伊勢神宮と道教

〜太一・心御柱・天皇霊〜

雄略天皇と道教

吉野

吉野     写真AC

中国三大宗教のひとつ「道教」が、いつ、どのように日本に入ってきたかは定かでないそうだが、記紀をみる限り、5世紀後半の雄略天皇の時代には、その影響が確認できるようだ。


まず古事記では、吉野に行幸した天皇が土地の娘と結婚し、美しく舞う乙女を眺めながら歌った歌に「神仙」が出てくる。

呉床(あぐら)に座る 神仙の御手であるかのように

弾く琴の音に合わせて 舞う乙女

この神仙世界に永遠にいたいものだ


(『古事記』角川ソフィア文庫)

また日本書紀には、雄略天皇22年のこととして、大亀を得た「浦嶋子」が「蓬萊山」に行って「仙衆(ひじり)」を見て回ったという記事がある。


「神仙思想」は「老荘思想」と並ぶ道教の二枚看板で、ここに中国四千年の民間信仰を混ぜ合わせているのが、儒教や仏教と、道教との違い。


日本では「陰陽道」や「修験道」として体系化された一方、出所のはっきりしない雑多な民間信仰として根付いたものも多い。

例えば、日柄・方角・家相・相性・年回り・干支・霊符や御守り・正月の屠蘇や七草・端午の節句・茅の輪くぐり・お中元・七夕・てるてる坊主、なんてのが道教由来なんだそうだ(『道教の本』学研)。

「太一」と伊勢神宮

御田植祭

(御田植祭 写真AC)

上の写真は、伊勢神宮の別宮で、志摩国一の宮でもある「伊雑宮」の、「御田植祭」で使われる「忌竹」なる祭具。


「軍配うちわ」と呼ばれる下の「さしば」の真ん中に、大きく「太一」と書かれているのが見えるが、道教の最高神である「天帝」のことだ。


この「太一」は、式年遷宮の造営工事では頻繁に見かける旗だそうで、用材の伐採・運搬、お供え物の採取・輸送などのあらゆる場面で登場するのだとか。

このような古代中国哲学は、占星術的な天文学と深く結びつき、「太極」は北極星を神格化した「太一(たいいつ)」と重ね合わされて考えられるようになった。

(中略)

先の吉野(裕子)氏は、それを推古天皇の時代と推察し、それ以降、皇祖神と宇宙の大元の神・太一とが秘密裏に習合されるようになったと考える。

(『天皇の本』学研)

日本の道教遺跡をあるく

というか、道教研究の第一人者として知られる福永光司さんの『日本の道教遺跡を歩く』(2003年)によれば、「神宮」はもちろん、それを「内宮」「外宮」に分けることも、「神器」や「斎宮」「幣帛」などの言葉も、みな道教の神学に由来するものなんだそうだ。


ま、それは伊勢神宮を現在のかたちにして、式年遷宮をはじめた天武天皇と持統天皇のご夫婦が、深く濃く、道教にハマっていたと聞けば納得のいく話ではある。


神々が住む「高天原」の観念も、天武/持統の御世に創作されたというのは、歴史学の定説のようだ。

※ちなみに持統天皇の和風諡号は「高天原廣野姫天皇」だ。

道教にハマっていたのは、天武天皇のお母さん(持統天皇のお祖母さん)の斉明天皇(=皇極天皇)も同様で、日本書紀には、斉明天皇が道教寺院の「観(たかどの)」を造営した件や、皇極天皇が「四方拝」を行ったという記事がある。


現在の四方拝は、天皇の新年最初の行事として伊勢神宮への礼拝からスタートするが、平安時代の記録によると、当時は「北斗七星を拝む座」についた天皇が、七星のうち自分の生年にあたる星の名を7回唱えることから始まるという、かなり道教的な内容だったらしい。

伊勢神宮の謎

住吉大社

(住吉大社)

ところで伊勢神宮ってのはホントに不思議な場所で、皇祖神アマテラスを祭り、天皇以外の奉幣を禁止(皇后・皇太子もダメ)しておきながら、幕末まで一人の天皇も参拝したことがなかったのだという(明治天皇が史上初)。


だが日本書紀をよく読めば、第一回の式年遷宮を行った持統天皇でさえ、692年の2回の奉幣では、5月が「伊勢、大倭、住吉、紀伊大神」で、12月が「伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足」と、有力な他社と列挙の扱いでしかなく、現在のように伊勢が「別格」という意識は持っていなかった、という説もある(『古事記外伝』)。


また、伊勢神宮の祭祀は「庭上祭祀」といって建物の外の地面の上で行われるが、特に重要な「三節祭」において、明治以前は正宮(本殿)の床下の「心御柱(しんのみはしら)」の前に「由貴大御饌(ゆきのおおみけ)」を供していたのだという。


つまりは、アマテラスのご神体「八咫鏡」より、床下の「心御柱」の方が、重要視されていた可能性があるってことだ。

そこには、アマテラスとは「別の威力のある神が宿っている」(丸山茂)と考えられていたんだそうだ。

「心御柱」とは何か

『伊勢神宮の謎』(稲田智宏/2013年)

なんだか投げやりなタイトルなので、大して期待もせずに手に取った『伊勢神宮の謎』(稲田智宏/2013年)だったが、実はメッチャ面白い本だった。


現在の心御柱は直径27cm、長さ180cmほどの木の棒で、これが内宮と外宮の正宮床下に埋められている。


が、かつては長さは決められていなくて、式年遷宮のときの今上天皇の身長に合わせていたというから驚きだ。

次に江戸時代中期の『河北五十鈴翁日授』では、「寸法に決まりはない。榊の柱を箱に入れて京都に行き、ときの天皇の身長に合わせて印をつけ、それに合わせて柱をつくる」「天皇の身長だから心御柱は天皇の身体である」「今は五尺と決まっているが、これは景行天皇の身長といわれる」。

つまり心御柱とは「天皇の玉体(ぎょくたい)なり」(山本ひろ子)ということだが、この説には別の角度からの裏付けがある。


式年遷宮で埋められた心御柱は、次の遷宮のあとも放置され、合計40年が経ってから引き抜かれるというが、抜いた棒はどうしたのか。

なんと「お葬式」をあげたのだという。

役目を終えた心御柱はどうなるのかというと、『宝基本記』に「旧柱」についての記述がある。

それによれば、「その旧柱は宮域のうちで、人が足を踏みいれない清浄な霊地に納め奉り、神がいるかのように斎き敬う」という。


これだとよくわからないが、より具体的には鎌倉時代後期の「太神宮両宮之御事』に次のように記される。

「古い柱は荒祭宮の前にある谷に、葬送の儀式によって送る。この谷を地極谷(じごくだに)という。人は知らない秘事である」。

「天皇霊」という観念

三輪山

(三輪山 写真AC)

しかし、仮に心御柱が天皇の「玉体」だったとしても、次の式年遷宮までその天皇が生きているとは限らないわけで、その場合の「空位」をどう考えたらいいのか。


ぼくに思いつくのは、「天皇霊」の観念だ。


日本書紀によれば、第30代敏達天皇の10年(582年)、辺境を荒らして捕らえられた蝦夷の首領を処刑しようとしたところ、首領は三輪山に向かって永遠の服属を誓い、もしも叛いたときには「天地の神々と天皇の霊(天地諸神及天皇霊)」がわれわれを絶滅させるでしょう!と言っている。


ここで蝦夷がいう「天皇霊」は、例えば先代の欽明天皇のような個人の霊ではなく、歴代天皇の霊、全体を指しているようだ。

この脈絡における天皇霊からは、天皇の身体に入って天皇を天皇(カリスマ)たらしめる出入り可能な外来魂という性格は全く見えてこない。

このことに関して熊谷公男は、敏達紀にみる「天皇霊」とは、王権を守護する「歴代天皇の霊全体」を指すという認識を提示されている。


(『大嘗祭の考古学』穂積裕晶/2022年)

昭和の名作アニメに『イデオン』があるが、あれに出てくる知性の集合体「イデ」のようなイメージだろうか。


もしも古代人の考える天皇霊が「歴代天皇の霊全体」だったのなら、その「玉体」である心御柱も、式年遷宮時点の天皇個人を表してはいない可能性があるだろう。

天皇を形取ったものであれば、どの天皇でも同じなんだと。

持統天皇と伊勢

伊勢湾

(伊勢湾 写真AC)

それにしても、持統天皇はなぜ伊勢に神宮をつくったのか。

万葉集には、伊勢に関わる持統天皇の歌がのるが、これが歴史学の知見だけでは何が何だか良く分からない内容なのだという。

明日香の 清御原の宮に 天の下  知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡きし波に 潮気のみ 香れる国に 味こり あやにともしき  高照らす 日の皇子


(巻2―162)

この歌は、天武天皇の追善供養の最中に、持統天皇がみた夢を歌ったもので、福永さんによれば「日の皇子(天武天皇)は伊勢国におられる。うらやましいことだ」という解釈になるそうだ。


問題はなぜ、なにを持統天皇は「あやにともしき」=うらやましがっているのか、だ。


だが、そもそも伊勢とはどういう場所だったかといえば、アマテラスが「常世の浪がうち寄せる国」といって自ら撰んだ場所だった。

そこは「常世」の入口、道教を信奉する天武/持統の夫婦にとっては、神仙の住む理想郷だった。

天武天皇は今そこにいるから、うらやましい…。


道教の視点がないと、この時の持統天皇の「あやにともしき」の心は分からない、と福永さんは言われる。

伊勢の日の出

(伊勢の日の出 写真AC)

そしてそうやって伊勢を神仙の住む理想郷と考え、そこに歴代天皇が永遠の存在として生きていると考えたとき、伊勢神宮にまつわる「謎」のいくつかが氷解してくるような印象が、ぼくにはある。


なぜ20年毎に建て替えて、永遠の清浄を維持し続けているのか。

なぜ天皇以外の奉幣を禁じていながら、歴代天皇はだれも参拝に行かなかったのか。

なぜご神体の神鏡より、床下の木の棒が重要視されてきたのか。

宇治橋

(宇治橋 写真AC)

日本書紀によれば、持統天皇の6年、「伊勢大神」が天皇に「二つの神郡から納められる赤引絲35斤は、今年でなく来年の調役から免除させていただきたい」と交渉してきたという。


もちろん、伊勢神宮の神官が「神託」を奏上してきたものだが、天皇に納税の相談をしてくる「皇祖神」などいないわけで、このときの「伊勢の大神」はアマテラスではなく、また、持統天皇が住吉や大倭といっしょに奉幣したという「伊勢」は、皇祖神のおわす神宮のことではない。


一説によるとアマテラスのモデルは持統天皇その人だとも言うが、ならばアマテラスが伊勢で皇祖神に祭り上げられたのは、とうぜん持統天皇が崩御されたあとのことになり、今、持統天皇の構想とはぜんぜん違うものとして伊勢神宮が存在していたとしても、別に不思議な話ではない・・のかも知れない。

・・・ま、以上は「道教」というフィルタをかけて眺めてみた「伊勢」で、あくまでも一つの見方。


心御柱は「外宮」にもあって、内宮はすべて地中に埋まってるのに、外宮は半分以上が地上に出てるのは何故なのか・・・とか、心御柱のない「荒祭宮」でも庭上祭祀をするのは何故なのか・・・とか、伊勢の謎は深まるばかりだ。


生島足島神社のタケミナカタと諏訪大社「御頭祭」につづく