百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵)と河内政権論

大仙陵古墳の相似形

大仙陵古墳(大山古墳)空撮

(写真AC)

大阪府堺市の「大仙陵古墳(大山古墳)」。

墳丘長525m、三重濠を含めた総長は850m。


ゼネコン大林組の試算によれば、古代工法では墳丘築成にのべ670万7000人必要で、一日あたりピーク時で2000人動員したとして、15年8ヶ月を要するのだという。費用は現在の貨幣価値に換算して、ザッと800億円。


長浜浩明さんの計算だと、仁徳天皇の在位は410〜428年頃。

仮に崩御と同時に着工したとして、完成は5世紀の真ん中頃か。

川合大塚山古墳

(川合大塚山古墳 奈良県歴史文化資源データベース)

ちなみに考古学者の一瀬和夫さんによれば、この日本最大の前方後円墳には「相似形」の古墳があるそうで、それが同じ頃か、やや遅れて築造されたという奈良県河合町の「川合大塚山古墳」。


「馬見古墳群」の一つとされる215mの前方後円墳で、5世紀中葉の奈良盆地に築造された古墳としては、最大級なんだそうだ。

佐紀陵山古墳の相似形

五色塚古墳

(五色塚古墳 写真AC)

相似形の古墳というと、ぼくが聞いているのは奈良市の「佐紀陵山古墳」の仲間たち。


内訳は、大阪市岸和田市の「摩湯山古墳」、兵庫県神戸市の「五色塚古墳」、三重県伊賀市の「御墓山古墳」、滋賀県大津市の「膳所茶臼山古墳」、それと日本海側の京都府京丹後市の「網野銚子山古墳」。


これらは西暦400年前後に、だいたい墳丘長200mぐらいのサイズで造られた前方後円墳たちだ。

ためしにGoogleマップにマークしてみると、こう。

このうち丹後の「網野銚子山古墳」については、考古学者の広瀬和雄さんが中央政権による「顕彰」だろうと書かれている。

(『前方後円墳とはなにか』2019年)


むろん、何を顕彰したのかは定かでないが、時期的に考えると、4世紀後半に行われた朝鮮半島への出征に関する何かだろうか。きっとこの首長たちは、巨大古墳に眠れるほどの大手柄を立てたんだろう。

津堂城山古墳の相似形

津堂城山古墳

(津堂城山古墳 写真AC)

また、やはり西暦400年ごろ、「古市古墳群」にはじめて造られた巨大古墳が208mの「津堂城山古墳」だが、考古学者の坂靖さんによると、この古墳にも相似形と見なせる古墳があるのだという。


それは奈良県広陵町の「巣山古墳」、奈良県川西町の「島の山古墳」、それと墳形は異なるものの、津堂城山古墳と同じ「長持形石棺」を採用した奈良市の「宝来山古墳」。


それぞれ別々の古墳群、「馬見」「磯城・磐余(大和・柳本)」「佐紀」に属していて、「古市」の津堂城山古墳が奈良盆地の王権によって造営されたことの、根拠の一つになるようだ。

(『ヤマト王権の古代学』2020年)

百舌鳥古墳群と河内政権論

それで、佐紀陵山古墳の相似形マップに、津堂城山古墳の相似形マップを重ねてみたのが、上の地図(丹後除く)。


西暦400年ごろのヤマトには、200m級の巨大古墳を最低でもこの程度は、同時進行で築造していくだけの実力があった———そう考えていいんだろうと、ぼくは思う。


ただ、世の中には「河内政権論」という考え方もあって、こんな強大なヤマトを凌駕する勢力が大阪平野には存在していて、その新王朝によってヤマトは打倒され、政権交替が起こったのだという。


呑気に古墳ばかり造っていたせいで、ヤマトは新王朝の足音に気付かなかったんだろうか。

いやいや、「河内政権」の時代になっても、変わることなく前方後円墳は造られていった。


その第一号が、堺市西区の「上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)」で、墳丘長は一気に365mだ。

履中天皇陵

(履中天皇陵 写真AC)

ところで河内王朝論では、内陸の「古市」と湾岸の「百舌鳥」を一つに合わせて考えるんだろうか、それとも別々のものとして考えるんだろうか。


一瀬さんによれば、この二つのエリアの背景はまったく違っていて、その成立過程も当然、異なるのだという。

両者が決定的に違うのは、古市のほうは河内平野を母体にして、そこに大王の上層部が乗っかってくるという形ですが、百舌鳥のほうはそういった大きなバックボーンがないような地域です。


地理的に平野をほとんど持たず、大阪湾に面しているというメリットのあるエリアに、どかんと大王級の墳墓が入ってくる、というのが明確な違いですね。


生産性というより、どういった生産基盤を背景にして地域が大きくまとまっているかが違いになります。つまり、在地の人間が基盤力を十分に持った上で、古市は古墳を誘致している可能性もあります。


しかし、百舌鳥のほうはかなり大王側が強圧的に入ってきている可能性はありますね。今でいう大規模開発プロジェクトに入ってもらうと地域が活性化してよいというような感じです。


(『巨大古墳の出現 仁徳朝の全盛』2011年)

つまり古市の場合は、先行した佐紀や馬見と同じように、農業を基盤とした人々の営みがある場所に、自然な流れとして天皇陵が造られたというイメージだが、百舌鳥の方は「農耕基盤のない原野」に過ぎなかった場所に、海に近く、火力に必要な森林資源が豊富で、古墳造営に適した「台地」である…といった利点が評価されて、あらたに政権から選択されたってイメージだろうか。

『百舌鳥野の幕開け』

百舌鳥野という土地

もちろん、百舌鳥古墳群のある堺市でも発掘作業が続けられていて、2011年に発行された講演会記録には、市の文化財課主査・森村健一さんのこんな発言が載せられている。

先ほど来申し上げましたとおり百舌鳥古墳群がつくられた五世紀代に、その王たちを支えた人々の集落はありません。しかし、古墳をつくった集団の遺跡があるということですね。


今、明白にわかっておりますのは、仁徳陵古墳の前に大仙公園の日本庭園がございまして、そこに大仙中町遺跡という遺跡がありますが、それが恐らく仁徳陵古墳をつくった集団のキャンプ地だろうと考えています。


(『百舌鳥野の幕開け—大王墓築造開始の謎に迫る—』堺市/2011年  ¥350)

森村さんによると、堺市には弥生時代に「四ッ池遺跡」という大集落があったが、古墳時代前期(250〜400年頃)にはスッカリ分散してしまっていたんだそうだ。


5世紀代に見つかってる遺跡も、古墳造営のためのキャンプ地ばかりで「都市」と呼べるような集落はなかったのだという。

百舌鳥古墳群分布図

(百舌鳥古墳群分布図より抜粋 第8回講演会記録集/堺市・2019年)

とはいっても、天皇陵が降臨してくる前から堺市に存在し、降臨してからは足並みを揃えて?造営されていった、地元首長のお墓の系譜も百舌鳥にはある。


それが4C末から5C半ばにかけて築造された「乳岡(155m)」→「大塚山(168m/消滅)」→「いたすけ(146m)」→「御廟山(203m)」という前方後円墳の系譜だ。


一瀬さんは百舌鳥の特徴として「地元勢力との明確な重層構造」を挙げられていて、降臨してきたのは「大和東南部勢力」であろうと書かれている。


つまり「河内王朝」とか「河内政権」などと呼ばれるが、その中味は奈良盆地でもっとも古い古墳群「大和・柳本(オオヤマト)古墳群」を造営した人たちだったということか。

近畿中部の大古墳群

(出典『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』今尾文昭)

日本書紀に書かれた政治勢力

3C半ばに「箸墓(はしはか)古墳」から始まったという奈良県桜井市「大和・柳本古墳群」の造営は、4C末の「茅原大墓古墳」(86m)の築造をもって、一旦停止している。


そんな事情から、「大和柳本」と「纒向」を中心とした初期ヤマト政権は、4C末に「断絶」したと見なす説もあるようだが、日本書紀にはちょっと違うことが書いてある。


長浜浩明さんの計算で241〜290年頃のあいだ、「纒向珠城宮」で執政したという第11代垂仁天皇の時代、重臣として挙げられたのは5人の「大夫」たちだった。


それは順に「阿倍」「和珥」「中臣」「物部」「大伴」で、おそらくこの人たちが初期ヤマトを支えた豪族で、政治集団だったんだろう。

『百舌鳥古市古墳群』

しかし応神天皇・仁徳天皇の治世になると、重臣として登場するのは武内宿禰の子どもたち「葛城」「紀」「平群」「蘇我」らに変わっていた。


ところがその後の歴史が示すように、初期ヤマトの豪族たちは鮮やかな復活を遂げた。


仁徳天皇の子、履中天皇・允恭天皇の時代になると、日本書紀には「大伴」「物部」「中臣」の名が、再び現れているのだ。


そして河内には、大伴金村の「住吉の宅」や、物部守屋の終焉の地「衣摺(きずり)」、中臣氏が奉斎した河内国一の宮「枚岡神社」などがあったわけで、どうやら初期ヤマトの豪族たちも、しっかり拠点の一部を河内に移していたようだ。



皇室(天皇家)のルーツは朝鮮半島ではない 〜『逆説の日本史』の影響力〜につづく