紀元前70年ごろ、神武天皇の即位
(古事記と日本書紀のニギハヤヒ)
神武天皇即位のころの畿内
長浜浩明さんの計算によれば、神武天皇が橿原で即位したのは紀元前70年頃のこと。
神武天皇はそれから30年間皇位につき、紀元前33年頃に63才で崩御されたという。
写真は2020年夏に見学した、大阪府和泉市・泉大津市の弥生ムラ「池上曽根遺跡」。
大型建築物は「いずみの高殿」と呼ばれ、神殿という説もあるが、用途はまだ不明らしい。
発掘された柱を年輪年代測定法で調べたところ、紀元前52年に伐採されたヒノキだと分かったそうだ。
神武天皇の時代の畿内には、こんな建物があったようだという話。
奈良県の「唐古・鍵考古学ミュージアム」でもらったパンフレットに載っていた、「楼閣が描かれた土器の写真」。
この土器の年代も、紀元前50年ごろだという。
「唐古・鍵ムラ」は神武天皇の皇居からは北に10キロほどの場所だ。
日本書紀のニギハヤヒ
ニギハヤヒを祀る「広瀬大社」
さて、日本書紀を素直に読んだとき、神武天皇のヤマト建国に最も功績があったのは、物部氏の始祖「ニギハヤヒ(饒速日)」だろう。
ニギハヤヒは神武天皇より早くに畿内へ「降臨」し、土豪ナガスネヒコ(長髄彦)の妹をヨメに貰い、「主君」として崇められていた。
おそらくそれは、ニギハヤヒが、「天つ神の御子」であることを表す「天羽羽矢」と「歩靭」を持っていたからだろう。
大和を目指す皇軍は、生駒山麓でナガスネヒコ軍に敗れて熊野に迂回、山を越えて宇陀に進み、またもナガスネヒコ軍とバトルになるが「しかし手ごわく、何度戦っても勝つことができなかった」という。
神武天皇はナガスネヒコに「天神の御子は、大勢いるのだ」といって、ニギハヤヒと同じ天上界の表徴「天羽羽矢」と「歩靭」を見せてやるが、ナガスネヒコは「畏れ、かしこま」るものの、軍備を解こうとはしない。
ここでニギハヤヒが登場し、ナガスネヒコに「神と人との区別を教え」て降伏を促したが、ナガスネヒコは従わない。
ニギハヤヒは天つ神が「深く心にかけて思われているのは、ただ天孫のことだけである」ことを知っていたので、ついにはナガスネヒコをぶっ殺してしまう。そして「多くの兵士を率いて帰順した」。
天皇は「もとより饒速日命は、天から降ったということを聞いて」いた。
今回、ニギハヤヒのとった行動は「真心を尽くした」と評価され、「その功績を褒賞して、寵遇」された。
古事記のニギハヤヒ
ニギハヤヒを祀る「磐船神社」(写真AC)
以上が『日本書紀』に書かれた、ニギハヤヒによる「国ゆずり」の顛末だ。
国を譲ったのは、オオクニヌシだけではなかったのだった。
ところが不思議なことに、「記紀」と並び称されることの多い『古事記』には、この一連の顛末についての言及がない。
まず天皇とナガスネヒコ(古事記では登美毘古)の間で交わされた、宇陀でのやり取りがない。ナガスネヒコを誰が殺したかも分からない。
古事記の該当部分はこう。
このように進軍していると、邇藝速日命が参上してきて、天つ神のご子孫に、「天つ神の御子が天降られたと聞きました。そこで自分も後を追って降ってきました」と申し、天上界の所属であったしるしの玉を献上してお仕え申し上げることとなった。
この邇藝速日命が登美毘古の妹の登美夜毘売と結婚して生んだ子は宇摩志麻遅命、これは物部連・穂積臣・綵臣の祖先である。
こうしてこのように、荒々しい神どもを平定し、服従しない人どもを追い払って、畝傍の橿原宮においでになって天下を統治なさった。
(『古事記』中村啓信)
見ての通り、ニギハヤヒという近畿土豪連合に君臨する「主君」から、神武天皇への「国ゆずり」という『日本書紀』の核心部分が『古事記』には存在しない。
だから『古事記』における神武天皇は、平和に暮らしてきた畿内の人々の暮らしを踏みにじり、殺し、土地を奪った「侵略者」になってしまう。
有名な津田左右吉博士による「記紀批判」すなわち、神武東征は"フィクション"だという思想の根本には、これを認めると皇室が九州から襲ってきた征服者になってしまうという危惧があったという。
他の民族の多くの国家の創建の場合に往々見られるような、或る民族の外部から来ってその民族を征服し、そうしてその上に君臨するようになった王室とは、全く性質が違うこと、即ち我が国は征服国家ではないということが、ヒムカには都が無かったという考え方によって、初めて明らかになるという点であります。
(1942年の津田事件裁判での上申書の一部『ここまでわかった!日本書紀と古代天皇の謎』新人物文庫より)
だがここまで見てきたように、『日本書紀』には明確にニギハヤヒの「国ゆずり」が書いてあり、天皇の尊い血統は武力に勝るのだと謳われているわけで、問題は『古事記』だ。
「記紀」とは言うものの、両者は目的も意図も、まるで別物だということだ。
ヒメタタライスズヒメの出自
ヒメタタライスズヒメを祀る「橿原神宮」
神武天皇がらみで、記紀で決定的にちがう点がもうひとつ。皇后ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)の出自だ。
日本書紀では、"出雲の神"とされるコトシロヌシがヒメの父親だが、古事記では"大和の神"のオオモノヌシがヒメの父親だとされた(※古事記では大物主神と大国主神は別の神)。
つまり、日本書紀によれば、第2代綏靖天皇には母を通して"出雲"の血が流れこんでいることになるが、古事記だと大和土着の血を取り込んだことになっている。
これはもう、まったく別の発想によるものだろう。
ニギハヤヒの「国譲り」や初代皇后の出自の扱いからは、古事記は神武天皇の「神聖性」を強く訴えているように、ぼくには感じられる。
ニギハヤヒ(物部氏)や出雲の存在は、神武東征にとっては「ノイズ」でしかないんだと。
※コトシロヌシが"出雲の神"かどうかについては、こちら(美保神社のコトシロヌシは出雲の神か)を。
二人の兄(稲飯命と三毛入野命)の死
(写真AC)
もう一点だけ、記紀のちがいを挙げておくと、東征の旅路で薨去した神武天皇の兄たちの件がある。
熊野沖で暴風雨にあい、海中に没していく皇子たちの言葉を「日本書紀」はこう残している。
「ああ、なんとしたことだ。わが祖先は天神、母は海神であるというのに、どうして私を陸で苦しめ、また海で苦しめるのだろうか」(稲飯命)
「母と姨とは、二はしらとも海神である。それなのにどうして、波を立てて私をおぼれさせるのか」(三毛入野命)
「天つ神」と「海神(わたつみ)」の融合という「日向神話」の存在意義を、台無しにするような皇子たちの恨み言を、日本書紀は何ともあけすけに掲載している。
だが、古事記は皇軍の海難事故じたいをカットしたうえ、兄たちの死はなぜか父「ウガヤフキアエズ」の条の一番ラストのところに、ひっそりと残すに留めるのだった。