住吉三神と神戸の古社

〜廣田・生田・長田〜

ツツノオとは何か

住吉神社楼門

山口県下関市で「住吉三神」を祀る、長門国一の宮「住吉神社」。


住吉三神は、「黄泉」から帰還したイザナギが、「筑紫の日向の橘の小戸の檍原(阿波岐原)」で禊ぎ祓えをしたときに、「少童(わたつみ)三神」らと一緒に生まれたという神だ。


「底筒男命」「中筒男命」「表筒男命」のツツノオ三神からなるが「筒男」が何を意味してるかは定説がなく、万葉集で星を「つつ」と読むので航海の目印、オリオンの三つ星だという説や、対馬の「豆酘(つつ)崎」の神だという説などは有力なようだが、残念ながらオリオンは冬の星座で夏場はほとんど見えないし、対馬の「豆酘」には肝心のツツノオ三神を祀る神社がないのだという。

安曇族と住吉の神

なおツツノオ三神は、玄界灘を支配する海人系氏族「安曇氏」が祀るワタツミ三神と同時に生まれているので、誕生地の「筑紫の日向の橘の小戸の檍原」は宮崎県ではなく、博多湾を指すというのが定説のようだ。


それで海洋学に精通した亀山勝さんは、海の神どうしで一見似ているワタツミとツツノオは、その役割が違うからこそ別の神とされたのだと、ご著書で書かれている。

(『安曇族と住吉の神』2012年)


船は、はじめは陸にあげて保管できる小型の「U字型」平底が一般的だったが、やがて大型化し、風上にも進める「V字型」尖底が主流になると、船を係留する「港」が必要になった。


港は、河口からさかのぼった川や、河口近くの潟湖(ラグーン)が利用され、ここに海の神(ワタツミ)とは違う「津(港)の神」が祀られるようになった。


これが「底筒男=底つ津の男」ら、住吉三神が誕生した経緯だというのが亀山説。


日本書紀では、神代の「一書」でワタツミとともに生まれたとされるツツノオだが、その本当の出番は神功皇后の時代になってから。


外征に向かうヤマトの大船団を守る新たな国家神として、時代の要請から誕生したのがツツノオ三神だったということか。

対馬

(対馬の津々浦々 写真AC)

西面していた長門の住吉神社

住吉の神が外征のための守護神だったことは、長門・住吉神社の社殿の向きからも窺うことができるようだ。


亀山さんの本であらためて気付かされたことだが、たしかに住吉神社の東には丘陵があって、瀬戸内海を見ることはできなかった。

住吉神社はあくまで、日本海を向いた神社だった。


それで『日本の神々 2 山陽・四国』を開いてみれば、いまは南面している住吉神社の本殿は、かつては西面していたという阪本健一氏の説が紹介されていた。


5区分された本殿のうち、主祭神の住吉三神がいちばん西に祀られていることと、宮司のすわる「祇候座(しこうざ)」が東を向いていることが、その根拠だということだ。


西面する住吉神社の視線の先には、壱岐と対馬の海が見えていた。

住吉神社本殿

ぼくが阪本説に同意できるのは、住吉神社が西面できることこそが、その当時の北や北東がヤマトにとって、すでに安全圏であることを暗に示しているような気がするから(背中を向けても大丈夫)。


日本書紀によれば、福井県敦賀市の「笥飯宮(けひのみや)」に滞在していた神功皇后は、クマソ征伐を決意した仲哀天皇に呼ばれて長門に向かっているが、この時、丹後や出雲といった「地域王国」からの抵抗を受けた様子がまったくない。


つまりは、そこらはもう「安全圏」だったんだろう。


神道学者の牟禮仁氏も、遅くとも4世紀後半の朝鮮出兵までには、ヤマトとの交流の結果として、出雲に「杵築大社」が創始されていたはずだと書かれている。

(『古代出雲大社の祭儀と神殿』2005年)


当然、出雲がヤマトに屈したのはもっと早い時期ということになる。

住吉神社 神功皇后

日本海から瀬戸内海へ

ところで、日本書紀の記述を「おおむね」歴史の事実だと思うぼくでも、さすがに神功皇后の「三韓征伐」は表現が神話的すぎて、正直、作り話だと思っている(その後の外征は事実だと思う)。


おそらく仲哀天皇の元々の目的は、「岡県主」や「伊都県主」、山門県の土蜘蛛「田油津媛」といった邪馬台国の残党狩りだったんだろう。

仲哀天皇が崩御したあとは、神功皇后がこれを完成させた。


それで瀬戸内海航路の安全がようやく確保できて、畿内からの外征が可能になった。


一方、その反対に丹後や若狭を起点にする日本海航路は価値を失い、5世紀以後は大きな古墳も造られなくなっていったのだろう。

「大津の渟中倉の長峡」の住吉三神

本住吉神社

(本住吉神社 写真AC)

さて、北部九州を平定して帰路に就いた神功皇后の耳に飛び込んできたのが、仲哀天皇の側室の子「麛坂(かごさか)皇子」「忍熊(おしくま)皇子」の反乱の報だった。


もちろん正室から生まれた応神天皇の即位を怖れてのことだったが、明石で兵を挙げたものの、兄の麛坂王が赤イノシシに食われるという凶事が起こり、弟の忍熊王は軍を「住吉」にまで退いた、と日本書紀には書いてある。


その頃、難波を目指す神功皇后の船もなぜか前に進めなくなっていて、「務古水門」で原因を占ったところ、皇軍に従軍していた守護神たちが、いまの神戸界隈での鎮座を望んでいるからだと判明した。


住吉三神(ツツノオ)が望んだのは「大津の渟中倉の長峡」で、定説では大阪市住吉区の現「住吉大社」の地だとされるが、亀山さんは、その場所には忍熊王の軍勢が駐留していたんだから、住吉三神が祀られたのは神戸市東灘区の「本住吉神社」辺りだろうと書かれている。


これは本居宣長と同じ結論らしい。

「長田国」の事代主尊

長田神社

(長田神社 写真AC)

コトシロヌシが祀られたのは、神戸市長田区の「長田(ながた)神社」。


祀るのは、山城国造・山背根子(ねこ!)の娘「長媛」さんだ。


なぜ葛城の鴨氏の氏神であるコトシロヌシが、神功皇后の守護神なのかは不思議だが、おそらく「三韓征伐」が「天つ神」からの「神託」、つまりは国家意思であることを表してるような気がする。


日本書紀でコトシロヌシが「神」として現れたのは三回で、一回目は言うまでもなく「出雲の国譲り」でオオクニヌシの代わりに返答する「息子」として。


三回目はわが国初の天下分け目「壬申の乱」で、天武天皇支持を伝えたとき。


なので「三韓征伐」はそれらに匹敵する国家の一大事なんだと、日本書紀は告げているように、ぼくには思える。


あるいは、神功皇后は九州で「大三輪社」を祀ることで兵力不足を解消したというが、そのとき馳せ参じてきた三輪氏や鴨氏の一族が、神戸に留まったというような話でもあったのかも知れないが、・・・よく分からない。

「活田長峡国」の稚日女尊

生田神社

(生田神社 公式サイト)

神戸市中央区の「生田神社」に祀られたのは、アマテラスの幼名とも妹とも言われるワカヒルメ。


祀るのは「海上(うなかみ)五十狭茅(いさち)」なる人物で、なぜか忍熊王の陣営にも「五十狭茅宿禰」の名が見えるが、似た名前の別人なんだろうか。


海上(うなかみ)氏は上総国(千葉県)の国造家として知られるが、一説によると伊勢北部にも勢力を張った氏族だという。

「海上」は要は「海部(あまべ)」なので、元々は海人の一族だ。

『生田神社』(加藤隆久/2005年)

『生田神社』(加藤隆久/2005年)という本によると、ワカヒルメの最初の名乗り「尾田の吾田節の淡郡に居る神」とは、折口信夫の研究によれば志摩国の「粟郡」の神だとされ、つまりは現在、志摩国一の宮「伊雑宮(いざわぐう)」で祀られている神のことを指すのだという(ここのロジックはチト難解で理解できず)。


伊雑の神は、今では正体が不明になってるそうだが、元を辿れば志摩の海部「磯部氏」が祀っていた、海人族の神だろうということだ。

「廣田国」の天照大神

廣田神社

(廣田神社 写真AC)

アマテラスが祀られたのは、兵庫県西宮市の「廣田神社」。

ただ、ここの祭主には違和感がある。


それは、男神のコトシロヌシには女性の長媛、女神のワカヒルメには男性の海上五十狭茅が祭主に選ばれているのに、なぜかアマテラスには、長媛の妹で、れっきとした女性である「葉山媛」が任命されているからだ。


それで思い出したのが、アマテラス「男神説」だ。

この神が男神ではなかったかという疑いは、すでに江戸時代に伊勢神宮側の学者の抱いたことでもあった。度会(わたらい)延経らの考証がそうである。


延経は皇太神宮の北にある別宮荒祭宮の祭神アマザカルムカツヒメの名は、ムカヒメすなわち正妻の意であり、これは元来男神としての天照大神の后神であろうという。


近代になってアマテラス男神説は、津田左右吉、折口信夫によっても唱えられ、また筑紫申真、岡田精司、また筆者などによっても、いろいろと展開されている。


折口信夫は、オホヒルメという原義は、「日女」ではなくして「日妻」すなわち太陽神の妻であるといい、男性太陽神天照大神に妻として仕える巫女がヒルメであり、斎王を指す語であるが、代々のこの巫女のイメージが祭神の姿に投影し、アマテラス即オオヒルメというかたちとなり、この神は女性化したのであろうという。


(「アマテラスの性」『日本神話の謎がよくわかる本』松前健/1994年)

日本神話の謎がよくわかる本

そういえば「斎宮」も女性だし、外宮の食事係「トヨウケ(豊受大神)」も女神だ。


『逆説の日本史』には、邪馬台国の卑弥呼はアマテラスだと書いてあったが、アマテラスがもともとは男神だったとしたら、それはとんだ見当違いの理屈になる・・・。


ま、男神説は脇に措くとして、ぼくがもっと気になったのは、ここでのアマテラスが稚日女尊や事代主尊と、まるで「同格」のように扱われていることだ。


例えば廣田に祀られたのが本当に皇祖神だというのなら、廣田はいま「神宮」に昇格しててもおかしくない。


もしかして、日本書紀では「天照大神」と書き換えられているものの、神功皇后の4世紀後半に廣田神社に祀られた神は、最初の名乗りである「伊勢の度会(わたらい)県の五十鈴宮の神」に過ぎなかったんじゃないだろうか。


アマテラスが、元々は伊勢の海人族が祀っていた地方神だった可能性も、昔から男神説と同じように検討されてきたという。

この神宮の鎮座する度会(わたらい)も、『皇大神宮儀式帳』に「百船の度会県」といわれているように、漁船の行き交う船着き場であったし、外宮の禰冝家であって、伊勢国造家と同族といわれる度会氏も、また内宮の大内人という神職の家であり、サルダビコの裔だと伝える宇治土公(うじどこ)氏なども、ともにもとは磯部(いそべ)氏と呼ばれ、 いわば漁民の長ともいうべきものであった。


(中略)アマテラスの前身と思われる前述の天照(あまてる)神、天照御魂神も、ほとんどが海人に関係している。


アマテル神をまつる豪族の尾張氏も別名を「海部(あまべ)氏」と呼ばれていたし、その分族の多くが、凡海の連、大海人部直などと海人系氏族であったことも、間接に参考となろう。


(「アマテラスの出自」『日本神話の謎がよくわかる本』松前健/1994年)

住吉大社 第三、第四本宮

(住吉大社 第三、第四本宮)

ダラダラと長くなってきたので話を整理すると、朝鮮半島への外征が始まって、「港」の神として新設されたのが、本住吉神社の筒男三神。


こちらはのちに大阪市住吉区に遷座して、国家祭祀の対象になった(833年の令義解には天つ神として、伊勢、山代の鴨、住吉、出雲国造の斎く神等と書かれているそうな)。


廣田神社には「伊勢」の海人の神、生田神社には「志摩」の海人の神が祀られたが、おそらくは「紀伊」から出発した仲哀天皇の遠征軍に、水軍として協力したことへの恩賞とか顕彰、あるいは瀬戸内海での拠点(営業所?)のような意味があったんだろうか。


長田神社には託宣の神が祀られたが、・・・これは理由がまったく分からないw。


応神天皇の皇居(宮都)は河内か、大和か」につづく