西暦180年頃、第9代開化天皇、丹波の竹野媛をお妃に

(赤坂今井墳丘墓)

丹波の竹野媛

竹野神社

日本書紀によると、第9代開化天皇はその6年までに、お妃として丹波の竹野媛(たかのひめ)を娶ったという。

長浜浩明さんの計算だと、開化天皇6年は西暦180年頃のことだ。


系譜に詳しい古事記によれば、「竹野比売」の父は「旦波の大県主」で、名前を「由碁理(ゆごり)」といったそうだ。


その竹野姫が晩年、郷里に戻ってきて天照大神を奉祀したと伝わる神社が、京都府京丹後市の「竹野神社」だ。


神社建築のことは全く知らないが、こちらの社殿は統一感があって、とてもカッコいいと感じた。

竹野神社

面白いのは、本殿の右隣りに並ぶ摂社の「斎宮神社」だ。


祭神に「竹野媛」が祀られてるのはフツーのことだが、なぜか開化天皇の皇子「彦坐王(ヒコイマス)」が合祀されていた。


この皇子、何と竹野媛とは別のお妃が生んだお子様で、お互い気まずくないのかと、こっちが気になってしまったもんだ。

開化天皇の皇子、彦坐王

粟鹿神社

それでヒコイマスに興味が湧いたぼくらは、皇子を祀る神社にも参詣してきた。

兵庫県朝来(あさご)市の「粟鹿(あわが)神社」だ。


こちらの本殿の裏手には古墳っぽく見える丘があって、ヒコイマスの「御陵」として伝わるそうだ。


それにしても、生まれた(であろう)大和から丹波に出向き、但馬で死んだとされるヒコイマスは、これらの地で何をしていたんだろう。

その事績は「記紀」にはないが、想像することはできる。


日本書紀によればヒコイマスの息子「丹波道主命(たんばみちぬし)」は、第10代崇神天皇の10年(212年頃)、「四道将軍」の一人として丹波に派遣され、その地で「王化」「教化」を行ったという。


ヒコイマスが息子に先駆けて丹波入りして、その平定の地固めに奔走していた可能性は、考えてもいい話じゃないかとぼくは思う。

丹波王・由碁理と赤坂今井墳丘墓

巨大な赤坂今井墳墓

さて、開化天皇が竹野姫を娶ったのは、ごく常識的に考えて、日本海に出る港を確保したいからだろう。


一方、丹波王・由碁理(ユゴリ)がそれに乗ったのは、ヤマトと組むことで近隣諸国をリードするためだろう。


1998年、弥生時代末期としては日本最大級の王墓「赤坂今井墳墓」が発見された。

それが上の「図72」だ。


墳丘は南北39m、東西36m、高さ3.5m。

中心埋葬施設は墓壙長14m、幅10.5m、深さ2mで、弥生時代では全国最大。

出土した土器には、北陸のほか、播磨や東海のものも含む(広範囲からの弔問客)。

副葬品では、宝石で飾られた豪華な「頭飾り」が知られている。


こいつは、出雲の「西谷墳墓群」や吉備の「楯築墳丘墓」に匹敵するもので、今では当時の丹後に大首長がいたことを否定する人は(たぶん)いない。


長浜浩明さんの計算だと開化天皇の在位は177〜207年なので、西暦200年ごろに築造された赤坂今井墳墓が、ユゴリの王墓であっても何の不思議もないと思う。

北近畿の弥生王墓・大風呂南墳墓

丹後の弥生遺跡に精通している考古学者、肥後弘幸さんの本には、面白いことが書いてあった。

(『北近畿の弥生王墓・大風呂南墳墓』2016年)


弥生時代中期の「北近畿」では、直径100〜200mの居住域の周りにお墓が作られていて、それは奈良盆地の集落構造と変わりのないものだった。


ところが弥生後期になると、墓域は集落から離れた山の上に作られるようになって、お墓は「聖なる対象」と見なされるようになったんだそうだ。

墳丘上で行われる壮大な葬儀

青銅器を捨て、「王墓」自体が祭祀の中心になる・・・。

これはこの時代、出雲でも起こったことだ。

そしてその流れは、やがては畿内にも及んだのだった。

《追記》ヤマト成立以降の北近畿

西暦250年ごろまでには、出雲や吉備のオリジナリティあふれる弥生王墓の造営は終焉していたが、丹後も同様だったようだ。


専門家である肥後弘幸さんの本から、そこら辺の流れを引用してみると、こう。

3世紀の中ごろ、大和に前方後円墳を採用した大和王権が誕生すると、北近畿には多数の副葬品をともなう大型の墳墓はみられなくなる。

代わって中郡盆地の北端の標高84メートルの丘陵上に大田南古墳群が築かれる。


(中略)


弥生時代後期に朝鮮半島や大陸との交易を通じて誕生し、発展した北近畿の王は、大田南古墳群の時代になってようやく後漢や魏の首都洛陽まで赴き銅鏡を手に入れることができた。

また、墳丘上には王一人のみが埋葬され、すでに大和王権を支える一人の首長となっている。

以降、丹後半島には、王墓や盟主墳と呼べるものはみあたらない。

このことは、大和王権が、瀬戸内・九州北部も勢力圏に納めるなかで、丹後を経由しない大陸への交易路を開いたことにより、北近畿の地理的優位性が低下したものと考えられている。


百年あまり後の4世紀後半、北近畿はふたたび大陸への玄関口として栄えたようで、京丹後市網野銚子山古墳・同神明山古墳など日本海側最大の200メートル級の前方後円墳が相次いで築かれることになる。


(『北近畿の弥生王墓・大風呂南墳墓』2016年)

ちなみに4世紀末に築造された京丹後市「網野銚子山古墳」(201m)には、同時代に造られた「相似形」の古墳が4基あるそうだ。


それらは元を辿れば奈良市の佐紀古墳群「佐紀陵山古墳」(207m)の相似形で、考古学者の広瀬和雄さんは、ヤマトからの「顕彰」だろうと推察されている。


「新羅本紀」によれば当時の「倭」は頻繁に新羅に攻めてきたとあるので、4世紀後半の丹後の首長も、何らかの形でヤマトの外征に協力し、成果を上げて帰ってきたのかも知れない。


近江の伊勢遺跡と神郷亀塚古墳と彦坐王」につづく