日本書紀には「おおむね」本当のことが書いてあると受け止めているぼくらでも、60年間(長浜浩明さんの計算だと30年間)もの長い在位でありながら、国境と国造の制定以外にはこれといった事績のない、第13代成務天皇についての記述はそのまま信じることが難しい。
なにしろ、その5年から48年までが全くの空白なのだ。
しかも天皇にとっては事績よりも重大な「系譜」が、成務天皇だけはぼんやりしていて、后妃もなければ子どももいない。なのに在位だけは60年(30年)も続いているという・・・。
この成務天皇の異様な記述の理由を、ぼくらは成務天皇の即位前の姿が「ヤマトタケル」だからと考えてみた。ヤマトタケルが即位して、成務天皇になったということだ。
成務天皇には、父の景行天皇から受け継いだ日本統一という大事業があり、その結果として国境・国造の制定があったわけだが、なんらかの理由でその親征はヤマトタケルの冒険譚に書き換えられて、景行天皇の記録に組み込まれてしまった。
それで事績のないヘンテコな天皇ができあがってしまった・・・んじゃないかなぁと。
【関連記事】ヤマトタケルは成務天皇か 〜倭武天皇と市辺天皇〜
(上総湊港 写真AC)
んで、もしもそんな書き換えがあったとしたら、景行天皇とヤマトタケルの遠征は、おそらく順番が入れ替えられていることだろう。
①景行天皇の九州巡幸
②ヤマトタケルの熊襲征伐
③ヤマトタケルの東国遠征
④景行天皇の上総行幸
以上が日本書紀の記述になるが、ぼくが気になるのが、いずれもヤマトタケルの方が父より遠くまで出かけている点。
西は、景行天皇は宮崎・熊本までだが、ヤマトタケルは鹿児島まで踏み入っている。東も、景行天皇は千葉まで(風土記だと茨城も)だが、ヤマトタケルは東北南部から甲信越までと、息子のほうが広い範囲で行動している。
なので”ヤマトの拡張政策”という観点からすれば、次のような順番が自然なような気がしている。
①景行天皇の九州巡幸
②景行天皇の上総行幸
③成務天皇の九州巡幸
④成務天皇の東国、甲信越巡幸
(上総湊港の空撮 写真AC)
記紀の記述を綜合してみると、ヤマトタケルは熊襲征伐からの帰り道に、出雲、吉備、難波に立ち寄って、悪い神を倒したりしている。この行動は、実際には成務天皇が各地を回って国境と国造を制定していった事業の、説話的な表現なのかも知れない。
ちなみに古事記はその序文で、神武天皇のあとの4人の偉大な天皇として、崇神(祭祀改革)、仁徳(経済政策)、允恭(氏姓制度)そして成務天皇(国家統一)の名を挙げている。
※日本武尊の巡幸は『肥前国風土記』の佐嘉郡、小城郡、藤津郡と『美作国風土記』の逸文に出てくる。また、『阿波国風土記』の逸文には「倭建天皇命」の巡幸の様子が載っている。
(磐鹿六鴈を祀る「高家神社」写真AC)
———さて、以上はクソ長い前置きということで、それでは日本書紀の順番を入れ替えて、ヤマトタケルの英雄譚より先に、景行天皇の上総行幸について。
日本書紀によれば景行天皇はその53年(長浜さんの計算で316年頃)、早逝した小碓王(ヤマトタケル)を偲んで、東国の巡幸を開始したという。
といっても行った先はヤマトタケルが立ち寄った記録のない「上総」のみ。
ぼくは先に景行天皇が平定していたから、ヤマトタケルは上総を安全地帯としてスルーできた気がするが、それはさておき、上総の「淡水門」に渡った景行天皇は、鳥の鳴き声に誘われて海に潜ると、ハマグリを捕まえて戻ったという。
このとき、そのハマグリを膾に料理して天皇を喜ばせたのが「膳臣(かしわでのおみ)」の祖「磐鹿六鴈(いわかむつかり)」だ。今は料理の神様として、南房総市の「高家神社」などで祀られている。
(「神門5号墳」2022年冬見学)
ところでさっきは「平定」なんて書いてみたが、上総の界隈は3世紀なかばには、すでにヤマトの勢力圏に入っていたようだ。
千葉県市原市の「神門古墳群」のうち、最古とされる「5号墳」は36mほどの前方後円墳で、築造年代は弥生時代終末期。
近くには「南中台遺跡」や「長平台遺跡」といった集落が営まれていて、福井あたりの北陸系を中心に、近江や東海の土器なども出土しているそうだ。
つまりは西からの移住者がつくったムラだということで、移住者が大きな竪穴住居に住み、大きな墓に埋葬されたことが分かっているようだ。
ですから房総の人達は喜ぶというよりも、とても洗練された人達が来て、あれよ、あれよという間にいろんなものを作られてしまいましたというような感じなのだろうと思います。
(『邪馬台国時代の関東』ふたかみ史遊会編/2015年)
(神門古墳群「案内板」)
(「景行天皇行在所遺跡」2023年秋見物)
日本書紀では上総どまりの行幸だが、同時代に編纂された『常陸国風土記』では、景行天皇は常陸まで巡幸している。
まず信太郡(日高見国)では、「浮島の帳の宮」で井戸を掘らせたとあって、上の写真は茨城県稲敷市浮島にたてられた石碑。風土記の逸文の方には、景行天皇は浮島に30日間、滞在したとある。亡き息子を偲ぶだけなら、チト長い気もする。
なお、今はこんもりとした丘になっている浮島だが、明治時代までは本当に霞ヶ浦に浮かぶ島だったそうだ。
(『ヤマトタケル』産経新聞取材班/2017年)
(印西市の「鳥見神社」2023年秋参詣)
それと、行方郡には下総国印旛郡の「鳥見の丘」で国見をした天皇が、行方郡の方角に「雲気」を見たことから「霞の郷」。それが転じて「香澄の里」になったという、地名の由来が載っている。
「国見」をしたということは、景行天皇にとって下総から常陸は自分の版図ということになるそうだ。
(磐鹿六鴈を祀る「高椅神社」2024年春参詣)
磐鹿六鴈と景行天皇のやり取りについては、奈良時代末に成立したと言われる膳氏(高橋氏)の家記『高橋氏文』にも載っている。
ただこの『高橋氏文』にはその60年に崩御ゆえ、存在しないはずの「景行天皇72年」の記述があったりで、果たして本当に膳臣の代々の伝承かというと疑問もあるそうだが、そこには目をつぶって話を進めると、磐鹿六鴈が天皇を饗応したとき、そこには「無邪志(ムサシ)の国造の上祖・大多毛比(オホタモヒ)」と知々夫(チチブ)国造の上祖が馳せ参じていたという。
(武蔵国造が奉斎した「氷川神社」2019年秋参詣)
このオオタモヒなる人物については、「国造本紀」に出てくる初代「无邪志(むさし)国造」の「兄多毛比(エタモヒ)」と同一人物だとされていて、国造本紀によると、エタモヒは「出雲臣の祖・二井之宇迦諸忍之神狭命」の10世孫にあたるという。
つまり出雲族だ。
ところでぼくは、日本書紀の崇神60年(237年頃)と垂仁26年(254年頃)の二度に渡って行われた、ヤマトによる出雲の「神宝」の検校の結果、出雲はヤマトに完全に降伏したと思っている。
【関連記事】出雲大神がホムツワケ皇子に祟る 〜出雲がヤマトに降伏した日〜
また、そのうち一回目(237年頃)の侵攻で降伏したのは、出雲西部(出雲市=出雲郡)の「プレ出雲氏」で、二回目(254年頃)の侵攻で降伏したのは、出雲東部(松江市=意宇郡)の「出雲国造家」だと思っている。
話すと長くなるので、詳しくは【関連記事】を。
【関連記事】出雲王「出雲振根」の謀殺 〜出雲族の追放と東国への屯田〜
それでヤマトに降った「プレ出雲氏」は、ヤマトの拡張政策の実働部隊として徴用され、四道将軍・武渟川別が率いる物部軍団に編入され、東海地方に「屯田」していったんじゃないか、とも考えている。
【関連記事】四道将軍「武渟川別」〜東海地方の「物部系」国造と那須の前方後方墳〜
それじゃ、景行天皇に料理をふるまった初代武蔵国造のエタモヒとは何者かといえば、ぼくは二回目の侵攻でヤマトに降った「意宇郡(松江市)」の出雲国造家の血を引く人物だと思っている。
その理由は、南北朝時代の神道学者・吉田兼永が、武蔵国一の宮「氷川神社」の祭神スサノオは、ヤマトタケルが東征の際に勧請したもの———と書いている点から。
(『武蔵の古社』菱沼勇/1972年)
ただ、以前から悩みのタネだったのが、出雲族が移住し、屯田したという割りには、埼玉や千葉の遺跡から出雲の土器などが出土しないこと。
すると上掲の『武蔵の古社』にはヒジョーに興味深いことが書かれていて、「国造本紀」でエタモヒの子ども達が、関東からは遠い「波伯(伯耆)」や「大嶋(周防大島)」の国造に任命されている点から考えると、エタモヒの一族はまず出雲から奈良盆地に移住して、そこから各地に赴任していったと考えられる———というくだり。
なるほど、エタモヒより一世代上には、埴輪の考案で有名な「野見宿禰」なんて先輩がいて、奈良盆地に住んで、垂仁天皇に仕えていたわけで、エタモヒもふるさと出雲の土器や生活習慣は早々に捨ててしまい、畿内の庄内式や布留式の土器を使うシティボーイとして成人したのかも知れない。
そういえば、千葉の神門古墳群からは、北陸系や東海系にまじって、畿内の庄内式土器も出土していると書いてあるな。
なお、出雲族の降伏までの経緯は、上の方の【関連記事】にいろいろ学者の説を引用してあるんだが、それ以外でも3C後半の出雲平野の状況が書かれた文を見つけたので、ここに引用しておく。
文中の「九号墓」というのは、3C半ばの出雲平野に築造された、出雲平野では最後の弥生王墓(四隅突出型墳丘墓)のことを指している。
ところが、この九号墓が築造された弥生時代終末期を最後に、西谷墳墓群における四隅突出型墳丘墓の造営は突如としてみられなくなる。
そして、それに続く古墳時代初期大型古墳もこの地域には存在していない。
かわって小規模な方墳や円墳が築造されており、墓域としての機能は継続しているようだが、それ以前の様相とは大きく状況が異なっている。
また、ちょうどそれに連動するかのように、弥生時代終末期から古墳時代初頭を境に、出雲平野部の集落もその大部分が廃絶もしくは縮小している様相もみてとれる。
西谷墳墓群に葬られた出雲王達が弥生時代に誇った絶大な権力は、新しい時代の到来と共に突如として姿を消してしまったのである。
(『古代出雲と伊都国』伊都国歴史博物館/2017年)
(出典『古代東国の風景』原島礼二/1993年)
房総半島に話を戻すと、エタモヒの系統とはまた別の出雲族も、国造に任命されていたようだ。
まず房総では最大の規模を誇った「上海上(かみつうなかみ)」の国造が「忍立化多比(おしたてけたひ)」なる人物で、この人は出雲国造家の祖神とされる「天穂日命(あめのほひ)」の8世孫にあたるという。
んで、同じく天穂日命の8世孫だという「ミツロギ(弥都侶岐、美都呂岐)」の孫は、「阿波(安房)国造」。
同じ8世孫なのに、上海上のオシタテは「本人」で、安房はミツロギの「孫」ということで2世代ズレているわけだが、まぁそこら辺は「だいたい」「おおむね」で考えるしかないのだろう。
(上海上国造が奉斎した「姉埼神社」2022年春参詣)
ミツロギについては、その「子」も常陸の国造に就任していて、『常陸国風土記』でヤマトタケル(倭武天皇)に仕えていた「ヒナラス」が初代の「新治国造」に。
同じく風土記に出てくる「タケミサヒ(弥佐比)」が「高(多珂)国造」に、それぞれ着任している。
(安房国造が奉斎した「安房神社」2020年夏参詣)
んで風土記には、タケミサヒは「出雲臣氏と同じ一族である」とわざわざ注釈が入れてあるんだが、ぼくはミツロギの一族は、意宇の出雲国造家とは同族ではなくて、237年頃にヤマトに制圧された出雲平野の「プレ出雲氏」なんじゃないかと思っている。
理由は、ミツロギらが始祖だという天穂日命は、出雲国造家がヤマトから押し付けられた「祖神」だからだ。
(新治国造が奉斎した「稲田神社」2022年春参詣)
そもそもアメノホヒとはいかなる神かといえば、アマテラスとスサノオの「うけい」の結果として、2番目に成り出た男神で、皇室の祖神「天忍穂耳尊」の弟だ———ということになっている。
ヤマトが得意とした、神話上で系譜を接続させることで、敵対勢力を呪術的に取り込んでしまう戦法の一貫だ。
ただこのアメノホヒについては、日本書紀の登場人物にモデルがいたようで、それが237年頃に出雲平野を統べていた出雲王「出雲振根」が起こしたお家騒動を「ヤマトへの叛意あり!」と奏上して、四道将軍にフルネ殺害の口実を与えた「甘美韓日狭(うましからひさ)」なる人。
要するに、神話的にいえば出雲のオオクニヌシがヤマトに国譲り(降伏)するきっかけを作った人物で、その恩賞か、ウマシの子「鸕濡渟(うかずくぬ)」は、初代の出雲国造に任命されている。
(天穂日命を祀る「能義神社」2022年秋参詣)
といった感じで、出雲国造家からすれば、かつてヤマトと手を組んで出雲の王家を滅ぼしたという、暗い記憶を呼び起こすのが、「祖神」として押し付けられたアメノホヒ(皇室の祖の弟)だ。
それだけに出雲国造家にとって、アメノホヒはただの「ご先祖様」の扱いでは済まなかったようだ。
第82代の出雲国造・千家尊統さんによると、出雲国造は「神代」に交わした約束に従って、幽冥界に退去させたオオクニヌシを永久に祀るわけだが、その際、出雲国造は「天穂日命それ自体」になるのだという。
つまりアメノホヒは、オオクニヌシを祀るために出雲国造に「化身」して現れる神なので、日常的に祀ったり、崇めたりする神ではないらしい。
出雲国造といえば「現人神」として絶大な尊崇を受けている存在だが、それはまさに「神」そのものになるからなんだろう。
(出雲国造家の元々の奉斎社「熊野大社」)
———といったような話があるので、出雲国造家の血筋に当たり、意宇郡出身だと思われるエタモヒは、アメノホヒではなく「神狭命」の10世孫を称しているし、アメノホヒではなく(クシミケヌと習合した)スサノオを主祭神に祀ったのだとぼくは思う。
一方、ぼくの珍説ではミツロギの一族は出雲平野出身で、大穴持命(のちに大国主)を祀ってきたことになるわけだが、ヤマトの手前、屯田先の房総で、国を譲ったはずのオオクニヌシを祀ることは、さすがに憚られたことだろう。
だったらいっそ、自分たちを出雲から追い出した出雲国造家がヤマトから押し付けられたアメノホヒを、自分たちの祖神として前面に押し出してみたらどうだろう。
それは実際には、ミツロギらが過去に受けた仕打ちに対する意趣返しであり、呪詛でもあるが、表面的には出雲国造家に従属し、その擬制的な同族関係に収まることになるので、誰からも文句は出てこない———そんな立ち位置になるのではないか・・・なんて。
チト、考え過ぎか。
(姉崎天神山古墳)
おまけで上総(上海上)の前方後円墳について。
3C半ばの市原市に、3号、4号、5号の前方後円墳を中心とした「神門古墳群」があったことは上の方で見た通り。ただその頃の墳丘長は50mを超えず、ちんまりとしたもんだった。
それが景行天皇が行幸した4世紀代になると、「姉崎天神山古墳」「釈迦山古墳」「今富塚山古墳」と100mを超える規模まで大型化している。
九州では、景行天皇が巡幸した先で前方後円墳が大型化していく傾向が見られたが、東国も同様だったんだろうか。
ただいかんせん、市原市の100m級は今のところ調査不足で築造年代が「4世紀」までしか確定しておらず、景行天皇やヤマトタケルに絡めた話は難しそうだ。
景行天皇(11)ヤマトタケルはなぜ伊勢に立ち寄ったか 〜倭姫命と製鉄・軍事・海人族〜 につづく