出雲神話⑱山陰・鳥取の「宗像三女神」とオオクニヌシ

山陰で祀られる宗像三女神

宗形神社・拝殿

鳥取県米子市宗像で「宗像三女神」を祀る「宗形神社」。

伯耆国に6つしかない式内社の一つだ。


でもなぜ山陰に宗像神が?


古事記の「系譜」によると、大国主神が「胸形」で長女の多紀理毘売命(タキリビメ)と結婚してもうけた子が、アジスキタカヒコネ兄妹だという。

北部九州と出雲との、古いつながりを表す神統譜だろうという話だ。

宗形神社・社号標

宗形神社のまわりには大小42基の古墳が広がっていて、神社はその中心に位置するんだそうだ。


そのうちリーダー格の前方後円墳、全長32mの「宗像一号墳」は、後円部に二基の横穴式石室を持つ北九州系で、築造年代は6世紀中ごろ。


おそらく宗形神社も同じ頃、北九州系の海人族による創立だろうと、『日本の神々 神社と聖地 7』には書いてある。


んー、でも6世紀じゃ、神話の元ネタというにはチト新し過ぎる。

出雲と宗像のつながりを示す、もっと古い史跡はないものか。

出雲と北部九州の考古学

荒神谷遺跡

それで思い出したのが、出雲市の「荒神谷遺跡」。


西暦100年ごろの遺跡とのことだが、こちらから発掘された16本の「銅矛」は、すべて北部九州で作られたものだという。


ただ残念ながら、銅矛を祭器の最上位に置く北部九州のなかで、宗像地域は「銅矛祭祀から外れた地域」なんだそうだ。

弥生時代後期の宗像からは、まだ「完形品」の中広型・広型銅矛は出てきていないという報告がある。

(「3世紀の列島内外の交流とツクシ」武末純一/2012年)


それじゃ、2世紀後半の「出雲王」の四隅突出型墳丘墓、「西谷3号墓」はどうだろう。


こちらも残念ながら、発掘で丹波・越・吉備の土器は合わせて78点(全体の35%)が出土しているのに、北部九州系の土器は見られないそうだ。

宗像ではないが、西に行った糸島市からは、山陰地方との強いつながりを示す遺跡が発掘されている。

九州最大の玉作りムラ、「潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡」だ。

九州では碧玉や瑪瑙の原産地がないから、玉作りは行われておらず、出土する碧玉や瑪瑙の玉は他所で完成された搬入品——そうした従来の定説を覆したのが、2002~03年に発掘された潤地頭給遺跡(福岡県糸島市)である。 


発掘区域内だけで、弥生時代終末期から古墳時代初め(2世紀初~3世紀半ば)の玉作工房跡が32軒、大量の碧玉原石や鉄製工具とともに出土したからだ。 

ただし、どうやらここで玉作りをしていたのは、出雲からの移住者達だったらしい。


(『出雲を原郷とする人たち』岡本雅享/2016年)

『伊都国』令和版・糸島市立伊都国歴史博物館 常設展示図録

(略)この遺跡では碧玉と水晶を中心に、メノウ、鉄石英、蛇紋岩の五種類の原石を使ってさまざまな玉を製作していたことがわかった。 


このうち、碧玉とメノウについては山陰から運ばれた可能性が高く、なかでも濃緑色の良質な碧玉は島根県松江市の花仙山で採掘されたものと考えられている。


(『伊都国』令和版・糸島市立伊都国歴史博物館 常設展示図録/2020年)

潤地頭給遺跡からは玉作りの原石だけではなく、山陰系の土器も多数出土していて、加工技術を持った出雲人たちがここで生活していたことが分かっているそうだ。


2世紀初~3世紀半ば(西暦100〜250年)頃というと、大穴持を奉斎する「プレ出雲氏」が四隅突出型墳丘墓に象徴される繁栄期に向かっていた時代のこと。


崇神天皇60年の条で、筑紫に出かけていたという「出雲振根」の行き先は不明だが、考古学からは今のところ、潤地頭給あたりと見るのが現実的なんだろうか。

潤地頭給遺跡から出土した碧石/出典『伊都国』

(潤地頭給遺跡から出土した碧石/出典『伊都国』)

宗像と出雲の「神郡」

考古学ではないが、宗像と出雲というと、いずれも「神郡」が認められていた点が共通している。


「神郡」は大化の改新のあと、律令制への移行中に定められた制度で、一郡まるごとが神社の所領とされた郡を指す。


奈良時代には、以下の神郡があったという

○伊勢国度会郡・多気郡(伊勢神宮)

○安房国安房郡(安房神社)

○出雲国意宇郡(熊野大社)

○筑前国宗形郡(宗像大社)

○常陸国鹿島郡(鹿島神宮)

○下総国香取郡(香取神宮)

○紀伊国名草郡(日前・国懸神宮)

日本の神々 7

その中でも、出雲と宗像にはある特例が認められていたようで、「同一郡における三等親以上の連任を禁ずる」決まりから、除外されていたらしい。

※文武天皇2年(698年)

三月九日 次のような詔をされた。


 筑前国の宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司(四等官)は、共に三等以上の親族を続けて任用することを許す。


(『続日本紀・上』講談社学術文庫)

この厚遇の理由について『日本の神々 7』には、宗像氏の場合は、天武天皇の長男の母の実家だから。

出雲氏の場合は、国譲り神話に象徴される現実での働きに対して、とあるが、何だか分かったような分からないような…。


・・・今後のテーマとしよう。

宗像大社・本殿

(宗像大社・本殿)

古事記と日本書紀の宗像三女神

ところで、今こうして出雲と宗像の関わりなんて雑談ができるのも、ひとえに「古事記」のおかげだといっていい。


日本書紀は宗像三女神を、胸肩君や水沼君が祭る「道主貴(ちぬしのむち)」といい、たぶん伊勢の「大日孁貴(おおひるめむち)」、出雲の「大己貴(おおなむち)」と合わせた「日本三大むち」に持ち上げる構想?などは匂わせるものの、宗像と出雲に特別な関係があるとは言っていない。


というか、そもそも日本書紀では大己貴神はスサノオの実子なので、同じくスサノオの娘である宗像三女神とは異母姉弟。男女の関係にはできない。

津島神社

(スサノオを祀る津島神社)

一方、古事記の大国主神はスサノオの6世孫の設定なので、宗像三女神との恋愛はOKだ。


ただそれだと別の問題が発生で、スサノオの6世孫を男系でたどると、なんと第2代「綏靖天皇」の御世になってしまう。

そんな時代にオオクニヌシがタキリヒメと結婚して、アジスキタカヒコネを生む・・・かなり変テコな話だ。


古事記は、すごく頭のいい人がメッチャ系譜にこだわって作ったという印象がぼくにはあるが、なぜ日本書紀のように単純にスサノオとオオクニヌシを親子にしなかったのか、はなはだ疑問だ。

素盞嗚神社

(スサノオを祀る素盞嗚神社)

なぜ古事記のスサノオとオオクニヌシは親子じゃないのか

その理由を、ぼくの乏しい知識から考えると、次の3点が思いつく。


①アマテラスからオオクニヌシを遠ざけたかったから

日本書紀の皇祖は主にタカミムスビで、スサノオは娘(栲幡千千姫)の「岳父」ではあるが、直接の血縁ではない。


しかし古事記は皇祖神をアマテラスにシフトしたので、スサノオの子だとオオクニヌシは「甥」。

いくらなんでも「甥」から国を奪うのは、非道に思えたか?


②オオクニヌシをスセリヒメと結婚させたかったから

スサノオの6世孫なら、スサノオの娘(須勢理毘売)と結婚しても問題ない。

義父となったスサノオに認められることによって、オオクニヌシは「葦原中国」の正統な後継者に…って、それ実の息子でも同じか(笑)。


じゃスサノオに認められることによって、「根之堅州国」の正統な後継者に…って、それも実の息子でも同じことか(笑)。


③オオクニヌシをタキリヒメと結婚させたかったから

スサノオの娘、宗像三女神の一人と結婚させることで、高志のヌナカワヒメとの婚姻が示す「越ー出雲」の日本海ラインに加え、「筑紫ー出雲」の日本海ラインもクッキリと浮き上がってくる。


これによってオオクニヌシの世界をヤマトの外縁に追い出し、より外部化できると考えたか?


日本書紀では言及がないアジスキタカヒコネの「母神」を筑紫の女神にすることで、すでに滅ぼした「葛城氏」が奉斎していた神を、あらためて大和から追放する意味もあるか?


・・・まぁアレコレ考えたところで、答えが出ない話か。

播磨国風土記の宗像大神

伊和神社

(伊和神社)

分からないついでに、「播磨国風土記」の「伊和大神」がオオクニヌシなのかどうかを再検討してみる。

黒田の里(中略)袁布山というのは、昔、宗形の大神、奥津嶋比売命が伊和大神の子を妊娠して、この山にやってきて、「私が出産するにふさわしい時がきた」と言われた。 だから、袁布山といった。

支閇岡というのは、宗形の大神が「私が出産するにふさわしい臨月になった」とおっしゃった。だから、支閇丘といった。


(『風土記・上』角川ソフィア文庫)

とりあえず2点、疑問がある。


まず、オキツシマヒメ(タキリヒメの別名)はなぜ、わざわざ播磨で出産しようとしたのか。


フツーは高志のヌナカワヒメのように、男神の通い婚で妊娠して、実家で出産するもんだろうし、それでなければ、せめて出雲のどこかで産むもんじゃないだろうか。


それに播磨国風土記では、伊和大神は「天日槍(アメノヒボコ)」と土地争いを繰り広げた人物だと描かれている。


そのアメノヒボコは、日本書紀には第11代垂仁天皇の御世、古事記には第15代応神天皇の御世に来日したと書かれてるので、風土記に従えば、伊和大神もそのいずれかの時代にスサノオの娘と結婚したことになってしまう。


そりゃー、さすがに時間感覚がデタラメ過ぎるわけで、ぼくは播磨国風土記「黒田の里」の記述は、土地に残されて語り継がれてきた伝承ではなく、当時の郡司による出来の悪い作り話だろうと思うのだっだ。



出雲神話⑲下照姫と高照姫とカヤナルミと」につづく