東京・神奈川・埼玉のアラハバキ神社
遮光器土偶のアラハバキ
「アラハバキ」と呼ばれる神がいる。
漢字で書くと、荒脛巾とか荒吐とか荒覇吐とか、いろいろある。
それは、SFマンガ『ヤマタイカ』では「古代東国の蝦夷の神」と言われ、同じく古代史を扱った『石神伝説』(とり・みき/1995〜)でも「古代に東北から関東を支配していた」神と言われ、いずれも巨大な遮光器土偶の形で描かれた。
そんなアラハバキをお祀りする神社が、今も東京近郊にあるという。2019年秋晴れの平日、クルマは東名高速から圏央道へ。
あきるの市の「養澤神社」「二宮神社」
まずは、東京都あきるの市の「養澤神社」を目指す。
圏央道を八王子西ICで降りて30分、森の中を養沢川という渓流に沿った山道をぐねぐね行くと、道の突きあたりのような場所に神社があった。近所には鍾乳洞やキャンプ場もあるようで、とにかく深い山の中だ。
案内板によると、1915年に近隣の4社を合祀して養澤神社を創立したとあり、そのうちの一社が「門客人神社」で(あらはばき)とカッコ書きされていた。本殿後方に「門客人大明神」と書かれた石塔があったが、詳細は不明。
来た道をぐねぐねと戻り、東京サマーランドを右手に見ながら市街地を東に進むと、JR五日市線・東秋留駅のすぐ近くに、目的の「二宮神社」があった。秋川と多摩川が合流する直前の平地に小さな丘があって、その上に神社が鎮座するスタイルのやつだ。
拝殿に続く参道の右手、社務所の前に「荒波々伎神社」という摂社があって、鉄製のワラジ(?)が備えられていた。
奉納された絵馬には「足神様」と書いてあり、ここではアラハバキはそう呼ばれているようだ。
厚木市の「小野神社」
最後にお詣りしたのは、厚木市の「小野神社」。
圏央厚木ICで降りて、市街地を抜けた先の田畑の中に鎮座。なんと式内社らしい。
アラハバキは本殿の裏に7つある境内社のひとつで、額には日枝神社、淡島神社にはさまれて「阿羅波婆枳神社」の名があった。あくまで7社のうちの一つという扱いで、特筆すべき点は見当たらず。
『東日流外三郡誌』という戦後最大の「偽書事件」
さて、こうして回ってきた3社に加え、さいたま市・氷川神社の「門客人神社」と、同・中山神社の「荒脛神社」が、ぼくがこの眼で見てきたアラハバキ神なわけだが、まぁ言うまでもなく「蝦夷」だの「遮光器土偶」だのを想起させるものは、何もなかった。
それもそのはず、アラハバキを「蝦夷」や「遮光器土偶」と結びつける根拠はただ一つ、『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)という「偽書」だからだ。
戦後に青森県の民家から発見されたとするその「古文書」は、和田喜八郎なるペテン師が考えた作り話だった。
アラハバキを「荒羽吐」または「荒覇吐」と書き、遮光器土偶の絵を載せ、アラハバキのビジュアルイメージは遮光器土偶である、という印象を広めたのも、本書が「震源」である。
要約すれば、古代の東北地方には歴史から抹殺された独自の文明国が存在したというホラ話なんだが、これが東北人の心情にマッチしたのか大ヒットしてしまい、古田武彦教授のような著名な学者までが擁護に回って話がややこしくなり、果てしない真偽論争が繰り広げられたそうな。
しかし最終的には1999年、作者の和田喜八郎の没後に家捜しが行われた結果、「古文書」は戦後に書かれた偽書であることが確定し、論争は終結した。
※ただし、『ヤマタイカ』『石神伝説』ともに書かれたのは1999年以前のことなので、文句を言われる筋合いはないだろう。
この偽書事件の顛末を、その始まりから終わりまでを徹底取材したルポに『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌」』(斎藤光政/2006年)がある。
著者は青森県の地方紙・東奥日報の記者さんで、岩手県盛岡市生まれ、青森県八戸市育ちというから、バリバリの東北人だ。
そんな東北を知り尽くしたジャーナリストが、アラハバキについてはこう書いている。
(略)本来は関東地方に濃密に分布するはずの正体不明の神「アラハバキ」がなぜ列島北端に存在するのか(略)
斎藤さんは、アラハバキを「関東」の神だと認識していた。ならばそれは、遮光器土偶と無関係なだけでなく、そもそも「蝦夷の神」ですらなかったということだ。
だとすれば、マンガ『ヤマタイカ』で描かれたような、「ヤマト = 弥生系」への対立項としての「アラハバキ = 縄文系」という説は、根底から崩れ去ってしまうことになる。
そんな対立自体が、フィクションだったことになる。
地主神(塞の神)としてのアラハバキ
『日本の神々』(谷川健一/1999)によれば、江戸時代後期に編まれた『新編武蔵国風土記稿』には、氷川神社摂社の「門客人神社」は、古くは「荒脛巾神社」と呼ばれていた、と記されているという。
また、江戸初期の氷川神社は、スサノオ、クシナダヒメ、オオクニヌシを祀る三社が鼎立していたらしいが、「氷川内記」なる人物が現れて門客人社を持ち上げ、四社体制をゴリ押ししたと『大宮のむかしといま』(大宮市/1980年)という本に書いてある。
その四社体制は1679年には廃止されて、門客人社も元の社格に下げられたとあるが、ここでの話のポイントは、出雲国造の末裔という"ヤマト"から見て、アラハバキは決して怪しい神でも敵対する神でもなく、平然と同居できる相手だったという事実だろう。
また、『日本の神々』には、「神社を建てるとき、以前からあった土着神である地主神を客神として祀る」ケースとして、アラハバキが取り上げられている。
さてそうなると次は、地主神としてのアラハバキって何ぞや、という話になる。
『古事記 日本書紀に出てくる謎の神々』(新人物文庫/2012年)という本に簡潔にまとめられていたので紹介すると、アラハバキ神の信仰習俗としては「足の神」「旅の神」「下半身の神」「みずいぼを治してくれる神」などがあるらしく、二宮神社で見た鉄製のワラジなどは「足の神」としてのアラハバキなんだろう。
また、神格や性格については、「蛇神」「製鉄の神」「疫神」「かまど神」「渡来神」などといった説があるようだが、そういう場合、特定の神社にだけ当てはまる説を、ぼくはあまり参考にしない。
ま、結局のところ、ぼくが見たアラハバキを祀る五社の全てに通用する説としては、一番有名な「塞の神」説に落ち着くんだろう。
アラハバキの神とは何か。
一、もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、後来の神にその地位をうばわれ、主客を転倒させられて客人神扱いを受けたものである。
二、もともとサエの神である。外来の邪霊を撃退するために置かれた門神である。
三、客人神としての性格と門神としての性格の合わさったものが門客人神である。主神となった後来の神のために、侵入する邪霊を撃退する役目をもつ神である。
(『白鳥伝説』谷川健一/1986年)
「土地の精霊」というと、諏訪で見てきたミシャグジ神を思い起こすところだが、長野県にはアラハバキ系と推測される神社が見あたらないというし、似たような信仰が中部と関東で棲み分けを行っていた可能性なども、あるのかも知れない。
《追記》愛知県「砥鹿神社」のアラハバキ
その後、随分経っての2021年末、愛知県豊川市の三河国一の宮「砥鹿(とが)神社」を訪れたとき、久々に「アラハバキ」を目にすることになった。
末社の「荒羽々気神社」だ。
実は三河でも、アラハバキは濃い分布を見せるのだという。
江戸時代の紀行家「菅江真澄」は、旅先の青森で「脛巾の神」としてアラハバキが祀られてるのを見て、故郷の砥鹿神社の小祠と同じ神かと思った、と書いているそうだ。
三河人にとっては、アラハバキは自分たちの神さまだったということなんだろう。
《追記》会津若松のアラハバキ
2024年夏に参詣した福島県会津若松市の「荒脛巾神社」。
猪苗代湖からは1キロほど離れた立地で、田んぼに囲まれた村の鎮守だ。
会津藩が1809年に完成させた地誌『新編会津風土記』によると、祭神は鉱山の神「金山比古命」。
ググってみると、会津若松には「石ヶ森鉱山」なる金山をはじめ、いくつかの鉱山があったようだが、鉄を出したのは「荒脛巾神社」の鎮座する北会津郡湊村の「猪苗代湖鉱山」だったらしい。
金山彦とアラハバキか・・・いろんな組み合わせがあるものだ。