群馬と長野のミワとカモ
〜大物主と大国主は同一神か〜
上毛野の美和と賀茂
2024年6月に参詣した群馬県桐生市の「美和神社」。
927年に成立した官社リスト「延喜式神名帳」にその名がみえる、由緒正しい「式内社」で、正史『日本後紀』には796年に官社に列したという記録があるそうだ。
祭神は、本社である大和国一の宮「大神(おおみわ)神社」で祀られている「大物主神」で、「軍神(征討神)」と見なされた祭神をかついで、ミワ系の氏族が蝦夷征討に活躍したことが、正史からも窺えるんだそうだ。
(『古代氏族 大神氏』鈴木正信/2023年)
美和神社と歩調を合わせて796年に官社に列したのが、渡良瀬川をはさんで5キロ南に鎮座する式内社の「賀茂神社」。
こちらの祭神は、山城国一の宮「賀茂別雷神社(上賀茂神社)」で祀られる「賀茂別雷(かもわけいかづち)神」だ。
桐生市のミワとカモは、いずれも畿内を代表する一の宮からの勧請ということで、似たようなイメージがあるといえばあるんだが、カモの広がりは氏族の移動ではなく「社領」の広がりによるものなんだそうだ。
白水社『日本の神々』シリーズをパラパラめくってみると、北陸若狭や越中、四国土佐などのカモ神社が、山城賀茂神社の社領だったとある。
このミワ氏とカモ氏が「同族」だったことは、記紀両方に書いてある。
まず日本書紀の神代第8段第6の「一書」(参考文)には、大己貴神が海を照らして現れた自己の「幸魂奇魂(瑞祥と神霊の魂)」を三諸山(三輪山)に造営した神宮に住まわせた——というエピソードがあり、この「大三輪の神」の子孫が、「甘茂君」「大三輪君」などだと書かれている。
古事記の方には、「大物主大神」の祟りで疫病が蔓延した時、オオモノヌシの希望で神の4世孫「オオタタネコ」が招聘されたが、この人の子孫が「神(みわ)君」「鴨君」だと書いてある。
なおミワとカモが「君」姓なのは、「君姓の氏族は、かつては大王家またはそれに準ずる権威を持った家柄」(岡田精司)だったから、という説もある。
カモ・ミワの他だと、宗像氏や上毛野氏なんかが「君」姓だ。
ミワの大物主神には、朱塗りの「矢」に姿を変えて、女性のホト(女陰)を突いたという伝説があるが、同じような神話はカモ氏にもあり、祖神タケツノミの娘・タマヨリヒメが河で拾った赤い「矢」を寝床に挿し置いたところ、たちまち妊娠し、「別雷命」を産んだという伝承が『山城国風土記』(逸文)に載っている。
古代史家の大和岩雄さんによれば、この朱塗りの矢=赤い矢は太陽光線を意味していて、元を辿れば新羅系の渡来氏族「秦(はた)氏」が持ちこんだ、「アメノヒボコ(天日槍)」の「日光感生神話」に行き着くんだそうだ。
カモ氏が、秦氏と組んで山城の開発に従事したことはよく知られているが、ミワ氏も、河内の陶邑(すえむら)で渡来人を束ねて須恵器製造に携わったということで、そんな秦氏をからめた関係性の中で始祖神話が共有されたんじゃないか——という話のようだ。
北信濃の美和と加茂
この春、ぼくらが訪問した長野市にもミワ・カモのコンビがあって、上の写真は長野市三輪の式内社で、大物主神を祀る「美和神社」。
『日本の神々9』によれば、大和一の宮「大神神社」のご神体がこちらに奉納されたので、本社の方にはご神体がない——というような言い伝えが『善光寺縁起』に残されるのは、「このあたりに大和の三輪氏系の人が移って来たことを示す伝承とも解される」んだそうだ。
こちらは式内社ではないが、平安時代の創始だという長野市西長野の「加茂神社」。
善光寺七社のひとつで、美和神社からは善光寺を挟んで西に2キロの地点に鎮座していた。
祭神は、タケツノミの娘で、ワケイカヅチの母、タマヨリヒメ(玉依比売命)。
(鴨氏の氏神「鴨都波神社」)
それにしても、カモ氏の氏神といえば大和葛木の「鴨都波神社」で祀られる「事代主神」だったような気がするが、群馬でも長野でも、カモ神社で祀られるのは山城賀茂神社の神ばかり——というのはチト解せない気もする。
例えば日本書紀の神代第9段第2の「一書(あるふみ)」には、大己貴神が皇孫に国を譲って幽冥界に退去した場面に続いて、軍神「経津主(ふつぬし)神」による地上平定戦の様子が描かれているが、そのとき仲良く帰順してきた国つ神が、大物主神と事代主神だった。
ちょっと長いが、該当箇所を引用。
そこで大己貴神はお答えして、
「天神の仰せはまことにねんごろでございますれば、どうしてその勅命にそむき申すことでございましょう。私のいま治めております現世の地上のことは、今後皇孫がお治めなさいますように。私はしりぞいて幽界の神事をつかさどります」
と申し上げられた。
そして岐神(ふなとのかみ=猨田彦神)を二はしらの神にすすめて、
「この神が私に代わって皇孫に随従いたしますれば、私はこれでおいとまさせていただきます」
と申し上げて、身に瑞の八尺瓊の玉をつけて永久にお隠れになってしまわれた。
そこで経津主神は、岐神を先導として、国内をめぐりめぐって平定された。命に逆らう者があるとみな斬り伏せられた。反対に帰順する者にはみな褒美をあたえた。
このとき帰順した首魁は大物主神と事代主神とである。
(『日本書紀・上』中公文庫)
この「一書」が表すものは、神武天皇が大和入りする際に、「経津主神」を祖神とする物部氏の総帥「ニギハヤヒ」が帰順してきて、大和土着の豪族である三輪氏(大物主神)と鴨氏(事代主神)を降伏させていった———。
という、おそらく、実際に起こったことの「戦記」なんじゃないかと、ぼくなどは思っていたりするんだが、実のところ、神武天皇の皇居(橿原宮)が三輪と葛城の中間地点に造営されたのは、東西二大豪族にニラミを効かす意味があったんじゃないか———。
という気もしている。
(橿原神宮)
という感じで、元々のカモ氏の祖神が事代主神であるのは疑いのないところだと思うが、この神、「託宣の神」という特性が気に入られたのか、やがて皇室の宮中祭祀の中に取り込まれ、「御膳(みけつ)八神」や「宮中八神」の一柱に昇格していってしまったようだ。
こうなると、一豪族の祖神というには畏れ多く、憚られる存在だ。
鴨氏の一部は雄略天皇の時代、祖地・葛木を離れて北上し、秦氏と組んで山城の開発にあたったというが、次第に新たな始祖神話が必要になったのかも知れない。
ただその新しい祖神のタケツノミ(賀茂建角身命)が神武東征に随行して、始めに拠点としたのが大和「葛木山」だというのは、自分たちのルーツを始祖伝説に残す、そんな意図があったのかも知れない。
山城国風土記にいう。可茂の社。
可茂というのは、日向の曽の峯に天降りされた神、賀茂建角身命が、神倭石余比占(神武東征)の先導役として立たれ、最初は大倭の葛木山の峯に宿られ、そこより次第に居所を遷した。
まず山代国の岡田の賀茂に到り、さらに山代河沿いに川を下られ、葛野河と賀茂河との合流地に到着された(以下略)。
(『風土記・下』角川ソフィア文庫)
大物主神と大国主神は「同一神」か
(賀茂別雷神社)
(大穴持神社 御所市公式サイト)
ただこの件について、古事記は大国主神と大物主神を明確に分離させているし、日本書紀の本文(正伝)にも両者を同一神と匂わせるような箇所はない。
記紀においてそう主張するのは、日本書紀の参考文(別伝、異伝)である神代第8段第6の「一書」だ。
そこではまず大物主神を「大国主神」の多数の異名の一つに挙げたうえで、スクナヒコナが去って途方に暮れる大己貴命の前に海を照らして「神」が現れて、こんな会話が交わされたという。
そこで大己貴神は尋ねられた。
「では、そう言うおまえは何者だ」
その神は答えて、
「私はおまえの幸魂奇魂(瑞祥と神霊の魂)である」
と仰せられた。大己貴神は、
「たしかにそのとおりだ。たしかにおまえは私の幸魂奇魂である。いまどこに住みたいか」
と尋ねられた。その神は答えて、
「私は日本(やまと)国の三諸山に住みたいと思っている」
と仰せられた。
そこで大己貴神は神宮を三諸に造営して、住まわせられた。これが大三輪の神である。
この神の御子は甘茂君たち、大三輪君たち、また姫踏輔五十鈴姫命である。
(『日本書紀・上』中公文庫)
おそらくこのとき大己貴神がいった「たしかにおまえは私の幸魂奇魂である」を根拠にして、815年成立の氏族名鑑『新撰姓氏録』の頃には、「大神朝臣」の系譜に「スサノオの6世孫・大国主の後裔」が加えられていたんじゃないかと思われるが、あくまでこれは参考文「一書」のみに記されたこと。
別の「一書」では(上記の通り)オオナムチが幽冥界に隠遁した後に、オオモノヌシがフツヌシに帰順したとされているわけで、同一視の一書だけを絶対視し、分離してる方の一書を無視するのは、(学問的には?)正しい態度とはいえないようにも思える。
また、正史「日本書紀」の「本文(正伝)」では、大己貴神はスサノオの「実子」として出雲で誕生しているわけで、大己貴神の「幸魂奇魂」が大和三輪に住みたがる理由は、特に見あたらないような気もする。
また、同一神なら相互互換があってもいいように思うが、オオモノヌシを祀る式内社は、出雲にはなかったような記憶がある。
それにそもそも、大物主をその別名だという時の「大国主神」の表記は日本書紀ではあまり使われないもので、この一書を提出した氏族の素性を漠然と表しているような気がしないでもない(むろん出雲臣)。
しばしば言われる、各地の「国魂」の集合体が「大国主神」だというのも、大和国でそこに吸収されるべきは、三輪山に住む蛇身のタタリ神などではなく、大和の地主の神である「倭大国魂神」の方が相応しいように、ぼくには思えるのだった。
(倭大国魂神を祀る「大和(おおやまと)神社」)
なお、現在の大神神社では正式に、大物主神と大己貴神を「別神」として祀っていて、しかも大己貴神の方は「摂末社」の待遇だということだ。
神饌もまた本案(案とは神饌などをおく木の台)は大物主大神一柱のみに献げ、大己貴神・少彦名神への神饌は脇案に、しかも相嘗の形でお供えする。
おそれ多いことながら、早く申せば摂末社の御待遇と大差ないのである。
(『大神神社』中山和敬/1971年)
ま、あれこれ考えても結論の出ない話ではあるが、山城賀茂氏の始祖伝承に全くオオクニヌシの姿が見えないのも、一つのヒントのような気もしている。
なお『出雲国造神賀詞』の大物主については、こちらを参照してください(『出雲国造神賀詞』のオオクニヌシとオオモノヌシ)。