出雲神話⑲下照姫と高照姫とカヤナルミと

出雲国風土記の下照姫

倭文神社・拝殿

鳥取県東伯郡で、機織りの神「建葉槌命(たけはづち)」を祀る、伯耆国一の宮「倭文(しとり)神社」。


タケハヅチは日本書紀・正伝で、大己貴神が隠遁したあとも抵抗を続けた星の神「香香背男(かかせお)」を服従させた神として記されるが、なぜ織物の神が星の神と戦ったかは不明らしい。

倭文神社・拝殿

『日本の神々 神社と聖地 山陰』によると、当社は「倭文神社」なのに倭文神やハタオリに関する伝承はほぼ皆無。

もっぱら安産・医薬の神として「下照姫(したてるひめ)」を祀ってきたそうだ。


シタテルヒメは日本書紀によると、「顕国玉(オオクニヌシ)」の娘で、味耜高彦根命(アジスキタカヒコネ)の妹。

国譲り交渉で降臨した「天稚彦(あめわかひこ)」と結婚して、夫の死後、「夷振(ひなぶり)」を歌ったという女神だ。


ところがこのシタテルヒメ、不思議なことに大己貴神の娘だという割りには、その家族が活躍する「出雲国風土記」には全く出てこない。


兄のアジスキタカヒコネが、実際には大和葛城の鴨の神だったように、シタテルヒメにも地元っていうか、祭祀氏族のいる土地がどこかにあるんだろうか。

摂津国の下照姫

比売許曽神社

(比売許曽神社 大阪府神社庁より)

シタテルヒメを祀るもっとも大きな神社といえば、摂津国の名神大社「比売許曽(ひめこそ)神社」だろう。

伯耆の倭文神社は一宮ではあるが、ごく一般的な「小社」にすぎない。


「延喜式」には「比売許曽神社」の亦の名は「下照姫」、「下照比売神社」の亦の名を「比売許曽神社」とあって、「比売許曽神社」は古くから「下照比売神社」ともいわれてきたそうだ。


そんで面白いことに、摂津にはシタテルヒメの夫、アメワカヒコの伝承地、つまりは地元だという説がある。

それだけでなく、天若日子伝承が摂津にかかわるからでもあろう。 


『日本書紀伝』(第29巻)で鈴木重胤は、天若日子伝承地を摂津とするが、松前健も摂津説をとる(「天若日子神話考」)。 


『万葉集』巻三に、「ひさかたの天の探女が石船の泊てし高津は浅せにけるかも」(292)とあり、『続歌林良材集』に引く『摂津国風土記』にも、「難波高津は、天稚彦天下りし時、天稚彦に属きて下れる神、天の探女、磐舟に乗りてここに至る。天磐船の泊る故をもちて、高津と号す」とある。


(『日本の神々 神社と聖地 3』1984年)

引用中の万葉集と風土記逸文には「天の探女(さぐめ)」の名が見えるが、日本書紀では下界から戻らないアメワカヒコの様子を探るためにタカミムスビが放った「名無し雉」を見つけて、アメワカヒコに報告したという人物だ。


『摂津名所図会』なる本によれば、この「天の探女」はシタテルヒメの別名だといい、どうやら摂津には、もともと太陽神アメワカヒコの「地上降臨伝説」があって、サグメ=シタテルヒメはその随行者だったと見られていたようだ。


『日本の神々 3』には、シタテルヒメは元は日神アメワカヒコの「日妻(ひるめ)」、つまりは「日の巫女」だったのだろうとも書いてある。

日本の神々 3

でもそうだとすると、摂津の側からみればアメワカヒコとシタテルヒメの夫婦関係の方が先にあって、そこに後付けでアジスキタカヒコネが「兄」としてシタテルヒメに繋がってきた・・・そういうことになるんだろうか。


要は、元々はシタテルヒメは、出雲ともオオクニヌシとも無関係だったのだということだ。

下照姫と高照姫

葛木御歳神社

(葛木御歳神社)

シタテルヒメの鎮座地を、ずばり書いている本もある。

平安時代の史書『先代旧事本紀』の「地祇本紀」だ。


そこでは大己貴神の系譜として、味耜高彦根神は「高鴨社」に、妹の下照姫命は「雲櫛(くもくし)社」に、鎮座とされる。


雲櫛社は、現在は奈良県御所市の「大倉姫神社」に比定されているそうだ。


つづいて系譜は、アジスキの弟の事代主神は「高市社」に、その妹の「高照光姫大神命」は「御歳神社」に、と書くわけだが、ミトシ神社は現在の「葛木御歳神社(中鴨社)」のことで、全国の御歳系神社の総本社。

もちろん堂々の名神大社だ。


そんな大きな神社で祀られていた「タカテルヒメ」、なんだかシタテルヒメに名前が似てるぞーと興味を持ち、いかなる神かと公式サイトをのぞきに行けば、なんとタカテルヒメはシタテルヒメと「同一神」だと書いてあるじゃないか。

高照姫命は、下照姫命と同一神とも云われています。葛城から当麻の辺りに下照姫命を祭る神社が多数あります。 

元々は「照姫」ということで、日神、あるいは日神を祭る巫女的な女性を神としたのではないかと思われます。 


古事記では「高比売命」。また、高照光姫命と書かれた文書もあります。

「五郡神社記」等では加夜奈留美命と同じと書かれています。​


公式サイト『葛木御歳神社』由緒、より)

むむ・・・公式サイトでは、タカテルヒメ=シタテルヒメはさらにもう一柱、「加夜奈留美命(かやなるみ)」なる神とも同一神だといい、もう話がドンドン広がっていく一方だ(笑)。


んで現在、そのカヤナルミを祀るのが、高市郡明日香村の名神大社、「飛鳥坐(います)神社」だ。

出雲国造神賀詞のカヤナルミ

飛鳥坐神社・拝殿

(飛鳥坐神社)

カヤナルミは今ではその素性が全くわからないらしいが、『出雲国造神賀詞』にアジスキ、コトシロヌシとともに「大穴持命(オオクニヌシ)」の御子神として登場する、由緒正しい神さまだ。


『出雲国造神賀詞』は奈良・平安のむかし、代替わりの出雲国造が上洛して天皇に奏上した「寿詞(よごと)」のことで、その中でカヤナルミは「飛鳥の神奈備」に鎮座して、皇室を守護している神だと述べられる。


その「飛鳥の神奈備」は元はもっと山の中にあって、いまの「飛鳥坐神社」は829年に現在地に遷座してきたものだという。


旧地のほうは今は「加夜奈留美命神社 」(明日香村)に比定されていて、カヤナルミの本霊はそこで859年に正四位下に叙されたということだ。

オオクニヌシファミリーによる皇室守護の結界?

ところでカヤナルミが話題に上るとき、だいたい上のグーグルマップのような図がでてくることが多い。


『出雲国造神賀詞』がいう、大穴持命ファミリーによる皇室守護の結界?の図で、三輪山の「大神神社」にはオオナモチの「和魂(にぎみたま)」が、宇奈提の「河俣神社」にはコトシロヌシが、葛城の「高鴨神社」にはアジスキタカヒコネが、そして飛鳥にはカヤナルミが、それぞれ配置されているのだという。


ただ、『出雲国造神賀詞』が文書で確認できるのは716年が初見とのことで、それだと天皇はもっと北の奈良市「平城京」におわすわけで、『神賀詞』奏上はもっと古く、「藤原京」か「飛鳥京」の時代に始まったのだろうと考えられてるようだ(緑色のマーク)。

神社の古代史

・・・でも、奈良盆地の南部を代表する神々が、もう空き家になって天皇のいなくなった皇居を守護し続けるって、何だか滑稽な図のような気もしてくる。

それを奏上し続ける出雲国造も、悪意がないとしたらやはり滑稽な印象が、ぼくにはある。


幸いにもプロのご意見も同じようで、歴史学者の岡田精司さんは『神社の古代史』(1985年)のなかで、神賀詞の「守護神」のくだりは「あとからの追加」ではないかと書かれている。

それくらい、全体の中でつながりが悪く、違和感を覚える部分なんだろう。


誰もいない皇居を守り続ける「大穴持命」とその「御子神」たち・・・。


そして、その状況を奏上し続ける出雲国造・・・。


そこにはどんな意図や、意味があったんだろうか。


長くなったので、次回「出雲神話⑳「出雲国造神賀詞」とオオクニヌシとオオモノヌシ」につづく