応神天皇の皇居(宮都)は河内か、大和か

 〜応神天皇陵はどこか〜

角鹿の笥飯大神と応神天皇

氣比神宮・大鳥居

福井県敦賀市の越前国一の宮「氣比神宮」。


近江の高穴穂宮で即位した14代仲哀天皇は二年、皇后に立てた気長足姫尊(神功皇后)と「角鹿」に行幸して、「笥飯宮(けひのみや)」を行宮にしている。


時は流れて神功皇后13年(長浜浩明さんの計算だと362年頃)、皇太子時代の応神天皇は武内宿禰に連れられて、角鹿の「笥飯大神」を参拝している。


九州で生まれた応神天皇には敦賀は何の縁もゆかりもない土地だったが、日本書紀としては父・仲哀天皇との親子関係を、ここで強調しときたかったのかも知れない。

氣比神宮・拝殿

そういえば、応神天皇は仲哀天皇までの皇統譜とは無関係の九州の「王」で、その子の仁徳天皇が4世紀の末に東遷してヤマトを滅ぼし、政権を乗っ取ったという『逆説の日本史(1)』(1993年)は、9年2月の仲哀天皇の死と同12月の応神天皇の誕生は「作為的に数字を合わせたような臭いがプンプンしている」と書いているが、これは井沢氏の勘違いだ。


というのも、日本書紀には神の言葉として、神功皇后が応神天皇を懐妊したのは8年9月のことだと明記してあるからだ。


「十月十日」どころか、応神天皇は約15ヶ月も胎内にいたというわけで、日本書紀はセコい工作なんて何もしていない。

堂々と「聖母」の奇蹟を語ってるだけなので、変な勘ぐりをする方がよっぽど恥ずかしいように、ぼくには思える。

皇居と天皇陵は別の場所にある?

『古代日本の地域王国とヤマト王国・上』

ところで、井沢氏が追随した水野祐氏の「応神天皇・九州王朝説」はさすがに息絶えて久しいものの、応神天皇を初代とする「河内王朝(政権)論」を支持する学者さんは、結構いらっしゃる。


ただ問題なるのは、たしかに「河内王朝」の時代の天皇陵は、多くは河内に造られてはいるが、肝心の皇居はほとんどが大和にあるわけで、それで「別王朝」といえるのかどうか・・・ということらしい。


一貫して「河内王朝」に懐疑的な立場をとられた歴史学者、門脇禎二さんがまとめられた一覧がこれ。

「河内王朝」期の陵墓・宮居の所在地一覧

(出典『古代日本の地域王国とヤマト王国・上』(2000年)

要は、お墓があるからといって、天皇がその近くで政治を行ったわけじゃないということのようだ。


実際、「河内王朝説」だと第2代(初代?)になる仁徳天皇は、堺市にある日本最大525mの前方後円墳「大仙陵」に眠るとされるが、皇居は大阪市中央区の「高津宮」なので、その距離は直線で10キロ以上離れている。


ちなみに日本書紀によれば、仁徳天皇は67年に難波の皇居から河内の石津原まで「行幸」し、自ら陵地を選定したんだそうだ。


他にも近江の高穴穂宮で執政した13代成務天皇も、お墓は近江ではなく、奈良の「佐紀石塚山古墳」に治定されている(個人的には渋谷向山古墳だと思う)。

稚桜神社

(桜井市の稚桜神社 桜井市観光協会サイト)

「河内王権論」を唱えているのはプロの学者さんなので、基本的には根拠のない空想を語ることはないはずだ。


それじゃー、河内に応神天皇の宮都があった根拠はといえば、逆に日本書紀には即位後の応神天皇がどこに皇居を置いたかが書かれていない・・・こともあるのかも知れない。


こういう場合は(仲哀天皇も同じだが)先帝の都を引き継いだとされるのが常のようで、応神天皇は神功皇后の「若桜宮」(奈良県桜井市)で即位したことになってるが、いやいや河内のどこかで即位した可能性だって残されているのだ、何も書かれてないだけに。


ただ日本書紀を読む限り、ぼくは応神天皇の皇居はやはり奈良盆地の南部にあったように思える(理由は以下に)。

渡来人と皇太子

於美阿志神社・拝殿

上の写真は2023年春に参詣してきた式内社で、奈良県高市郡明日香村に鎮座する「於美阿志(おみあし)神社」。


祭神は、渡来系の大氏族「東漢(やまとのあや)氏」の祖、「阿知使主(あちのおみ)」。


阿知使主は、応神天皇20年(399年)に一族郎党を引き連れてわが国に帰化したと日本書紀にあるが、一説によると応神天皇15年に百済から来た「阿直岐(あちき)」と同一人物だともいう。


阿直岐は、百済王の遣いとして良馬二匹を献上してきた人物で、応神天皇は阿直岐にその飼養を掌らせたうえ、寵愛する皇子「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の経典の師にしたという。


このとき阿直岐が厩舎をもうけた場所が、第4代「懿徳天皇」と第8代「孝元天皇」が皇居を置いたという「軽」の地で、いまの橿原市大軽町のあたりと伝わるそうだ。

橿原神宮前駅

(写真AC)

個人の感想にすぎないが、ぼくには応神天皇が、百済から贈られた貴重な名馬と、最愛の息子を任せた「阿直岐」から、遠く離れた河内に住んでいたとはチト考えにくい。


せいぜいが「軽」から4キロほどの「若桜宮」か、できればもっと近くに住みたい(住まわせたい)と思うんじゃないだろうか。


もう一つ気になるのが、日本書紀に記された応神天皇の「行幸」先で、「近江国」「淡路嶋」「吉野宮」「吉備」に加えて「難波」があること。


これ、もしも天皇が河内に住んでいた場合、わざわざ「行幸」と書くような距離なんだろうか。


やはり応神天皇は奈良盆地に住んでいて、難波までは遠かったので「行幸」だったんじゃないか・・・などと考えていたら、次の難波在住の仁徳天皇の時代は「(大阪湾の)大津」や「(河内の)百舌鳥野」といった近場も「行幸」とされていて、orz・・・。

キャスティングボートを握る馬見勢力?

古代豪族と大王の謎・表紙

先日、歴史学者の水谷千秋さんの『古代豪族と大王の謎』(2019年)という新書を読んでいたら、こんな説が紹介されていた。

田中氏によれば、4世紀中ごろから後半にオオヤマト古墳群から佐紀古墳群へと政権が交代していく中で、馬見古墳群の首長たちは、その「キャスティングボート」を握っていたのであった。

(「第二章 豪族の始まり」)

考古学者の田中晋作氏によれば、4世紀後半に「オオヤマト(大和柳本)勢力」から大量の「三角縁神獣鏡」を受け取っていた「馬見勢力」は、一方で「佐紀勢力」からも新型の祭祀品などを提供されていたのだという。


それで両勢力からラブコールを送られていた「馬見勢力」が「佐紀勢力」を支持したことで、オオヤマト勢力は政権を失い、佐紀勢力が「大王(おおきみ)」を輩出する展開になったんだそうだ。

近畿中部の大古墳群

(出典『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』今尾文昭/2014年)

この田中氏の説が、政治勢力 = 墓域というお考えに基づいているのは明白だろう。


畿内の天皇陵は、4世紀半ばに奈良盆地東部の「オオヤマト(大和柳本)」から北部の「佐紀」に移り、5世紀には山を越えた河内の「古市」や「百舌鳥」に移っていったので、「政権」も同じように移っていったとお考えなのだと思う。


でも本当に天皇陵の移動から、政権の交代までをも読み取ることは可能なんだろうか。


※事実誤認がありました。こちらにて訂正。

畿内5大古墳群の消長

(出典『前方後円墳国家』広瀬和雄/2003年)

考古学者の広瀬和雄さんが言われるように、前方後円墳の巨大さの理由が、政治的に「見せるため」に造られたお墓だからだとしたら、もっとも重要なのは(埋められてしまう副葬品ではなく)その外観だろう。


すると佐紀はオオヤマトから「周濠(しゅうごう)」や「立地」を引き継いでいるし、佐紀で始まった「造り出し」や「陪冢」は、馬見にも古市にも百舌鳥にも受け継がれていることが分かる。


要は古墳を進化させようとする巨大な流れには一貫性があって、地域による違いはない。


だから、それらを生み出す「権力」も「一系的」で、ここから「政権交代」を読み取ることは難しいと広瀬さんは言われる。


4世紀末にはじめて、河内平野の古市古墳群に造られた巨大前方後円墳、藤井寺市「津堂城山古墳」(208m)では、新機軸として周濠を囲む「周堤」が登場しているが、これはほぼ同時期の馬見古墳群「築山古墳」(220m)や「巣山古墳」(210m)でも採用されてるんだそうだ。


たとえ別の古墳群に属していても、それらは一つの大きな力で動かされる進化の中にいるという、好例だと思う。

天皇を支えた政治グループの交替

津堂城山古墳

(津堂城山古墳 写真AC)

ただ、政権は一つだが墓域だけ移動した説の場合でも、天皇を支えた「政治グループ」の交替はあったようだ。


日本書紀によると、第11代垂仁天皇(長浜浩明さんの計算で在位241〜290年頃)の時代には、天皇の重臣として「阿倍」「和珥」「中臣」「物部」「大伴」の名が挙がっている。


おそらく、このメンバーが初期の「大和・柳本」つまりは「纒向」時代の政治グループなんだろう。


それが神功皇后(同在位356〜389年頃)の時代になると「大臣」の「武内宿禰」が頭ひとつ抜け出た下に、「中臣」「大三輪」「物部」「大伴」の名が挙げられている。


ただその時代、神功皇后を支えたのは実家である「息長氏」や、将軍・武振熊(たけふるくま)を輩出した「和珥氏」など、近江から山城の勢力だという説もあって、それを「佐紀」の政治グループだと考えることも可能だろう。

軽里大塚古墳

(軽里大塚古墳 写真AC)

そしていわゆる「河内政権」の応神・仁徳の時代になると、もう初期からの「大伴」「物部」「阿倍」なんて名前は全く出てこない。

出てくるのは、武内宿禰の"息子"たち「葛城」「平群」「紀」「蘇我(石川)」などだ。


武内宿禰が(河内に近い)紀伊に縁が深い人だったところから察するに、この人たちが「百舌鳥」の政治グループのメンバーだったんじゃないだろうか。


葛城襲津彦の娘、磐之媛が仁徳天皇の皇后になり、履中・反正・允恭の三帝を産んでいるが、このうち仁徳・履中・反正のお墓が百舌鳥の三大古墳だろう。


一方、百舌鳥より内陸にある「古市」は、応神陵以来、允恭陵まで飛んでいるので、応神・仁徳・履中のあいだ「干され」、允恭のとき復権した古豪「大和・柳本グループ(大伴・物部・中臣ら)」の新天地だったんじゃないかと思う(個人の感想です)。

応神天皇陵はどこか

山辺磯城古墳郡と佐紀古墳群、古市古墳群、百舌鳥古墳群の展開と消長

(出典『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』今尾文昭/2014年)

最後に、古代史好きなら誰でもやる遊びということで、5世紀の天皇陵の内訳を考えてみた。


と言っても、上の方に貼った文献学者・門脇禎二さん作の「陵墓・宮都所在地一覧」に書かれている陵地に、考古学者・今尾文昭さんの「図49」の巨大前方後円墳を機械的にマッチさせてみただけの単純作業。


応神天皇なら、古市に一番最初の巨大前方後円墳だから・・・仲津山?といった案配。


第15代 応神(古市)仲津山270m 

第16代 仁徳(百舌鳥)百舌鳥ミサンザイ360m

第17代 履中(百舌鳥)大山486m 

第18代 反正(百舌鳥)土師ニサンザイ300m

第19代 允恭(古市)誉田御廟山425m

第20代 安康(佐紀)ウワナベ280m 

第21代 雄略(古市)市野山230m 

第22代 清寧(古市)軽里大塚(白鳥陵)200m 

第23代 顕宗(馬見)川合大塚山215m 

第24代 仁賢(古市)岡ミサンザイ242m 

第25代 武烈(馬見)狐井城山140m


んー、やっぱ仁徳天皇と応神天皇が1位2位の方が落ち着くかなー (笑)。

でも日本書紀での記述の長さと、古墳の大きさに相関関係があるとは 限らないし・・・。


蝦夷・海人・国樔人と武内宿禰の「盟神探湯(くがたち)」につづく