吉備津神社の桃太郎と温羅

〜吉備津彦の時代の朝鮮半島〜

備中一の宮の吉備津神社

吉備津神社

2021年春に参詣した、岡山県北区の備中国一の宮「吉備津神社」。 


平安時代には「承平天慶の乱」に神威があったとして、神階は「一品」にまで上り詰めたという。

伊弉諾神宮」とか「宇佐神宮」と同格ということだ。

吉備津神社
吉備津神社

本殿の建坪は255平方メートルで、高さでは劣るが広さでは「出雲大社」の二倍以上あるという。

実際、近くで見るとデカすぎて全容が分からなかったが、授与所に模型が置いてあって助かった。


南北に360mも続く回廊とか、さすがは山陽道では随一の威容だった。

備後一の宮の吉備津神社

吉備津神社
桃太郎の像

こちらは福山市の備後国一の宮、「吉備津神社」の境内に立っていた桃太郎の像。


ご祭神「吉備津彦命」は、第10代崇神天皇の命令で山陽地方を平定した皇族で、岡山界隈では桃太郎のモデルだと言われているそうだ。


昭和48年発行の『吉備津神社』(岡山文庫)によれば、"吉備津彦の鬼退治"は室町時代末期の勧進帳にも出てくるそうなので、なかなか由緒正しい主張のようだ。

一の宮の吉備津彦神社

吉備津彦神社
温羅神社

吉備津彦が退治したのは、自称、百済の王子「温羅(うら)」。

 

岡山文庫によれば、温羅は吉備の岩屋山に楯(城)を構え、船を襲って積み荷を奪ったり、婦女子を拉致したりと悪事の数々を重ねたという。


備前一の宮「吉備津彦神社」の境内には、温羅の「和魂(にぎみたま)」を祀る祠があった。

吉備津彦 vs 温羅

矢置岩
楯築遺跡

吉備津彦が陣を布いたのは、いまは備中一の宮「吉備津神社」が鎮座する「吉備の中山」。

手水舎の脇には、吉備津彦が空中でキャッチした温羅の矢を置いた、「矢置岩」がある。


また、弥生時代後期の王墓「楯築(たてつき)遺跡」は、吉備津彦が防戦の準備をした石楯だという。

矢喰宮
鯉喰神社

いよいよ温羅との決戦が始まり、吉備津彦が矢を放つと温羅も迎え撃ち、矢は全て相打ちとなって海に落ちたという。

そのとき、互いの矢がぶつかった場所に建つのが「矢喰宮(矢喰神社)」。


参道脇に転がる巨石は、温羅が矢に向けてぶん投げた「矢喰の岩」と呼ばれているそうだ。


吉備津彦に左目を射られた温羅がキジに化けて逃げると、吉備津彦は鷹に化けてこれを追う。


さらに鯉に化けた温羅を、吉備津彦が鵜に化けて捕らえた場所が、現在の「鯉喰神社」。

白山神社
米神

吉備津彦が温羅の首をさらした場所が、「白山神社」境内にある「米神(首塚)」。 


温羅は首だけになっても唸り声を上げ続け、犬に喰わせて頭蓋骨だけにされても騒ぐので、ついには吉備津神社の釜殿の地中に埋められたが、それでもなお13年間叫び続けたのだという。


・・・とまぁこんなかんじで吉備津彦に退治された温羅だったが、どんな悪人でも死者にむち打たないのが日本人の伝統だ。


温羅も最近では、吉備に製鉄の技術を伝えた渡来人じゃけー、岡山県民にとっちゃ恩人かも知れんのうー、と認識が変わってきたそうだ。


最近では、鬼のメイクで踊り狂う「うらじゃ踊り」がナウなヤングに人気だと、『岡山県謎解き散歩』というガイドブックには書いてあった。

温羅のいた時代

だが、忌避するにしても感謝するにしても、まずは温羅(が象徴する渡来人)が実在した可能性があるのかないのかは、気になるところだ。


吉備津彦が四道将軍として山陽地方に派遣されたのは崇神天皇10年というから、長浜浩明さんの計算によれば西暦212年ごろのこと。


その頃の半島の地図は、こんなかんじだ。

(出典  講談社学術文庫『古代朝鮮』井上秀雄/1972年)

現在の北朝鮮の場所に「帯方郡」の名前が見えるので、204年に「楽浪郡」が分割された後の朝鮮半島の様子だ。


まだ新羅とか百済とかの「国」はなくて、中国人は今の韓国の領域を「韓」と呼んで、便宜上3つのエリアに分けて把握していた。


なお、最近はすっかり有名になったが、半島の最南部は「倭」だと中国人は認識していた。


んで当時の半島情勢が記録されてる「三国志」から「魏志・韓伝」を読んでみると、お ー、あるある。


西暦205年ごろ、帯方郡を設置した「公孫康」なる群雄が、漢の遺民を集結させて軍を組織して、「韓」と「濊(わい)」を征討させた、という記事がある。


そのあとで、「倭」 も「韓」も帯方郡に所属したというから、この過程で、半島の不満分子が日本列島に渡来した可能性は、タイミングとしては大いにあり得る話のようだ。

ただ、それが優秀な技術系の渡来人だったかというと、話はチト微妙になってくる。 


たしかに「弁辰」は鉄を産出した。


だが「魏志・韓伝」によれば、その頃の半島南部の住人は「まさに囚人や奴碑が集まったにすぎないような様子」だったらしい。


村落は入り混じっていて統率できない」とも。


これは当時の中国人が、周辺国すべてを蔑視して悪態をついている、というわけではない。


「倭人伝」には


「倭人の風俗には節度がある」

「父子・男女の差別はない」

「女性はつつましやかで、やきもちを焼かない」

「追い剝ぎやこそ泥がなく、争いごとも少ない」

 「上下関係がはっきりしている」


なんて書いてあって、軽ーく土人扱いはしているものの、「倭」には一定の秩序とモラルの存在は認めている。


ネトウヨか?中国人(笑)。


どうやら「三国志(魏志韓伝)」を読む限り、朝鮮半島から高度な技術を携えた人々が渡ってくるのは、まだまだ先の時代になってからのようだ。