西暦310年頃、日本武尊の東征(2)

房総と武蔵の出雲族

房総の出雲族

玉前神社

2020年夏に参詣した、上総国一の宮「玉前(たまさき)神社」。

古墳時代、千葉県東部には「伊甚(いじみ)」という国があったが、その国造はなぜか「出雲系」だという。


伊甚国の南には「阿波(安房)」という国があったが、こちらも先祖は「アメノホヒ(天穂日)」。すなわち出雲国造と同族だという。


ただ不思議なことに、彼らの氏神だという上総「玉前神社」も阿波「安房神社」も、祭神は出雲とは全くの無関係。オオクニヌシもスサノオも、オラ知らねといった風情だ。

武蔵の出雲族

氷川神社

一方、こちらは武蔵国一の宮「氷川神社」。

やはり出雲国造とは同族だという「兄多毛比(エタモヒ)」なる人物が、初代の「无邪志国造」に就任したというが、氷川神社の主祭神はスサノオだ。

武蔵の古社

しかも、『武蔵の古社』(菱沼勇/1972)という本を読むと、南北朝時代の神道学者・吉田兼永が書き残すところによれば、氷川神社創建の際、スサノオを勧請したのは、あのヤマトタケルなんだそうだ。

出雲伊波比神社

出雲伊波比神社

氷川神社に限らず、武蔵国にはヤマトタケルが出雲系の神を祀ったのが創始だと、社伝に残る神社が結構ある。所沢市の「中氷川神社」や入間市の「出雲祝神社」、毛呂山町の「出雲伊波比神社」には、ぼくらも参詣してきた。


でも、皇族であるヤマトタケルが、なにゆえに征服された側の出雲の神々を祀って回る必要があったんだろう。それも、出雲から遠く離れた武蔵の地でだ。

所沢の物部氏

北野天神社

ヤマトタケルが創建したという所沢市の「北野天神社」は、元々は「物部神社」として物部氏の祖神・ニギハヤヒを祀っていたところに、後から京都の北野天神が勧請されたのだろうと、『武蔵の古社』では考察している。


ところが当地でニギハヤヒを祀った「物部直(あたえ)」の一族は、氷川神社に伝わる系図によると、初代「武蔵国造」エタモヒの子孫に当たるらしい。

つまりは物部を名乗ってはいるものの、元を正せば出雲族だということだ。


この点について『武蔵の古社』では、こう説明している。

日本武尊の東征以来、従軍してきた物部の部民が、武蔵国内にも相当居残っていたと思われるふしがある」ので、それらを統率させるために、中央の物部氏が婚姻などで関係を結んだ相手が、出雲族の物部直なのだろうと。


なるほど、ヤマトタケルの軍団には、軍事氏族・物部氏の「部民」として従軍してきた出雲族がいて、彼らは武蔵国に留まったということか。


ヤマトタケルはそんな出雲族に、祖神の祀りを許したのだろう。それが氷川神社を始めとした出雲系神社の縁起というわけか。


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出雲族の二回の移住

安房神社

安房神社

しかし、武蔵はそれで説明がついたとして、房総はどうなる?

なぜ同じように出雲系国造でありながら、房総には出雲系の祭祀が見あたらないのか。


日本書紀で、ヤマトが出雲を攻撃したのは二回。

一回目は西暦237年ごろ、出雲王「出雲振根」が四道将軍に誅殺されたとき。

二回目が西暦254年ごろ、物部十千根が出雲の「神宝」を検校したとき。

(西暦は長浜浩明さんの計算による)


ぼくは、このうち一回目の攻撃で屈した「出雲郡」の人たちが房総に「屯田」させられた人たちで、二回目の攻撃で出雲全域が降伏し、そののち「意宇郡」の人たちが310年頃、ヤマトタケルに従軍して武蔵に移住した・・・そんなイメージを持っている。


前者の屯田は強制かつ懲罰的な意味もあっただろうが、後者の頃にはヤマトと出雲の融和も進み、役に立つ開拓民として祖神の祭祀も許してやった・・・そんなかんじではなかったかと。


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房総の「土師器」

邪馬台国時代の関東

しかし、出雲族の屯田だ移住だと騒いでも、考古学の裏付けがなければ単なる妄想だ。

それで3世紀後半の関東について、各地の研究者が議論してる『邪馬台国時代の関東』(2015年)という本など読んでみたが、出雲の話題はなし。


いま分かってることと言えば、房総あたりからは北陸の南西部(敦賀とか)と東海の西部の土器が出土してるということ。

ただ、それ以外にも気になる記述はあった。

古墳出現期には関東地方各地の土器様式圏の差異性は急激に収斂し、共通性が目立つようになります。

そして古墳前期には汎列島的な斉一性を備えた「土師器」が定着します。

(「2、3世紀のサガミの集落と古墳」西川修一)

なるほど、房総に初めての前方後円墳が作られた西暦250年頃から、弥生土器はしだいに独自性を失っていって、画一的な道具「土師器」に移行していった・・・という話か。


そういえば、日本書紀には垂仁32年(長浜浩明さんの計算で西暦257年ごろ)のこととして、「野見宿禰」という人が「埴輪」を開発して「土師の職」に任ぜられ、本姓を「土師(はじ)臣」に改めたというエピソードが載っている。


この野見宿禰の出身地が、出雲だ。


房総には出雲の土器が大量に持ちこまれていたが、それはもはや日本中に転がっているありふれた道具「土師器」に過ぎず、出雲族の入植の物証にはなり得なかった・・・なんて考えてみたが、これもまぁ今のところ空想だ。


ヤマトタケルは成務天皇か(常陸の倭武天皇)」につづく