西暦32年頃、第5代孝昭天皇、尾張の姫と結婚

(朝日遺跡)

孝昭天皇と朝日遺跡

朝日遺跡

「日本書紀」で、皇室がはじめて畿外の豪族と縁組みしたのは、第5代孝昭天皇の29年のこと。

長浜浩明さんの計算だと、孝昭天皇の在位は西暦17〜59年ということなので、ざっと西暦32年ごろに「尾張連の祖」オキツソヨの妹「世襲足(よそたらし)媛」が皇后に立てられたという。


その時代の尾張にあった、東海地方では最大級の弥生集落が「朝日遺跡」だ。

朝日遺跡は、弥生時代の前期から古墳時代の初期まで続いた環濠集落で、佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」に匹敵する規模を誇るという。

いかんせん清洲ジャンクションの下から出てきちゃったので、そのほとんどは埋め戻されて地面の下だ。


ところで、ぼくらが小学生の頃の弥生時代のイメージと言えば、平和で牧歌的な田園風景のムラ、という感じだったが、それは戦後すぐに大規模な発掘が行われた「登呂遺跡」(静岡市)が植え付けたものだそうだ。


だが、1972年から朝日遺跡の発掘が本格化すると、そのイメージは覆されていった。

そこから現れたのは、「逆茂木(さかもぎ)」や「乱杭(らんぐい)」といった防御施設の数々で、「魏志倭人伝」に描かれた「倭国大乱」を裏付けるような発見だった。

朝日遺跡の逆茂木と乱杭

逆茂木と乱杭

写真はミュージアム館内で購入した小冊子『常設展示案内』(¥1000)から転載したもので、左が逆茂木で「枝がついた木を埋めた柵列」、右が乱杭で「斜めに打ち込まれた杭列」と説明されている。

こりゃいかにも刺さったら痛そうで、うかつには攻め込めない。


ただ、調査が進むにつれて、これら防御施設が最強に高められたのは弥生中期後半(紀元前50年〜後100年ごろ)だったことが分かってきて、それだと「倭国大乱」より100年ほど前のことになってしまう。


しかもさらに調査が進むと、果たしてこれらが外敵を防ぐために造られたものかどうかも微妙になってきた。

朝日遺跡の住居域は大きく北と南に分かれているが、逆茂木や乱杭は、その中間に設置されていたのだ。

朝日遺跡発掘マップ

図はこれも、小冊子『常設展示案内』から転載。

逆茂木と乱杭が見つかったのは3番と4番の場所で、「北居住域」と「南居住域」を隔てるように設置されてることが分かる。

これが、外敵からムラを防衛するためのものでないことは、石器時代の原始人にだって分かるだろう。


それで最近では、これらは洪水や水害対策に設置されたものでは?という説も出てきているという(赤塚次郎氏)。

小冊子にも、その頃の朝日遺跡ムラでは「気候の変化により頻繁に洪水が起こったとするデータもあります」と書いてある。


そういえば、奈良県の弥生ムラ唐古・鍵遺跡にも多重環濠があるが、それらは「運河」や「排水機構」の可能性もあるという説を聞いた。

環濠は必ずしも争乱への対策だけではないようだ。

(『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐・古鍵遺跡』藤田三郎/新泉社)

朝日遺跡の大変身

東西弥生文化の結節点 朝日遺跡

さて、朝日遺跡の話はここからが面白い。

紀元前400〜前100年の期間、明確な都市計画でもって営まれていた朝日遺跡だったが、弥生中期後葉に入るや様子が一変してしまったという。

○まず、居住域の外郭を定めてきた環濠が廃絶された。 

○続いて、南居住域では大型の掘立柱建物が現れて、特別な祭祀空間が設置された。 

○さらには、墓域の連続性が放棄されて、古い方形周溝墓が壊されたり、今までと違う墓が造られたりした。

○そして、西日本系の土器が急激に増えていった。


長年、朝日遺跡に関わってこられた考古学者の原田幹さんは、その変化を「まったく別の集落といって過言ではない」と書かれているほどだ。

(『東西弥生文化の結節点 朝日遺跡』2013年)


弥生時代の中期後葉といえば、紀元前50年あたりのこと。ぼくらが知ってる大事件といえば・・・神武天皇の東征と、即位だ。

朝日遺跡の終焉

パレス式土器

そんな朝日遺跡だが、ここが「別の集落」になっていた期間は短くて、弥生後期の西暦100年ごろには再び環濠が作られたりしたそうだ。

ただ昔日の勢いはもはや失われていて、古墳時代に入る頃には人影もまばらな過疎地域となって、やがては元の湿地帯に戻っていったんだそうだ。


古墳時代の前期、尾張から近江の伊吹山に向かったヤマトタケルは、大垣まで船で移動したという説もあるほど、濃尾平野は水没していた可能性があるようだ。

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ちなみに、この時代についての文字記録としては、西暦57年に倭の「奴国」が後漢に朝貢して、光武帝から印綬を賜ったというものがある(「後漢書東夷伝」)。


奴国は博多湾の志賀島を拠点とした「安曇族」の国だというが、同じ頃の尾張にも立派な集落があったんだぞという話。


西暦100年頃、出雲で青銅器祭祀が終焉(荒神谷・加茂岩倉)につづく