葛城「磐之媛」の権勢と仁徳天皇の実年代

葛城の女、磐之媛

室宮山古墳

(出典『葛城の王都 南郷遺跡群』)

上の写真は、奈良県御所市に5世紀初頭に築造されたという前方後円墳で「室宮山古墳」。墳丘長238mは全国第18位。


5世紀前半に奈良県西部に勢力を広げた葛城氏の祖、「葛城襲津彦(そつひこ)」のお墓だと考えられているそうだ。


その葛城襲津彦の娘で、第16代仁徳天皇の皇后(正室)にして、第17代履中・第18代反正・第19代允恭の母になったのが「葛城磐之媛(いわのひめ)命」。


この人はたいへん嫉妬深い女性として有名で、日本書紀によれば、紀国への留守中に「八田皇女」を妃にむかえた天皇を恨むと、難波の皇居には戻らずに別居をつづけ、ついには「5年」も天皇に会わぬまま亡くなったという。

『謎の古代豪族・葛城氏』

ちなみに歴史学者の平林章仁さんによれば、皇居をスルーしたあとのイワノヒメの移動経路と歌謡からは、「紀伊国難波大津淀川・木津川山背筒城那羅山倭(狭義のヤマトで三輪山麓地域)葛城高宮」という交通路が浮かび上がるが、これぞ葛城氏の権勢の基盤のひとつである「水運」と「物流」のネットワークそのものを表しているんだそうだ。

(『謎の古代豪族・葛城氏』2013年)

なぜ磐之媛は皇后になれたのか

さて一般的には、葛城氏はイワノヒメが皇后になることで権勢を得て、その実家の権勢をバックにして、イワノヒメは天皇にさえ尊大な態度をとれた———と考えられている。


そしてそれに懲りたか、皇室もイワノヒメ以降、皇族以外の皇后は奈良時代の藤原氏(光明皇后)までとらなかったのだという。


そんな話を聞くと、そもそも何故イワノヒメが仁徳天皇の皇后になれたのかが不思議になってくるが、たぶん理由は簡単で、もともとはイワノヒメと結婚した「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)」が天皇になる予定がなかったからだろう。

宇治神社

(菟道稚郎子を祀る宇治神社 写真AC)

実は仁徳天皇の父、応神天皇も葛城の女性を「妃」にしていた。


日本書紀の神功皇后62年条「百済記」には、「沙至比跪」(ソツヒコ)の妹が皇宮に仕えているとあって、平林さんはこの「妹」を、古事記の応神天皇段に名前があがる「葛城野伊呂売(かつらぎののいろめ)」ではないかと考察されている。


ただし、このソツヒコの「妹」の時点では、古事記の10人の応神妃では最下位という地位に過ぎず、権勢というほどのモンはなかったことだろう。


それがソツヒコの「娘」になって一気に皇后の地位を得られたのは、ひとえに応神天皇が寵愛した皇太子「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」が、大鷦鷯尊に皇位を託して自殺してしまったことによる。


本来ならイワノヒメが嫁いだ相手は、他の皇子同様に「ナントカ王」の称号をもらって「宇治天皇」を支える人生を送るはずだった。


イワノヒメが産んだ、後の履中天皇・反正天皇も、数多の「傍流の皇族」に収まるはずだった。


それが、応神天皇が指名した皇太子の謎の自殺で、まさかの仁徳天皇即位、イワノヒメ立后、葛城氏の浮上———と流れが変わっていったという話だ。

『葛城の王都 南郷遺跡群』

葛城の王都「南郷遺跡群」

葛城氏の隆盛が、イワノヒメ立后のおかげであることを示すのが、"葛城の王都"「南郷遺跡群」の存在だ。


イワノヒメが立后されたのは、長浜浩明さんの計算では411年のこと。


丁度そのころ、葛城の地にはソツヒコのお墓と言われる「室宮山古墳」が築造されているが、その完成を待ったかのように5世紀前半代、それまで「散漫な」遺構や遺物しかなかった金剛山東麓に、「突如、さまざまな施設が計画的に建設」されていったと、考古学者の坂靖さんは書かれている。

(『葛城の王都 南郷遺跡群』2011年)


南郷遺跡群の遺跡範囲は、東西1.4キロ、南北1.7キロ、面積2.4平方キロにおよび、5世紀半ばとしては日本最大の集落遺跡だという(ちなみに4世紀前半の纒向遺跡は約3平方キロ)。


域内には朝鮮半島系の渡来人が多く居住して、鉄器生産を核とした手工業を行っていたんだそうだ。

『葛城の王都 南郷遺跡群』

(出典『葛城の王都 南郷遺跡群』)

「王の高殿」といわれる「極楽寺ヒビキ遺跡」なんてのも見つかっていて、南郷遺跡が室宮山古墳の築造後に発展した集落という経緯から、日本書紀がソツヒコの子とも孫ともいう「玉田宿禰」が高殿の「王」に想定されているようだ。


なお、昭和の昔から、葛城氏の勢力範囲を「馬見古墳群」まで含めて考える「大葛城説」と、御所市内だけに限定して考える「小葛城説」が議論を闘わせてきたそうだが、1992〜2004年の発掘調査の結果、葛城氏の遺構が南郷遺跡群に計画的に集約されていることが明らかになり、「小葛城説」が証明されたと坂さんは書かれている。

南郷遺跡群の変貌

『葛城の王都 南郷遺跡群』

(出典『葛城の王都 南郷遺跡群』)

さて、こうして渡来人の技術力を武器にして隆盛を誇った葛城氏の王都だったが、その全盛期はあんがい短かった。


地元の「橿原考古学研究所附属博物館」のサイトによれば、5C前半〜中期の「前半期」には渡来人の鉄器生産を核とした工業地域だった南郷遺跡群は、5C後葉〜6Cの「後半期」になると「大壁建物が各所に樹立されて、技術者系ではなく知識人系渡来人が主導する集落へと大きく変貌した」のだという(南郷遺跡群〔御所市南郷ほか〕)。


そのきっかけになったのはタイミング的に見れば、西暦457年に即位前の雄略天皇が、当時の葛城氏当主の「円大臣(つぶらのおおおみ)」を焼き殺してしまった事件になるんだろう。


坂さんによれば、南郷遺跡群の「王の高殿」からは赤い土に置きかわった柱が見つかっていて、これは火災の結果じゃないかと指摘する声があるのだとか。


5世紀中ごろの南郷遺跡群の「変貌」は、そうやって葛城の王都がヤマトの手に落ちたことを意味しているんだろう

母の実家を討つ允恭天皇

葛城氏の当主を殺害したのは第21代雄略天皇だけではない。


その父、第19代允恭天皇も5年(435年ごろ)、葛城の王都を完成させた「玉田宿禰」の居館を兵で囲み、捕らえたのちに殺害している。


問題は、イワノヒメの子である允恭天皇が殺したのは、母の実家の「おじさん(またはイトコ)」だということだ。こりゃ一体どうしたことか。


それで、允恭天皇が仁徳天皇とイワノヒメの間の子ではないという説もあるそうだが、もう一つ、允恭天皇が葛城氏の影響をあまり受けていなかった可能性も考えられるような気がする。


例えば、允恭天皇がまだ幼いうちに母のイワノヒメが崩御していた場合、葛城氏の影響を切り離そうと思えば可能だったんじゃないかと。


そうなると明らかにすべきは、仁徳天皇の実年代だろう。

『古代日本・謎の時代を解き明かす』

仁徳天皇の実年代

ぼくらに古代天皇の実年代を教えてくれた長浜浩明さんによると、残念ながら第16代仁徳天皇に限っては(一年で2回歳をとる)「春秋年」では計算が合わないんだそうだ。


中国や朝鮮の史書と照合することで「おおむね」実年代が計算できた神功皇后/応神天皇と雄略天皇のあいだにあって、仁徳天皇は春秋年でも44年の在位期間と、完全にハミ出してしまう水ぶくれ状態。


前後の天皇の実年代と整合させようとすると、その44年間は18年間に圧縮させる必要があって、それで西暦410〜428年を仁徳天皇の在位年とするのが、長浜さんの結論だ。

(『古代日本・謎の時代を解き明かす』2012年)


もしかすると、その後の書籍や講演なんかで長浜さんご本人による新たな解説がなされている可能性もあるが、ぼくなりに44年を18年に圧縮しようと思うと、以下。


①まず、日本書紀の仁徳天皇67年から87年の20年間には、何の事績も書かれていないのでカットする。


②のっけから「民のかまど」で始まるように、仁徳紀には「説話」が多く記載されている。説話には年代は重要ではないと思うので、いつでもいい出来事として、これらもカット。


③「八田皇女」をめぐる痴話喧嘩(?)は、仁徳天皇22年に始まって、イワノヒメが崩御する35年まで13年間も続いたことになってるが、これは不自然すぎるので2年ぐらいに圧縮する。


———という案配にザクザク切っていくと、何とか長浜さんが計算した在位18年間に近づけることができた。


それで葛城イワノヒメが亡くなった年代はというと、だいたい西暦421年ごろのことで、「宋書」にはじめて倭の五王「讃」が登場したころにあたる感じだ(個人の感想です)。


その時、414年生まれの允恭天皇はまだ7才。


すでに26才で皇太子に指名されている長兄(履中天皇)や、18才の三兄(反正天皇)に比べるとあまりに幼く、その後の養育環境次第では、母の実家を尊重しない青年に育つことも十分あり得る年齢のように、ぼくは思う。

古豪「大伴」「物部」の逆襲

『大和の豪族と渡来人』加藤謙吉

でまあ、さらに想像力を突っ走らせるなら、子ども時代の允恭天皇に葛城軽視の思想を植え付けることができたのは、履中〜允恭の御世に復活を果たした「大伴」や「物部」といった古豪の可能性もあるように、ぼくには思える。


仁徳天皇の時代には名前の消えていた「物部」は、履中紀では葛城グループの平群や蘇我と並んで名が挙げられているし、允恭紀では「大伴」も「大連」という重臣として復権している。


そんな、葛城の没落と入れ替わるような「大伴」「物部」の復活について、歴史学者の加藤謙吉さんはこんな風に書かれている。

では、なぜ、両氏がそのような職位に就いたのかというと、結局、井上(※光貞)氏が指摘されるように、彼らが雄略直属の軍事力を構成し、敵対勢力打倒の原動力となったからと考えざるを得ない。


しかも執政官はこの両氏にかぎられ、大和の在地土豪は就任していない。


すなわち大王に権力を集中し、大伴・物部を執政官とする軍政的な政治が行われ、葛城氏型の在地土豪たちは完全に政権の中枢から締め出されたとみられるのである。


(『大和の豪族と渡来人』加藤謙吉/2002年)

雄略天皇の段階では、葛城氏等は「完全に」締め出されていたというわけだから、そういった流れは父の允恭天皇の時代に始まった、とみても間違いではないような気がする。

古事記と日本書紀の「一言主神」

葛城一言主神社

(葛城一言主神社)

最後に、葛城氏の氏神「一言主(ひとことぬし)神」について、一言。


葛城山でこの神に出会った雄略天皇が、怖れ畏まって拝礼したことで、雄略天皇の御世にも葛城氏が権勢を維持していたという説があるが、それは古事記だけを見た場合。


日本書紀では両者の関係は対等で、「神」と対等だからとして雄略天皇が「有徳な天皇」だと持ち上げられる、真逆な展開が描かれている。


んでぼくは「古事記は蘇我氏の天皇記(帝紀)である」という説を支持しているので、古事記の一言主アゲは、葛城氏の後裔を称した蘇我氏による、葛城氏アゲの結果だと思っている。



筑波山と淡路島のイザナギ(履中天皇・允恭天皇)」につづく