出雲神話⑯「美談神社」と風土記のフツヌシ
出雲市「美談(みたみ)神社」のフツヌシ
出雲市美談町で「経津主命(フツヌシ)」を祀る「美談(みたみ)神社」(2022秋参詣)。
主祭神のフツヌシは、日本書紀・正伝では「国ゆずり」の主将として出雲に降臨し、大己貴神を隠居させたヤマトの大功臣だが、もともとは「物部氏の奉じた霊剣フツノミタマの神格化」(松前健)だったということだ。
「一書」の方には、国ゆずりに続いてフツヌシが「岐神(ふなとかみ)」の先導で各地を平定、オオモノヌシとコトシロヌシを帰順させたというエピソードもある。
高天原きっての武神だったようだ。
出雲国風土記のワカフツヌシ
上の写真は美談神社の境内社で、「和加布都努志(わかふつぬし)神社」(中央)。
「ワカフツヌシ」は出雲国風土記では、「大穴持」の御子として登場する神さまだが、前回見たアジスキタカヒコネとは違って、その実像がいきいきと描かれている。
楯縫の郷。
布都怒志の命が、天上界の堅い楯を縫い直された。だから、楯縫といった。
山国の郷。
布都努志の命が国をめぐって行かれた時、ここにおいでになって、「この土地は、いつまでも止まずに見ていたいものだ」とおっしゃった。
だから、山国といった。正倉がある。
大野の郷。
和加布都努志の命が御狩りをされた時に、郷の西の山に、待ち伏せの人をお立てになって、猪を追って北の方にお上りになったところ、阿内の谷まできて、その猪の足跡を見失ってしまった。
その時、「自然にこうなったなあ。猪の足跡が失せてしまった」とおっしゃった。
だから、内野といった。ところが、今の人はただ誤って、大野とよんでいるだけだ。
美談の郷。
天の下をお造りになった大神の御子、和加布都努志の命が、天と地が初めて分かれた後に、天上界の御領田の長としてご奉仕なさった。
その神が郷にご鎮座している。だから、三太三といった。正倉がある。
(『風土記・上』角川ソフィア文庫)
「国つ神」の代表格、大穴持の御子にしては、何かと「天上界」に縁がある点が興味深い風土記のワカフツヌシだが、この神と日本書紀の「経津主神」は同じ神なんだろうか。
神名については、風土記のフツヌシは「布都怒(努)志」で統一されている。
そしてその「布都怒志」は、出雲の別の場所にも登場する。
奈良・平安の出雲国造が天皇に奏上したという、「出雲国造神賀詞(かんよごと)」の中だ。
該当箇所だけ引用すれば、こう。
「高天の神王高御魂の命の、皇御孫の命に天の下大八島国を事避さしまつりし時に、出雲の臣等が遠つ祖天の穂比の命を、国体見に遣はしし時に、天の八重雲を押し別けて、天翔り国翔りて、天の下を見廻りて返事申したまはく、『豊葦原の水穂の国は、昼は五月蝿なす水沸き、夜は火瓮なす光く神あり、石ね・木立・青水沫も事問ひて荒ぶる国なり。しかれども鎮め平けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろしまさしめむ』と申して、己命の児天の夷鳥の命に布都怒志の命を副へて、天降し遣はして、荒ぶる神等を撥ひ平け、国作らしし大神をも媚び鎮めて、大八島国の現つ事・顕し事事避さしめき。
(出典「神話と昔話 - 三浦佑之宣伝板」)
「出雲国造神賀詞」の国譲りとは
(物部氏の氏神・石上神宮)
「出雲国造神賀詞」でのフツヌシは、皇祖「タカミムスビ(高御魂)」の命を受けて地上を視察した出雲臣の祖「アメノホヒ(天の穂比)」が、地上平定のために派遣した御子神「天の夷鳥(あめのひなとり)」に付けた副将だ。
アメノホヒ親子の描かれ方が日本書紀とはかなり違うが、フツヌシが皇祖神の命令で出雲に降臨した点については同じ。
ならば「布都怒志」と「経津主神」は、概ね同じ神だと考えていいんだろう。
そしてフツヌシが物部氏の氏神だというのなら、「出雲国造神賀詞」での国譲りとは、崇神天皇60年から始まった「神宝」をめぐる出雲国内の内紛が、神話として表現されたものだと思えてくる。
○神賀詞のアメノホヒを、日本書紀の「甘美韓日狭(うましからひさ)」。
○アメノヒナトリを「鸕濡渟(うかずくぬ)」。
○フツヌシを、物部氏の「武諸隅(たけもろすみ)」。
○そして大穴持命を「出雲振根(ふるね)」に割り当てれば、だいたい同じストーリーになるかと思う。
出雲の物部氏
(楯縫郡の石上神社所在地)
実際、物部氏の一部は、そのまま出雲に残って土着していったようだ。
神は、祭るものがいてこその神。
風土記のフツヌシがいきいきと描かれるのも、出雲で暮らした物部氏が語り継いだからのことだろう。
以下は『解説 出雲国風土記』(島根県古代文化センター)より、「楯縫郡の氏族」について二点抜粋(何となくの参考までに)。
また主政の物部臣は出雲の物部を統括した人物であるが、出雲臣と同じカバネ臣を有しており、出雲臣とも関係がある。ただし、出雲西部には物部関連の部民が多く分布しており、それらとの関係も推測される。
最後に主帳には物部臣氏がみえる。物部氏は乃呂志里の本簡にも登場しているほか、『風土記』にはみえないが現在出雲市塩津町・釜浦町など楯縫郡海浜部に石上神社(石上は物部が改姓した姓)が集中しており、この周辺が本拠地だったと推定される。
ところで、ここまでのフツヌシ談義に、まったく顔を出していない同時代の書物がある。
『古事記』だ。
なんと古事記には、フツヌシは一切出てこないのだ。
古事記のベースは蘇我氏の帝紀か
以前も取り上げた本だが、『六国史以前 日本書紀への道のり』(関根淳/2020年)によれば、古事記には"数ある「帝紀」の一つ"だという説があるそうだ。
「帝紀」は6世紀中頃に、皇室の系譜を中心に編まれた史書だということだが、時代が進むにつれて有力豪族や王族も、MY帝紀を編集して所有するようになっていたという。
そんな自家製の帝紀の一つが、蘇我氏が所有していた「天皇記」で、日本書紀はそれは「乙巳の変」で焼失したと書くが、事実ではないらしい。
それは天皇記が蘇我氏の帝紀だったからである。
それは蘇我氏打倒の目的で乙巳の変をおこした孝徳天皇(軽皇子)、中大兄皇子・中臣鎌足らにとっては無用の歴史書である。
無用どころか消し去るべき前代の政治権力にほかならない。
その副本(原本)は朝廷にもあり、その編纂資料となった帝紀・旧辞も他の豪族や朝廷にいくつか存在していたであろう。
したがって蘇我邸の天皇記が焼却されたとしても以後の修史事業に不都合はなかった。
天皇記は孝徳・中大兄らにとって排除すべき史書だったのである。
『日本書紀』があえて天皇記の焼かれたことを記述するのは蘇我氏の帝紀を否定する「史書」史における″大化改新"という演出である。
蘇我氏本宗家の蝦夷・入鹿とともに天皇記という史書はときの王権によって歴史的に抹殺されたのである。
(『六国史以前 日本書紀への道のり』関根淳/2020年)
蘇我氏の天皇記は、孝徳天皇・中大兄皇子に味方して勢力を維持した蘇我氏、「蘇我倉山田石川麻呂」の手に残り、これが現存する古事記のベースになったと、関根さんは書いている。
ところで蘇我氏のライバルといえば、物部氏だ。
日本書紀と比べたとき、古事記が物部氏の活躍をカットしたり、小さく扱っている箇所はいくつかある。
すぐ思いつくのは、神武東征でのニギハヤヒ。
それと、出雲を降した物部十千根の功績は、ヤマトタケルに差し替えられたか。
そして、フツヌシの全カット・・・。
これらは、もしも古事記がもとは蘇我氏の帝紀(天皇記)だったのだとしたら、さもありなんという話じゃないだろうか。
国つ神を大和=高天原から遠ざける古事記
(美保関)
もう一つ、ぼくが古事記の大きな特徴だと思うのが、「国つ神」の扱いだ。
○日本書紀のオオナムチは「大和」にも入ってくるが、古事記のオオクニヌシは立ち入ることがなかった。
○日本書紀のコトシロヌシは神武天皇の岳父だが、古事記のコトシロヌシは出雲の「美保の海」から二度と出てこなかった。
○アジスキタカヒコネが弔問したアメワカヒコの葬式は、日本書紀では天上界で行われたが、古事記では地上で行われた(アジスキは天上界には行ってない)。
そうやって「大和=高天原」と「出雲=葦原中国」の間に明快な線引きをして、「神々」をできるだけ「大和=高天原」から遠ざけようとする古事記を、「仏」を重んじる「崇仏派」の蘇我氏が書いたのだとしたら、全体としてはかなり辻褄が合った話であるように、ぼくには思える。
(鹿島神宮の武甕槌大神)
さて『六国史以前』によれば、蘇我倉山田石川麻呂の帝紀(天皇記)は、その死後、中大兄皇子の手に渡った可能性があるという。
中大兄皇子の側近といえば、中臣鎌足。
日本書紀の「国譲り」では、志願しての副将に過ぎなかったのに、古事記ではフツヌシを降ろして堂々の主将に成り上がった神「タケミカヅチ(建御雷神)」は、中臣(藤原)氏の氏神だという。
うーむ・・・。
中臣(藤原)氏の手で、古事記がさらに書き換えられた可能性とかって、あるもんなんだろうか。
「その⑰鹿島神社のしめ縄は、タケミカヅチの封印か」につづく