのピーク時に2000人動員したとして、15年8カ月を要するのだという。


武力によって政権を奪った河内の新政権に、長年に渡って旧政権と共に歩んできた大和の人たちが、惜しげもなく物資や労働力を提供したりするもんなんだろうか。


西暦355年頃、武内宿禰が忍熊王を倒す〜紀伊勢力の勃興〜」につづく