西暦350年頃、仲哀天皇即位
〜「謎の4世紀」の成務天皇〜
近江の息長氏と神功皇后
2022年夏に参詣した、滋賀県米原市の式内社で「山津照神社」。
鳥居から拝殿までがフカフカの草っ原(芝生?)というのは、初めての経験だった。
現在の祭神は「国常立尊」とされるが、『日本の神々・神社と聖地 5 山城近江』では「息長氏祖神説」が論じられている。
「息長氏」は琵琶湖の東部に勢力を張った古代豪族で、東山道・北陸道への交通の要衝をおさえ、伊吹山山麓での製鉄も支配したのだという。
山津照神社の境内にある「山津照神社古墳」は、全長63mの前方後円墳。
年代的には200年ほどずれてしまうが、地元では昔から「岡山」と呼んで「息長宿禰王」のお墓だと伝えられてきたそうだ。
その息長宿禰王の娘が「気長足姫尊」で、第14代仲哀天皇の皇后にして、第15代応神天皇の母となった女性だ。
諡は、言わずと知れた「神功皇后」。
明治政府は1909年の『尋常小学日本歴史』では、事実上の天皇として、巻末の「歴代天皇一覧」に神功皇后を加えていたんだそうだ。
(『皇后考』原武史/2015年)
「謎の4世紀」と成務天皇
ところで古代史には「謎の4世紀」と言う言葉がある。
266〜413年までの間、日本についての記事が中国の史書から消えたため、裏付けのとれる事象が存在しないがゆえの「謎」ということだが、4世紀後半については中国の史書と照合された朝鮮半島の記録が残っているので、まったくの五里霧中ということでもない。
また4世紀の初頭についても、日本書紀に記された第12代「景行天皇」の事績には、考古学の成果とリンクしている箇所もあり、これまた五里霧中というわけでもないと、ぼくは思っている。
謎なのは、早世したヤマトタケルに代わって皇太子となり、第13代として即位した「成務天皇」の御世だ。
日本書紀が60年と言う在位期間に、その事績は三つだけ。
○その3年に武内宿禰を「大臣」にしたこと。
○5年に国造と国境を定めたこと。
○そして40年以上もの空白をおいて、48年に兄ヤマトタケルの第二子を皇太子に指名したこと。
それだけだ。
驚くべきことに日本書紀には、成務天皇の后妃・皇子女の記録さえない。
若くして早死にしたわけでもないのに、妻も子もいない天皇・・・。
長浜浩明さんの計算だと、成務天皇の在位実年代は320〜350年の30年間となるが、まさにこの30年間こそが、4世紀最大の「謎」ということになるんだろう。
成務天皇の皇居はなぜ近江か
(高穴穂神社)
成務天皇の「謎」はその皇居にもある。
先代の景行天皇は晩年、皇居の「纒向日代宮」を離れて近江に行幸、3年の間「志賀高穴穂宮」を行宮として、その地で崩御した。
当然、後を継いだ成務天皇は大和の「纒向」に戻るかと思いきや、日本書紀には「都」の記載がない。
どうやら成務天皇は、そのまま近江・高穴穂宮で執政していたらしいのだ。
これは不思議だ。
なぜ成務天皇は大和には戻らず、近江にとどまったのだろう(往復はしてるだろうが)。
ぱっと思いつく理由は二つ。
一つは纒向が窮屈になったから。
といっても土地が狭くなったというわけではなくて、神武天皇以来の協力体制にあった豪族たちが、だんだんウザくなっていた可能性はないか。
そしてそれが、武内宿禰の「大臣」への起用につながったのかもしれない。
実際のところ、仲哀天皇の「熊襲征伐」に従軍した4人の「大夫」、中臣・大三輪・物部・大伴は、つづく応神天皇・仁徳天皇の治世では日本書紀から名前が消えている。
彼ら古豪は干されて纒向に取り残され、代わって武内宿禰の「子」の葛城・平群・蘇我・巨勢などが重用されたんじゃないか。
もう一つは、少々ウザくなってきた纒向の古豪を牽制する意味でも、近江の有力豪族・息長氏と手を結びたいという、ありきたりの理由。
皇族ではあるが、第9代開化天皇の5世孫とやや遠い「気長足姫尊(神功皇后)」が仲哀天皇の正室になれたのも、成務天皇にはそうするだけのメリットがあったはずだ。
南山城の「和珥氏」
(瀬田 写真AC)
琵琶湖西部から山城南部に勢力を張った豪族が「和珥(わに)氏」。
仲哀天皇が崩御した後、正室の神功皇后に対して反乱を起こした側室の子「忍熊王」を討ったのは、武内宿禰の軍団に加えて、和珥氏の「武振熊(たけふるくま)」だった。
近江に皇居をおいた成務天皇は、近江の息長氏・南山城の和珥氏・紀伊の武内宿禰の軍団を、新時代の皇室親衛隊として育てていたのかもしれない。
和珥氏については、「神功皇后陵」がある奈良市「佐紀古墳群」との関係も指摘されている。
同様に、四世紀半ばになって、突然大型前方後円墳が出現する地がある。
大和盆地北部の佐紀盾列古墳群である。
この古墳群の出現は琵琶湖西部(湖西地域)を出自の地とする 和邇(わに)勢力が倭王権との仕奉関係の成立を機に、その拠点として春日の地へと進出し、新たに春日勢力とでもいう集団を形成したことと関係すると思われる。
(「葛城氏はどこまでわかってきたのか」『古代豪族』小野里了一/2015年)
仲哀天皇の「謎」の死
ところで「謎」といえば、仲哀天皇の崩御も「謎」といわれる。
その2年の3月に、「紀伊」に行幸した仲哀天皇は、熊襲が叛いて朝貢してこない報を聞くと、討伐を決意する。
山口県の「穴門豊浦宮」で神功皇后と合流した仲哀天皇は、筑紫の「橿日宮(香椎宮)」で軍議を行う。
すると皇后に神が降りてきて、神託を垂れてきたが、その内容は「熊襲ではなく新羅を討て」というもの。
天皇は神託を疑い、強引に熊襲を討つものの、敗退してしまう。
その後、仲哀天皇は急病にかかり、翌日に崩御。
日本書紀は、神のお言葉を採用しなかったから、早くお崩れになったことがうかがえる、と書いている。
しかし、仲哀天皇が新羅ではなく熊襲を討ったから、神の祟りをうけて亡くなったという説明は、なんとなく後世に後付けされたもののような気がしないでもない。
なぜなら、2年3月に熊襲の叛意を聞いた仲哀天皇は、実は8年正月までの間ずっと山口県にとどまって、九州には渡っていなかったからだ。
本当に熊襲の征伐が目的ならば、穴門豊浦宮の造営が終わった2年9月にも遠征を始めれば良いものを、なぜ仲哀天皇は5年以上も筑紫に渡らなかったのだろう。
熊鰐と五十迹手の服属
(出典『邪馬台国と地域王国』門脇禎二/2008)
ではその空白期には、何が起こっていたのか。
8年春正月に、ようやく筑紫に行幸した天皇のもとに馳せ参じてきたのは、「岡県主」の祖「熊鰐(わに)」。
ワニは周防まで天皇を出迎えると、「魚塩の地(御料の魚や塩をとる区域)」を献上してきたという。
続いて「伊覩県主」の「五十迹手(いとて)」が参上し、やはり天皇に「服属の儀礼」をとっている。
この一連の流れを見る限り、穴門に滞在中の仲哀天皇は、ずっと北部九州の豪族たちと交渉を行っていたと思われる。
むろん、結果が示す通りの「降伏」「臣従」の交渉だろう。
ならばおそらく、仲哀天皇の本来の目的は、北部九州の平定にあったんじゃないか。
というのも仲哀天皇崩御の後に、まず神功皇后が行ったのは「三韓征伐」ではなく、結局は「熊襲の討伐」だったからだ。
しかも実際に出動したのは吉備臣の祖「鴨別」で、「あまり日がたたないうちに、おのずから熊襲が服属してきた」というイージーぶり。
ホントに仲哀天皇の皇軍は熊襲に敗れたんだろうかと、疑問も湧いてくる。
一方、神功皇后ご自身が軍を率いて行ったのは、「御笠」や「安」「山門県」といった北部九州の平定で、その心に新羅討伐を決意されたのは、仲哀天皇が崩御してから二ヶ月も過ぎてからのことなのだった。