出雲神話⑩アメノホヒと出雲国造家の誕生
〜四隅突出型墳丘墓の終焉〜
能義神社のアメノホヒ
島根県安来市で「天穂日(アメノホヒ)命」を祀る「能義(のき)神社」(2022秋参詣)。
出雲国風土記の「四大神」の一柱に「野城大神」の名が見えるが、それとこちらの祭神との関係については不明だという。
アメノホヒは日本神話で、アマテラスとスサノオの「うけい」から2番目に生まれた男神で、日本書紀・正伝によれば「出雲臣・土師連の祖」。
孫のニニギを葦原中国の君主にしようと考えた皇祖タカミムスビに、諸神から推薦されて地上平定を命じられた天上界のエースだったが、大己貴神に「おもねりこびて」3年経っても復命しなかった・・・というのがヤマト側のいうアメノホヒ。
しかし出雲側の主張では、地上に降臨したアメノホヒの子によって地上は平定され、大穴持大神(オオクニヌシ)は国譲りに同意したとされている(出雲国造神賀詞)。
もちろんアメノホヒは神話上の人物なわけだが、実際の歴史の中に、そのモデル?を探すことはできるんだろうか。
前回の記事では、西暦100年ごろまでに出雲国の大原郡あたりの山間部で、他に先駆けて地域の統合に成功したグループが、「大穴持命」に統合された神を奉じて平野部に進出していった・・・という歴史を考えてみた。
彼らは青銅器祭祀に別れを告げ、墳丘墓での祭祀にシフトすると、その勢力を東に拡大していった。
「妻木晩田遺跡」の四隅突出型墳丘墓
鳥取県米子市から大山町にまたがる「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」。
遺跡の規模は、あの「吉野ヶ里遺跡」の約3倍で、これまでに約450棟の竪穴住居跡や約510棟の堀立柱建物跡のほか、複数の墳丘墓群が見つかっている巨大な弥生ムラだ。
約300年続いたムラの最盛期は、いわゆる「倭国大乱」時代の西暦180年頃。
その当時の妻木晩田ムラのリーダーのお墓だと見なされているのが、「仙谷1号墓」という一辺15mの「四隅突出型墳丘墓」だ。
もちろん、その背景には出雲からの影響があったようだ。
墳丘の規模が墓の主の実力を反映しているとみるならば、遺跡内最大規模の墳丘墓が、最盛期を迎える直前に築かれていることには大きな意味がある。
想像力をたくましくすれば、仙谷1号墓に眠る人物こそが、山陰随一の規模を誇る大集落へと「妻木晩田」村を導いた立役者であり、最盛期の村を統治したのはその後継者たちではなかったのか。
四隅突出型の墳丘が採用されていることから、この墳丘墓の主は出雲地域と関係を背景に、強力なリーダシップを発揮していたのではないだろうか。
(『日本海を望む「倭の国邑」妻木晩田遺跡』濵田竜彦/2016年)
安来市の四隅突出型墳丘墓
出雲と米子のあいだの安来にも、四隅突出型墳丘墓は造られた。
出雲では西谷墳墓群に対するように、東部(安来市)の仲仙寺墳墓群などでも「よすみ」が造られました。
東西出雲の「よすみ」は形も石の並べ方もよく似ており、このころ「出雲」という大きな地域のまとまりが生まれていたのでしょう。
(『出雲弥生の森博物館展示ガイド』2010年)
ただ、出雲のそれと安来のそれでは、細かく見れば異なる部分も多いので、学者の中にはそれぞれの地名をとって、出雲の「西谷王朝」と安来の「荒島王朝」が並立した時代を想定する人もいる。
だが、それでも3世紀に入ってからは「西谷9号墓」という大規模な墳墓が築かれて、出雲全域がひとつの勢力に統合されていったことが分かるのだという。
ところが、弥生時代終末期につくられた「西谷王朝」最後の王墓である西谷9号墓は、空前絶後の規模を誇り墳丘裾まわりの配石構造が一部で三段につくられるなど、それまでの王墓との格の違いを強調するかのような特徴をもつ。(中略)
こうした様相から想像すると、西谷9号墓の被葬者は、安来の「荒島王朝」をも傘下に組み込み、 ついに出雲全体の覇権を握ることになった人物、という可能性が考えられる。
しかし、「西谷王朝」の栄光もここまでだった。西谷9号墓を最後に、この地域から大型墳墓は姿を消してしまう。
(『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』渡辺貞幸/2018年)
四隅突出型墳丘墓の終焉
ところが引用にもあるように、3世紀前半の9号墓を最後に、出雲全域で四隅突出型墳丘墓の築造はいきなり終焉してしまった。
論より証拠で、弥生時代後期から古墳時代の終わりまでの、出雲のお墓の変遷を図にしてみると、こんなかんじだ。
(上が250年までで弥生時代、下が250年からで古墳時代)
さてさて、3世紀前半から半ばの出雲に、いったい何が起こったんだろう。
どうやらかなりキナ臭い状況があったようで、考古学からはあれこれFACTが提出されているが、ぼくが読んで面白かったのが次の二点。
出雲の「高地性集落」と土器
まずこの頃の出雲に、近隣地域の動向とは関係なく「高地性集落」がつくられたこと。
倭国乱の時期には全国的に多くの高地性集落がつくられる。
しかし出雲では一時期おくれ、倭国乱がおさまる後期末(三世紀中ごろ)に多い。
この時期は西日本各地で領域を越えた人の交流が始まり、環壕集落や高地性集落は姿を消していくと考えられているが、出雲ではこの頃が対外的に緊張した時期のようである。
(『出雲国風土記と古代遺跡』勝部昭/2002年)
もう一つが、それまで多かった吉備の土器が消え、畿内系の土器が増えたこと。
イナバ・ホーキ(因幡・伯者=鳥取県)を仮にイズモ世界として話を進めると、イズモにはタニハ(丹波)、タジマ(但馬)、コシ(越)、キビ(吉備)の人々が往来していた。(中略)
2世紀末(鬼川市三式期)のキビ系土器はイナバとイズモで増量し、とくにイズモ西部の王墓である西谷3号墓(島根県出雲市)にはキビ系の特殊壷・特殊器台が供献される。(中略)
3世紀前半(纏向三類期)になると、キビ系土器はイズモに姿を見せない。
代って畿内系土器がイズモに登場し、三世紀後半へと継続する。島根半島中枢部の鹿島町南講武草田遺跡が一つの典型である(中略)
(『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』石野博信/2010年)
というかんじで、ふたつのFACTを綜合してみれば、ぼくには出雲と畿内の間でなんらかの軍事的な衝突があったように読めるんだが、実はそれらしきことは日本書紀にも書いてあったりする。
第10代崇神天皇の60年からはじまる、「神宝」の提出をめぐる出雲の内乱だ。
日本書紀に残る出雲の「内乱」
(能義神社 本殿)
一説によると、古代において神宝を奪われることは、部族の降伏を意味したのだそうだ。
このように古代では武力で平定するのと、呪禱で祈り倒そうという行為が一体であったとなれば、征服したら必ずそこの豪族の持っている神宝を取り上げることが重要になります。
(中略)彼らの持っている守護神の象徴になるような大事なもの、そこに国魂がひそんでいるものと考えていた。
それで降伏した豪族には必ず神宝を差し出させるのです。
(『神社の古代史』岡田精司/1985年)
出雲国造家の誕生
さてそうなると、振根の弟たちは自らヤマトに国を売ったようなものだろう。
というのも「先代旧事本紀」という史書によれば、振根の「飯入根」殺害をヤマトに報告して四道将軍を呼び寄せた「甘美韓日狭」の子「宇迦都久怒(鸕濡渟)」こそが、初代の出雲国造に就任したと書いてあるのだ。
フツーに考えれば、これは「恩賞」だろう。
出雲国造家に伝わる系図では、ウカズクヌは第12代国造と書かれているが、これはアメノホヒが皇室の祖(アメノオシホミミ)の実弟とされることから、皇室と世代を合わせただけのことだと思う。
そしてその当時すでに、弥生のカミ祀り(青銅器祭祀)を捨てて(埋めて?)、「首長墓の祭祀」に移行していた出雲の文化を考えると、初代国造ウカズクヌが祀るべきものは実在した人間、それも旧勢力から出雲の実権を奪って手渡してくれた人間・・・つまりは父の「甘美韓日狭」こそがふさわしいと、ぼくには思える。
そして、結果的にヤマトの出雲攻略の先兵となってしまったウマシカラヒサには、アメノホヒのイメージが完全に重なっているように、ぼくには感じられるのだった。
(出典『出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』)
オオクニヌシの誕生
最後の四隅突出型墳丘墓「西谷9号墓」の被葬者は、おそらく「出雲振根」の先代の族長なんだろうと、ぼくは思う。
その人は、出雲平野から出雲全域を治め、さらには伯耆や因幡、越(こし)にまで影響を及ぼした大人物で、まさに「オオクニヌシ」といえるような存在だったのだろう。
ただ、次の「振根」の代にヤマトに制圧され、出雲の四隅突出型墳丘墓の文化と伝統は途絶えてしまった。
日本書紀によると、振根が殺されたあとの出雲では、ヤマトを怖れて「大神」への祭りを中断していたが、勅命によって再開したという。
多分それが、今の出雲大社の始まりのような気がしているが、それはまた次回にでも。
「その⑪熊野大社のクシミケヌとスサノオ 」につづく