近江の伊勢遺跡と神郷亀塚古墳と彦坐王

宗教都市、伊勢遺跡

伊勢遺跡

滋賀県守山市から栗東市にまたがる「伊勢遺跡」。

紀元1世紀末から2世紀末(AD100〜200年ごろ)に栄えた「弥生都市」で、面積30ヘクタールは佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」や奈良県の「唐古・鍵遺跡」に匹敵する。


伊勢遺跡を「ムラ」ではなく「弥生都市」だというのは、ここが人々の生活の場ではなかったからだ。

農耕はまったく行われず、13棟も立ち並ぶ大型建物では、専ら祭祀が行われたという話だ。


なお、本州で弥生時代の大型建物が一番見つかってるのが、ここ近江なんだそうだ。

伊勢遺跡

現在の伊勢遺跡は住宅や田畑に囲まれた原っぱに過ぎず、実際には何もない。


地元ではイラストのように、伊勢遺跡に「魏志倭人伝」のいう「居処・宮室・楼観・城柵」が揃っていることから、伊勢遺跡を邪馬台国の女王・卑弥呼の都だと主張する向きもあるようだ。


だがまぁ残念ながら、それはチト無理な相談ではないかと、ぼくには思えている(以下に理由)。

神郷亀塚古墳の「槨」

神郷亀塚古墳

全長36.5mと小ぶりの「神郷(じんごう)亀塚古墳」(東近江市)は、日本で最古級の前方後「方」墳だという。


築造年代は、出土した土器から3C前半の220年頃かと推定されている。

邪馬台国の卑弥呼が没したのは248年といわれるので、大体その時代の墳墓だということだ。


ただ、こいつは魏志倭人伝に出てくる「倭人」のお墓ではなさそうだ。


それは、魏志倭人伝には「倭人」の習俗として「其死、有棺無槨」、つまり棺桶をおさめる外箱「槨(かく)」は作られないと書いてあるのに、神郷亀塚古墳からは「槨」が検出されているからだ。

神郷亀塚古墳

「倭人」が作らないという「槨」を持つ弥生墳墓は、近江の神郷亀塚古墳だけじゃない。

出雲の「西谷3号墳」、吉備の「楯築(たてつき)遺跡」、讃岐の「萩原2号墳」、大和の「ホケノ山古墳」といった、地域を代表する「王墓」にも「槨」があった。


ということは、中国人が見聞した「倭人」の文化圏に、上記のエリアは含まれていない可能性があるわけで、ならば、近江の伊勢遺跡が魏志倭人伝の邪馬台国だという話は成立しないんじゃないか、と思うわけだ。


※ちなみにこの時代の九州北部は「槨」のない「箱式石棺」が主流だった。

詳しくは「邪馬台国への道(3)不弥国」へ。

石坐神社の彦坐王

石坐神社

さてそれじゃ、伊勢遺跡が「倭人」の遺跡ではないとしたら、当時ここらを治めた人は誰なんだろう。


大津市の式内社で「石坐(いわい)神社」。

社伝によると、「瀬田に設けられた近江国府の初代国造・治田連がその四代前の祖・彦坐王を茶臼山に葬り、その背後の御霊殿山を、神体山として祀った」ことが創建の縁起だという。

膳所茶臼山古墳

それでぼくらも訪れてみたのが、石坐神社から南に800mほどの「膳所茶臼山古墳」。

墳丘長122mの前方後「円」墳だ。


もっとも、築造年代は4C末から5C初頭とのことで、被葬者がヒコイマス(彦坐王)であることはあり得ないだろう。


さて、ヒコイマスは第9代「開化天皇」と和珥(わに)氏のお妃の間に生まれた皇子で、第10代「崇神天皇」の異母兄弟にあたる人物。


ヒコイマスは四道将軍の「丹波(たんば)道主命」の父親として知られるが、その一族からは近江の「淡海国造」「安(やす)国造」や、美濃の「三野前国造」「本巣国造」などを輩出していて、その勢力をザッと地図で表すと、こんなかんじか。

彦坐王の一族

ふうむ、彦坐王の一族で、「東山道」と「山陰道」の出入り口をがっちり固めている印象がある。


日本書紀によれば、ヒコイマスは開化天皇6年の時点で「これより先(先是)」に生まれていたようなので、長浜浩明さんの計算だと、遅くとも西暦180年には誕生、200年頃には立派に成人していたことになる。


それは丁度、伊勢遺跡や「稲部遺跡」(彦根市)が繁栄していた時期に当たり、前方後「方」墳がそろそろ実像を結びつつある時期でもあった。


のちに一族が、近江から美濃にかけて一大勢力を築いたヒコイマスが、それらに関与した可能性を想像するのは、それほど頭のイカレた妄想ではないように、ぼくは思う。


もちろん、ヒコイマスの一族が「血縁」じゃなくて「地縁」に基づいた人間集団だという考え方もあるだろうが、それならそれで、ここらの土豪たちをまとめ上げてヤマトに組み込んでいったヒコイマスの政治力が、より一層輝きを増すように、ぼくには思えるのだった。

《余談》欠史八代の開化天皇と伊香色謎命

伊奈波神社

ヒコイマスの父、「欠史八代」といわれ、実在を否定される第9代開化天皇の話題を少し。


岐阜市の稲葉山(金華山)の麓に鎮座する「伊奈波神社」の祭神は、第11代垂仁天皇の第一皇子の「五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこ)」。


 だが肉親のほかに、なぜか臣下の「物部十千根(とちね)」が配祀されている。

この物部十千根の叔母さんが、実に興味深いのだ(伊奈波神社、関係ないかw)。


お名前を「伊香色謎命(いかがしこめ)」さんというこの女性、「日本書紀」によれば、 第8代孝元天皇の「妃(側室)」だった人なのに、第9代開化天皇の「皇后(正室)」となって、第10代崇神天皇を産んでいる。


つまり、孝元天皇と開化天皇は親子なのに「 穴兄弟」だと、皇室の正史にはっきり書いてあるわけだ。

伊奈波神社

ぼくはニワカ古代史ファンなので、史上、他に同じケースがどれだけあるのかは知らないが、これはあらぬ憶測を呼ぶ記述だろう。 


金田一耕助なら、果たして崇神天皇は父の子なのか祖父の子なのかと出生の秘密を推理してしまうだろうし、コナン君なら愛のために父を殺す息子を推理してしまうかも知れない。


だが、もしも「欠史八代」が捏造された作り話なら、何もわざわざこんな手の込んだ人間模様をでっち上げて、あらぬ憶測を呼ぶ必要はない。

普通にテキトーな女性の名前を書き込んでおけばいい話だ。


だが正史・日本書紀は平然と、第8代と第9代の両天皇が「穴兄弟」であることを記述した。


これ、日本書紀を名うての「釣り師」と見るか、それとも単純に皇室の伝承を記載しただけか、二者択一しかないだろう。


そして「日本書紀」の発注者・スポンサーが 7〜8世紀の歴代天皇であることを考えれば、後者にしか正解の可能性はないと、ぼくは思う。


つまりは、第8代孝元天皇も第9代開化天皇も「実在」して、両天皇は「穴兄弟」だったということだ(しつこいぞ!w)。


ちなみに第10代崇神天皇は「御間城(みまき)入彦」というお名前だが、皇后は「御間城姫」という。


そこから「二人はもともと同母兄妹」だという説もあるそうだが、こっちは下衆の勘繰りの極みというものだろう。


西暦209年頃、崇神天皇、疫病に悩まされる(天照大神と倭大国魂)につづく