応神天皇時代のヤマトと地方

 〜上毛野・日向・吉備 〜

太田天神山古墳」の竹葉瀬

太田天神山古墳遠景

2023年8月に見物に行った群馬県太田市の「太田天神山古墳」。

墳丘長210メートルは東日本最大で、築造された5世紀前半頃の「上毛野」の実力を物語っているという。


しかもこちら、ただデカいだけではなく、内容的にも周囲を圧倒している。


○まず「王の棺」といわれ、畿内の大豪族のみが許されたという「長持形石棺」を採用。

○さらに墳丘には、当時の畿内でも最新鋭の古墳に使われたばかりの「水鳥形埴輪」を搭載。

○そして陪冢の配置なども、畿内とほぼ同じだそうだ。

このように太田天神山古墳は画期的な古墳であり、その墳形は大阪府古市古墳群の規格が採用されている。


古市の津堂城山古墳や墓山古墳(羽曳野市)とはほぼ同規模の相似形、誉田御廟山古墳(応神陵古墳/羽曳野市)とは三分の一の相似形の関係にあり、大王墓の古墳規格の使用を承認されたことが明らかである。


(『古代王権と古墳の謎』若狭徹氏の論考より)

『古代王権と古墳の謎』

ということで引用の通り、東日本最大といっても別に「上毛野」に畿内に匹敵するような独立勢力があったということではなく、あくまでヤマトの差配において成立した古墳、ということのようだ。


考古学者の若狭徹さんによれば、太田天神山古墳の「長持形石棺」は石材こそ地元産だが、技術的には畿内産に酷似していて、ヤマトから工人が派遣されたのだろうという、白石太一郎氏の推定があるそうだ。

太田天神山古墳

さて、それではと「太田天神山古墳」の被葬者を日本書紀から探すなら、仁徳天皇53年に新羅に派遣された「上毛野君の祖」である「竹葉瀬(たかはせ)」が候補に挙がるだろうか。


長浜浩明さんの計算では、仁徳天皇の在位は410〜428年頃なので、仁徳天皇に仕えた「竹葉瀬」のお墓が5C前半築造の「太田天神山古墳」というのは、とりあえずタイミングだけは合っていると思う。

上毛野の荒田別と鹿我別

浅間山古墳

(浅間山古墳 高崎市公式サイト)

出雲国造家が、自家の系譜に「16代当主」だと書く「淤宇宿禰(おうのすくね)」がヤマトに出仕していたように、この時代、地方豪族はただ田舎でイバっていたわけじゃなく、当主自らがヤマトとの間に「仕奉関係」を結んで、中央政権で働いていたようだ。


応神天皇15年(396年頃)、勅命によって、典籍の博士「王仁(わに)」を百済に迎えに行ったのが「上毛野君の祖である荒田別(あらたわけ)と巫別(かんなぎわけ)」。


ふたりの人物の名前があがっているが、「巫別」の方は、神功皇后49年(379年頃)に「荒田別」とともに新羅征討の将軍に任命された、「鹿我別(かがわけ)」と同一人物だと言う説がある。


そうだとすると、上毛野から来た「名のある」人物が二人になるわけで、これは実に興味深い。

というのも、5C初頭の上毛野では、ほぼ規模を同じくする2つの前方後円墳が築造されているからだ。


ひとつは「西毛」の高崎市「浅間山古墳」(172m)。

もうひとつが「東毛」の太田市「別所茶臼山古墳」(165m)。

別所茶臼山古墳

(別所茶臼山古墳 太田市教育委員会PDF)

日本書紀にその名を残す二人の「上毛野の祖」と、二つの大型前方後円墳。


実は「浅間山」と「別所茶臼山」の次世代にあたる「東毛」の「太田天神山古墳」にも、コンビとなる巨大古墳がある。

「西毛」の藤岡市に同じころ築造された、「白石稲荷山古墳」(155m)だ。


そして日本書紀には、「竹葉瀬」に続いて新羅に派遣された人物として、上毛野の「田道(たじ)」の名が挙げられている。

白石稲荷山古墳

(白石稲荷山古墳 藤岡市公式サイト)

つまり2世代にわたって上毛野から二人ずつ人物が出仕していて、2世代にわたって東西に大型前方後円墳が造営されたというわけだ(合計4人に4基)。


日本書紀の記述と考古学の成果が一致しているというケースの一つで、こうなれば当時の上毛野は、東西の二大勢力の均衡によって成立した国だったという仮説も、単なる推測ではなくなるのだろう(広瀬和雄さんなど)。

日向「女狭穂塚古墳」の髪長媛

復元図

(『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』東憲章/2017年)

「名のある人物」は、南国の「日向」からも来ている。


応神天皇13年(395年頃)、天皇は絶世の美女として知られる日向の「諸県君牛諸井(もろがたのきみうしもろい)」の娘「髪長媛」を招聘している。


日本書紀には、髪長媛は応神皇子の大鷦鷯尊(仁徳天皇)の妃となって、一男一女を産んだと記されるだけだが、死後は故郷の宮崎県に葬られたと言う説がある。


考古学者の北郷泰道さんは、5C前半に「西都原」に築造された九州最大の前方後円墳「女狭穂塚(めさほづか)古墳」(176m)を髪長媛の陵墓、同じころに隣接して築造された日本最大の帆立貝形古墳の「男狭穂塚(おさほづか)古墳」(176m)をその父・諸県君牛諸井の墳墓だと主張されている。

『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』東憲章/2017年

この二基は全長こそほぼ同じサイズだが、前方後円墳の「女狭穂塚」は、墳丘が畿内の古市古墳群「仲津山古墳」(290m)を5分の3に縮小した相似形なうえ、その「陪塚」も仲津山と同様に「方形」、出土する埴輪も畿内式だという。


一方、帆立貝形の「男狭穂塚」からは「非畿内的埴輪」が出土していて、地元色が強いんだそうだ。

(『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』東憲章/2017年)


そうした特徴から北郷さんは、「女狭穂塚」を故郷に「帰葬」された天皇妃・髪長媛の陵墓だとお考えのようだ。

また、髪長媛が故郷に葬られたとするのは、出土人骨の親族関係の分析結果、上ノ原横穴墓群(大分県三光村)などで配偶者が合葬されず、故郷に帰葬されたと推定される五世紀代の被葬例からいって、不思議なことではない。


(『西都原古墳群』北郷泰道/2005年)

『西都原古墳群』北郷泰道/2005年

ヤマトに嫁いだから、お墓もヤマト式というところか。

ならば父の「男狭穂塚」が、正規の前方後円墳ではないが同じ全長、というところにも、ヤマト側か、日向側かの意向がうかがえるのだろう。

吉備造山古墳」の御友別と兄媛

造山古墳空撮

(写真AC)

この時代は、ひとつの古墳に一緒に埋葬されたのは「夫婦」ではなく「キョウダイ」だったという説もある。


そんな話を聞いて、ぼくが思い浮かべたのが、「吉備」だ。

男と女がもし葬られていたとしたら、最近の流れからいくと、それはキョウダイというか、同じ血縁の男女が入っているパターンになります。

夫婦だと血がつながらないので、別の古墳に入ってしまうという。

たとえば継体天皇の墓が大阪の三島(高槻市)にあって、その妻(手白香皇女)の墓が奈良の天理市にあるという。

そういうのが普通だったのではないでしょうか。

(中略)

その人骨が残る例では、高知大学の清家章さんの研究のように、被葬者が二体あるときに、男女で血縁者、おそらくキョウダイであるということが、四世紀では一般的であることがわかってきました。


(『巨大古墳の出現 仁徳朝の全盛』2011年)

巨大古墳の出現 仁徳朝の全盛

応神天皇22年(400年頃)春3月、天皇は難波の「大隅宮」に行幸されたが、妃の「兄媛(えひめ)」が故郷の吉備を恋しがるので、淡路島の海人80人にヒメの護送を命じている。


秋9月には天皇自ら吉備の「葦守宮」に行幸、兄媛の兄「御友別(みともわけ)」一族の働きぶりにいたく感心し、吉備国を分割して御友別の子供たちに封じたと、日本書紀には書いてある。

造山古墳案内板

上の写真は、5C前半に築造された岡山市の前方後円墳「造山古墳」の案内板。


墳丘長は350メートルと全国でも4位で、天皇陵以外ではもちろん日本最大。


発掘はされていないので詳細は不明だが、陪塚を調査した考古学者の西田和浩さんによれば、畿内には類例が見られない大陸系の出土品や九州系の埋葬施設の存在などから、当時の吉備が各地と独自のネットワークを結んでいたことが考えられるんだそうだ。


ただ、だからといって5C前半の吉備にヤマトと双肩するような「吉備政権」があったかというと話は別のようだ。


350mというスケールを誇る「造山古墳」にしても、あくまでヤマトの古墳展開の枠の中での造営であって、「吉備政権」が独自に構想したものではないらしい。

しかも造山古墳は、大和王権の王墓である履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)のサイズにとりわけて似ている。


(中略)造山古墳は、履中陵のおおむね96パーセント前後のスケールで造られている。偶然の範囲を超えた類似である。

また、造山古墳の蓋形埴輪には吉備地域の在地性がなく、畿内中枢の製品との共通性が高い。

また窖窯による埴輪の焼成も、畿内の技術に依拠したもの。

畿内からの具体的な情報あるいは技術指導のもとで製作されている。


(『古代王権と古墳の謎』松尾光氏の論考より)

上石津ミサンザイ古墳

(「上石津ミサンザイ古墳」写真AC)

要するに吉備とヤマトでは、だいたい同じ時期に、だいたい同じサイズの巨大前方後円墳を築造したわけだが、残念ながらその内容を吟味すると、吉備の「造山古墳」はヤマトの「上石津ミサンザイ古墳」に比べて、かなり見劣りする出来に終わってしまったということのようだ。

第二に、大和川水系の巨大前方後円墳と共通した墳丘形式をもち、墳丘の規模では匹敵するものの、マイナス要素も見受けられる。

その一つは、周濠と周堤の外域施設がないことだ。

そこまでの巨大性は必要でなかったのか、それとも墳丘の築造だけで「精一杯」だったのか。

盛上が少ないという点にも、力量の限界があらわれているという印象を受けないではない。


墳丘の巨大性の意義は減ずるものではないにしても、見かけの大きさに比して、そこに省かれた労働量からすれば、中央政権からの要請があったにもかかわらず、それに応じるだけの実力が不足していた、という見方が妥当ではなかろうか。

造山古墳の長持形石棺が組合せ式ではなく刳抜式だ、というのもその追加要因である。


(『前方後円墳とはなにか』広瀬和雄/2019年)

前方後円墳とはなにか

ところで上の引用で、古墳の専門家である広瀬さんは、造山古墳は「中央政権からの要請」で築造されたと書かれている。


それは「上石津ミサンザイ古墳」の「96%相似形」という造山古墳の墳丘を思えば、納得のいく説明だと思う。


ではなぜヤマトは吉備に、巨大古墳の造営を「要請」したんだろうか。


ぼくに思いつくのは、日向の髪長媛と同じ理由で、天皇の妃を出身地の巨大古墳で「顕彰」することで、出身地の人々にヤマトの権力の巨大さを誇示するため・・・といったかんじか。


もちろん、天皇妃のためだけでは吉備の人たちは動かないだろうから、造山古墳の名目上の被葬者は兄の「御友別」だろう。


ただ、当時は「キョウダイ葬」の習慣があったので、兄と一緒に応神天皇妃の「兄媛」も、造山古墳に合葬された可能性もあるんじゃないだろうか。

古墳時代の岡山平野

古墳時代の岡山平野

(図6 古墳時代の岡山平野 『吉備の超巨大古墳 造山古墳』)

ぼくがなんとなく「吉備政権」説に共感できない理由が、上の「図6 古墳時代の岡山平野」。


5C前半の吉備は、今のJR岡山駅まで海が迫っていたわけで、平地面積は驚くほど狭かったようだ。


こういう地形から河内・大和の平野部を基盤とするヤマトに匹敵する勢力が生まれてくるとは、ぼくにはちょっとイメージしにくいのだった。


実際、奈良盆地に300mの「渋谷向山古墳」を頂点として200m超級がバンバン造られていたころ、吉備では150mにリミッターでもかけられたかのように、100〜150mの中規模のみが造られた。


最初期の「浦間茶臼山古墳」(138m)が、箸墓古墳のちょうど「二分の一」という点も、吉備に対するヤマトの評価というものが、露骨に現れているような気がしないでもない。


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