尾張氏の実像
〜弥彦神社の四拍手と先代旧事本紀の物部氏〜
二礼・四拍手・一礼の彌彦神社
2024年春に参詣した、新潟県弥彦村の越後国一宮で「彌彦(やひこ)神社」。
弥彦神社の特色として、参拝作法が「二拝、四拍手、一拝」と、あの出雲大社と同じ「四拍手」になっている点がある。
この理由について、弥彦神社の宮司・大森利憲さんは「古くからの習わし」としか言えないし、一般的な「二拍手」での参拝でも全く構わない、とご著書に書かれている。
(『彌彦神社』学生社/2003年)
いや、でもたしか懐かしの『逆説の日本史』(井沢元彦)には、出雲大社の「四拍手」には祭神オオクニヌシに「死」を伝える意味があって———と書いてあった記憶があるが、そんなら弥彦神社のご祭神にも、歴史に隠された暗い因縁の一つもあったんだろうか。
弥彦神社の祭神は「天香山(あめのかぐやま)命」。
この神は古事記や日本書紀の正伝(本文)には出てこないが、神代紀の第9段・第6の一書(参考文)に、天忍穂根尊の子である「天火明(あめのほあかり)命」の御子神で、「尾張連たちの祖先」だとして登場する。
この一書(参考文)においては、天火明命は天孫ニニギの「兄」だとされるので、天香山命はニニギの「甥」で、山幸彦の「イトコ」ということになる。
もちろん、四(死)拍手で封印されるような、暗い歴史を抱えた神なんかじゃない。
ただ、弥彦神社の祭神が、ずーっと天香山命だったかというと、そうではないようで、記録上は江戸時代に『大日本一宮記』を著した神道家、橘三喜が揮毫した神号が初見なんだとか(1678年)。
それまでの祭神は、社伝によれば709年に弥彦山に来臨したという「弥彦大明神」の神名で、長く呼び習わされてきたんだそうだ。
火明命(尾張氏)と皇室
(天火明命を祀る、尾張国一の宮「真清田神社」)
それにしても、天孫ニニギを「叔父」だという、天香山命を先祖とする「尾張氏」って、何だかエラく優遇されているような気がする。
神代紀の第9段・第8の一書にも、天香山命の父「天照国照彦火明命」が「尾張連たちの祖先神」だと書いてあって、二つの一書に、尾張連と皇室は「同祖」だと書いてあることになる。
その優遇の理由について、これまでぼくらは壬申の乱で天武天皇に貢献したことへの恩賞かと思っていたが、よく考えてみれば、そのタイミングじゃ記紀をいじるには遅すぎる。
それで手持ちの本をパラパラとめくってみたところ、かつては複数あった王家(と配下の地方豪族)ごとに並立していた神話が一本化されたのは欽明朝(『六国史以前』関根淳)——とか、実名とは別に「諡号」が確認されるのは第27代安閑天皇から(『六国史』遠藤慶太)——といった説があることを知った。
欽明・安閑はいずれも第26代継体天皇の皇子さんで、第27代安閑天皇と第28代宣化天皇は「尾張連草香(くさか)」の娘「目子媛(めのこひめ)」とのあいだに産まれた皇子。
一方、第29代欽明天皇は、継体天皇が即位するとき皇后に立てた「手白香皇女(たしらかのひめみこ)」とのあいだの皇子で、手白香皇女といえば父に仁賢天皇、母の父に雄略天皇という仁徳天皇4x4のインブリード。
当時最強のスーパー・プリンセスの子が、欽明天皇ということだ。
日本書紀にも、欽明天皇は継体天皇の「嫡子(むかいめばらのみこ)」だと強調してあって、まさに今に続く皇室の祖だ。
そんな、安閑〜欽明の時代に、神話や皇統譜の整備(帝紀・旧辞)は始められたのだという。
さてそうなると、古事記の天火明命の系図が表すものは、こんなかんじだろうか。
尾張氏の系統が、のちに続く皇室の「兄」の位置にあったのは、おそらく安閑・宣化のときだけだと思うので、日本書紀の一書で優遇される尾張氏ってのは、この時代につくられた神話上の皇統譜が、そのまま後世に引き継がれていってしまったもの・・・ってかんじなんだろうか。
飛鳥時代には、欽明天皇が中興の祖であることは強く認識されていたそうなので、天火明って誰よ?と思いながらも次代に申し送りされた可能性は、十分にあったのでは…という気がするが、残念ながら、それ以上の根拠はない。
尾張氏の実態
(尾張氏が奉斎した「熱田神宮」)
ところで日本書紀には、尾張氏が第5代孝昭天皇の皇后(世襲足媛)や、第10代崇神天皇の皇妃(尾張大海媛)を出したとあるが、ここらの系譜も、安閑〜欽明期の創作だという説もあるようだ。
というのも、かつては本居宣長の説にしたがって、尾張氏の出身を神武紀でヤソタケルや土蜘蛛が住んでいた「高尾張邑(葛城邑)」だとして、そこから尾張に移住したとみるのが主流だったそうだが、最近は、尾張氏は元々が伊勢湾を拠点にする「海人族」で、ヤマトタケルが現地妻としたという「宮簀(みやず)媛」が住んでいた熱田台地を本貫だと考えるのが、一般的なようだ。
尾張氏の別姓は「海部氏」だ(『熱田宮寛平縁起』)というんだから、きっと大和の内陸より伊勢湾の方が正解なんだろう。
孝昭天皇や崇神天皇の時代、尾張氏はまだ魚を獲るのに忙しかった?のかも知れない。
第19代允恭天皇5年(長浜浩明さんの計算で435年頃)に大和で地震が起こったとき、天皇は葛城氏に管理させている先帝(反正)の殯宮の状態を視察させるために「尾張連吾襲(あそ)」を派遣しているが、実際に尾張氏の人物が畿内で活動してるのはこれが初めてのケースなので、5世紀のこの頃、尾張氏は畿内に進出し、大和葛城に「連絡・出先機関」を置いたのだろうと、神話学者の松前健さんは書かれている。
(『日本の神々』1974年)
尾張氏が"大和葛城を本貫にする"とか、尾張氏と葛城氏が"多重な姻戚関係にある"ことなどは、この時代の尾張氏が創作した可能性もあるんだそうだ。
(出典『東西弥生文化の結節点 朝日遺跡』原田幹)
記紀において、尾張氏の登場が今イチ遅い理由と思われるのが、上の地形図。
キャプションには弥生時代前期とあるので、BC300年頃の図のようだが、濃尾平野南部がまだ完全な陸地ではなかったことが見て取れる。
図にある地域最大の弥生ムラ「朝日遺跡」は古墳時代に入ってすぐ「放棄」されたそうだが、その理由も「水没」だったのだとか。
古墳時代には、岐阜県大垣市あたりまで海が迫っていたことがボーリング調査で判明していて、ヤマトタケルは熱田から船で伊吹山に向かった、という興味深い話もある。
(『継体大王と尾張目子媛』森浩一/1994年)
要は、古墳時代前期の尾張氏の本貫は、それほど農耕生産性の高い土地ではなかったということだ。
(出典『邪馬台国時代の東海の王 東之宮古墳』赤塚次郎)
また、尾張氏の実力を古墳の展開から理解できるのが上の図で、「濃尾平野の主要古墳の変遷」。
濃尾平野南部では、「庄内川水系」なる名古屋市守山区の界隈に、4世紀初頭(300年ごろ)には全長115mの前方後円墳「白鳥塚古墳」などが造営されているものの、尾張氏の本拠地「名古屋台地」に前方後円墳が登場するのは、なんと5世紀に入る前後と、かなり遅い。
そこから6世紀初頭には、一気に東海地方最大級の「断夫山古墳」(151m)を築造するまでに成長していくわけだが、実は、尾張のハニワからもその状況が分かるのだという。
名古屋市博物館の藤井康隆さんによれば、5C後半までの尾張の円筒ハニワは「形態上の大まかな共通性があるものの、事例ごとに、形や製作技法のばらつきが目立つ」状態だったそうだ。
それが5C末〜6C初には「円筒埴輪の形や大きさが規格化し、製作技法の種類や組合せが画一的に」なったのだという。
つまり尾張が「地域統合」されたのは5C末頃のことで、断夫山古墳の造営は、尾張に「統治集団」が確立されたことの証しだと、藤井さんは書かれているわけだ。
(『古代豪族』2015年)
(出典『邪馬台国時代の東海の王 東之宮古墳』赤塚次郎)
なお、ネットなどでは、尾張氏と前方後「方」墳に関係があるような記事を見かけることがあるが、上の図のとおり、古い段階で前方後「方」墳が造営されたのは、濃尾平野北部の岐阜市(御野=みの)とか犬山市(邇波=にわ)のエリアのことで、尾張氏が本貫とする熱田方面には、前方後方墳はあまり見られない———というのが歴史のFACTのようだ。
先代旧事本紀の尾張氏
上の写真は、弥彦神社のあとに立ち寄った新潟県柏崎市の式内社で「二田(ふただ)物部神社」。
江戸時代の社記によると、祭神の「二田天物部 (ふたたのあめのもののべ)命」は天香山命に供奉して高志(越)国に来臨し、この地で亡くなったのだという。
越の「物部氏」については、弥彦山麓で自然銅が採掘されたことから、その精錬に長けた物部が居住した可能性は高いのだという。
(『白鳥伝説』谷川健一)
だが何故、尾張氏の祖神が新潟で祀られているかというと、これは実際の歴史の反映というわけではないようだ。
物部氏が尾張氏と深い繋がりがあると書くのは、『先代旧事本紀』という史書だ。
先代旧事本紀の「天孫本紀」には、天香語山命の亦の名を「高倉下(たかくらじ)」だとあるが、高倉下は日本書紀では、熊野の神に祟られた神武天皇に物部の聖剣「韴霊(ふつのみたま)」を献上した人物で、その聖剣はその後、物部氏の氏神「石上神宮」のご神体として祀られたという。
つまり記紀をみる限り、高倉下と尾張氏には何の関係もない。
また、先代旧事本紀は、日本書紀が物部氏の遠祖であると書く「ニギハヤヒ(饒速日命)」を、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と書いたうえで、亦の名を「天火明命」だという。
要は、尾張氏と物部氏の祖先は「同一神」だと主張しているわけだ。
だがこの先代旧事本紀という史書、平安時代初期の成立か?とは言われるものの、実はどこの誰がいつ書いたのか、皆目見当が付かないというシロモノで、基本的には「偽書」として扱われることが多い問題児なのだ。
一応、物部氏に異常なまでに偏重した記述から見て、すでに没落した物部系の何者かが書き散らかしたもの、という意見が多いようだ。
ところで歴史学者の加藤謙吉さんによれば、日本書紀の継体天皇6年2月条にのる大伴金村の「任那4県」割譲の件と、欽明元年9月条にのる大伴金村の「大連」失職の件は、いずれも大伴金村の「自業自得」が強調され過ぎていて、「潤色の跡が濃厚」なのだという。
なので加藤さんは、「話を造作したのが(※ライバルの)物部氏で、どちらも物部氏の家記に基づく記述であることは明白」だと書かれている。
(『大和の豪族と渡来人』2002年)
これはつまり、物部氏の「家記」は、すでに日本書紀の中に織り込まれていることを意味するわけで、仮に物部氏と尾張氏が「同祖」だという事実があるのなら、記紀のどこかにチラッと書いてあっても不思議ではないことになるだろう。
なにしろ物部氏と言えば、物部守屋が蘇我氏に滅ぼされるまでは、ずっと皇室の近くにいた大豪族なんだから、安閑〜欽明で尾張氏が浮上したとき、「同祖」が事実なら多少の言及はあってもいいだろうし、そもそも継体天皇の即位には、物部麁鹿火も関与しているとある。
というわけで、弥彦神社の祭神が尾張氏の祖神なのは、没落した平安時代の物部氏が書いたという『先代旧事本紀』の歴史観や世界観の影響によるもので、実際の歴史の反映ではないというのが、ぼくの印象だ。
意味も理由も想像がつかないが、没落した平安時代の物部氏には、尾張氏にドッキングする何らかのメリットがあったんだろう。
《追記》宣化天皇と尾張氏
第28代宣化天皇といえば、継体天皇と尾張目子媛の第二子として誕生しているわけだが、母の実家(尾張氏)をエコひいきしたりはしなかったようだ。
即位元年(537年)5月、天皇は筑紫の「那津(なのつ)」の屯倉に稲穀を集約する詔を発しているが、そこでの尾張氏の役目は蘇我稲目の指揮下に入り、実際に筑紫まで稲穀を輸送するというものだったようだ。
蘇我大臣稲目宿禰は、尾張連を遣わして尾張国の屯倉の穀を運ばせ、物部大連麁鹿火は、新家連を遣わして新家屯倉(伊勢国壱志郡、今の三重県津市新家町にあった屯倉か)の穀を運ばせ、阿倍臣(大夫阿倍大麻呂)は、伊賀臣を遣わして伊賀国(三重県西部)の屯倉の穀を運ばせ、官家を那津(福岡市)のほとりに建てよ。
(『日本書紀・下』中公文庫)
つまりは、蘇我氏・物部氏・阿倍氏・・・より一段下がる、尾張連・新家連・伊賀臣という図式だ。
なお、この宣化天皇の記事を最後に中央政界での尾張連の活躍は途絶えたのか、日本書紀で次に尾張連の名前が出てくるのは、天武天皇13年に旧「連姓」の50氏が「宿禰姓」を賜った——という記事にまで飛ぶことになるようだ。