吉備「造山古墳」と百舌鳥「上石津ミサンザイ古墳」の被葬者

造山古墳と上石津ミサンザイ古墳

造山古墳

岡山市北区の「造山(つくりやま)古墳」。


 上の写真で、民家の向こうに見える土手のようなものが墳丘で、全長350m、高さ29mは全国でも4位という巨大前方後円墳だ。

あまりのデカさに、登る気は一瞬にして失せてしまったもんだ(笑)。


築造されたのは5世紀前半で、その頃にはまだ1位の「大仙陵古墳(仁徳陵525m)」も、2位の「誉田御廟山古墳(応神陵425m)」もまだこの世に存在しておらず、3位の「上石津ミサンザイ古墳(履中陵 360m)とどっちが先だったかという話で、もしかしたら吉備の「造山古墳」が日本一の古墳だった時期もあったのかも知れない。

案内版

造山古墳がデカいだけでない証拠が、前方部に確認できる一辺15〜20mの「高まり」で、それは天皇陵にしか見られない「方形檀」の可能性があるのだとか。


また、造山古墳の「陪塚」を調査された西田和浩さんによると、畿内からも出土のない希少性の高い大陸系副葬品が出てきたり、九州発祥の横穴式石室の採用があったりと、吉備の勢力がヤマトとは異なる独自のネットワークを築いてきたことは、確実ということだ。

(『吉備の超巨大古墳 造山古墳群』西田和浩/2020年)。

『吉備の 超巨大古墳 造山古墳群』西田和浩/2020年

「吉備政権」はあったのか

ただ、造山古墳のデカさから、古代の吉備にヤマトに双肩・対抗・匹敵できるような勢力があったかというと、いろいろ疑問もあるようだ。


造山古墳と同時期に、ヤマトが初めて百舌鳥(堺市)の地に築造したのが(3位の)「上石津ミサンザイ古墳」360mだが、実は造山古墳はその相似形で、ほぼ96%のサイズなんだそうだ。

つまり設計者は同じ。


また、出土した埴輪なども畿内に技術を依拠したもので、吉備地域の在地性などは見られないのだという。

(『古代王権と古墳の謎』新人物文庫/2015年)。

上石津ミサンザイ古墳 写真AC

(上石津ミサンザイ古墳 写真AC)

上の写真は「上石津ミサンザイ古墳」の空撮で、たしかに墳丘自体のサイズは造山古墳と10mしか違わない。だが、上石津ミサンザイ古墳には「周濠」と「周堤」があり、それらを含めた全長は600mを超えるという。


丘陵を切り出して造られた造山古墳とは、そもそもの「質」が違うようだ。

『前方後円墳とはなにか』表紙

そんなわけで、考古学者の広瀬和雄さんの造山古墳への評価は、厳しいものがある。


○周濠や周堤がないのは、墳丘の築造だけで「精一杯」だったのか 

○盛土が少ないところにも「力量の限界」が現れている 

○中央政権からの要請に応じるだけの「実力が不足」していた


という感じで「吉備政権」という、なかば独立した政治勢力の存在は「首肯しがたい」とのこと。

もちろん、ヤマトの一翼を担う「準大王(おおきみ)」の地位にあったことには疑いがないそうだ。

吉備の弥生墳丘墓・楯築遺跡

『吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓』

(出典『吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓』)

古代の吉備にはヤマトに対抗できる勢力があった———と思いたくなる理由の第一には、弥生時代後期の西暦180年ごろ、倉敷市に造られた弥生墳丘墓「楯築(たてつき)遺跡」の存在があると思う。


「双方中円形」という珍しい形状で、その全長は当時日本最大の72m。 

まだ奈良盆地には、「王墓」と見なせる墳墓は存在していなかった時代の話だ。

『吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓』表紙

それから大分経った3世紀中ごろまでには、奈良盆地にも「纒向石塚古墳」や「ホケノ山古墳」といった100m級の「王墓」が現れて、ついには全長280mの前方後円墳「箸墓(はしはか)古墳」という形に結実していくわけだが、楯築遺跡の発掘を担当された福本明さんによれば、前方後円墳には楯築遺跡から多くの要素が採り入れられたのだという。


具体的には「円筒埴輪」「竪穴式石槨」「葺石」「朱の使用」などで、これらは楯築遺跡ですでに完成形を見せていたそうだ。

楯築遺跡の墳頂部

(楯築遺跡の墳頂部)

ところが、そんな画期的な楯築遺跡の各要素は、(特殊器台・特殊壺の祭祀を除くと)なぜかそれ以後の吉備の首長墓には引き継がれなかったのだという。


楯築遺跡の前も後も、吉備の弥生墳丘墓のスタイルはてんでバラバラで、多様さこそが吉備の特徴といえば聞こえがいいが、 ついに出雲の「四隅突出型墳丘墓」のような強い共通性を持つことはなかったんだそうだ。


実際、何代にも渡って造られた出雲の「四隅突出型」と違って、吉備では楯築遺跡の「双方中円形」はこれ一基で終わってしまい、唯一近い形状の「鯉喰神社墳丘墓」も、その本体は円形でなく「方形」だった。


それに、ただ一つ吉備で広く使われた特殊器台についても、それを「埴輪」にまで昇華させたのはヤマトであって、「宮山型」という最終形式は吉備からは一カ所しか出土していないのだそうだ。

各地から唐古鍵遺跡に運ばれてきた土器

(出典『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』)

吉備の前方後円墳

さて、楯築遺跡から前方後円墳が生まれた(?)となると、一番スッキリする説明としては、吉備の勢力が奈良盆地に移動してヤマトを建国した———になるのかも知れない。


もちろんその可能性はあるんだろうが、ぼくにはちょっと違和感がある。


まず、箸墓古墳が築造されたころの奈良盆地は「空き地」だったわけじゃなく、弥生後期に地域一番のムラだった「唐古・鍵遺跡」もあれば、それを引き継いだ「纒向遺跡」もあった。


また、吉備がヤマトの「故地」だとしたら、造山古墳以前に吉備に造られた前方後円墳が、チトしょぼすぎる(失礼!)。


奈良盆地に300mの「渋谷向山古墳」を頂点として200m超級がバンバン造られていたころ、吉備では150mにリミッターでもかけられたかのように、100〜150mの中規模のみが造られた。


最初期の「浦間茶臼山古墳」(138m)が、箸墓古墳のちょうど「二分の一」という点も、吉備に対するヤマトの評価というものが現れているような気がしないでもない。

古墳時代の岡山平野

(図6 古墳時代の岡山平野 『吉備の超巨大古墳 造山古墳』)

箸墓古墳が築造されたころの吉備の国力は、ぼくらのイメージより小さかったか、と思わせるのが上の「図6 古墳時代の岡山平野」。


当時の岡山平野は、今のJR岡山駅あたりまでが海の中で、耕地面積はイメージよりずっと少なかったようだ。


弥生時代後期の吉備勢力にまとまりがなく、バラバラにやっていたのも、平地が山地に分断されがちな地形のせいもあったのかも知れない。


こうした土地から、畿内を一つにまとめ上げるような強大な権力が生まれたとは、ぼくにはチト考えにくい感がある(個人の感想です)。

造山古墳と上石津ミサンザイ古墳の被葬者は

造山古墳空撮 写真AC

(造山古墳 写真AC)

日本書紀によると、応神天皇は22年(長浜浩明さんの計算だと西暦400年ごろ)、ふるさとを恋しがるお妃「兄媛(えひめ)」を吉備に帰郷させてやると、ご自身も追って吉備に行幸されている。


そこで兄媛の実兄「御友別(みともわけ)」らの働きぶりに感心すると、吉備を分割して御友別の一族に与えたという。


ところでぼくが、かねがね疑問に思ってることの一つに、例えば「仁徳陵」は父の「応神陵」より大きいが、それは子である仁徳天皇ご自身が望んだことなのか?・・・ということ。


むろん体系化された「儒教」はまだ輸入されていない時代だとは思うが、人の子として、父より大きいお墓を欲しがるもんなんだろうか、 と。

上石津ミサンザイ古墳の「周濠」 写真AC

(上石津ミサンザイ古墳の「周濠」 写真AC)

ただ、たしかに毎回毎回、子が親に遠慮して、親より小さい古墳を築いてしまうと、天皇陵はどんどん小さくなってしまう。

例えば、一号基の「箸墓古墳」280mにつづく天皇陵「西殿塚古墳」は230mしかない。


こうした問題をどう解決したらいいのか。 

一つには親が存命中に、あらかじめ子どものお墓を決めてしまう手もあると思う。


ぼくは応神天皇のお墓は、古市古墳群ではじめて250mをこえた「仲津山古墳」(290m)じゃあるまいかと思っていたりするが、応神天皇ご自身の命令であれば、その皇子のために70mも大きい360mの「上石津ミサンザイ古墳」を造ってやっても角は立たないだろう。


じゃー応神天皇は誰のために「上石津ミサンザイ古墳」を造ったのか。 そりゃー溺愛した最愛の皇太子、「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」なんじゃないか。


ただ菟道稚郎子さんは、応神天皇の崩御後、皇位を弟の仁徳天皇にゆずって自死しちゃったので、この古墳の中にいるとは考えにくい。


それならむしろ、仁徳天皇の方が可能性は高いか。

5世紀に百舌鳥に造られた天皇陵は、年代順に「上石津ミサンザイ」「大仙陵(大山)」「土師ニサンザイ」の三基だけで、日本書紀が百舌鳥に葬られたと書く天皇は「仁徳」「履中」「反正」の三帝のみ。


合理的に考えれば、百舌鳥最初の巨大古墳には仁徳天皇が眠っている・・・?

大和・柳本、佐紀、古市、百舌鳥古墳群の展開と消長

出典『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』今尾文昭/2014年

さて、かたや造山古墳の被葬者は誰かといえば、やはり溺愛したお妃「兄媛」さんじゃないだろうか。


もちろん名目は、応神天皇が吉備のリーダーと見なした「御友別」の墓所として。


一応、根拠もあって、考古学者の菱田哲郎氏によれば、この頃はひとつの古墳に一緒に葬られたのは、夫婦ではなく「キョウダイ」だったと考えられるのだそうだ。

男と女がもし葬られていたとしたら、最近の流れからいくと、 それはキョウダイというか、同じ血縁の男女が入っているパターンになります。 

夫婦だと血がつながらないので、別の古墳に入ってしまうという。 


たとえば継体天皇の墓が大阪の三島(高槻市)にあって、その妻(手白香皇女)の墓が奈良の天理市にあるという。 

そういうのが普通だったのではないでしょうか。

(中略)

その人骨が残る例では、高知大学の清家章さんの研究のように、被葬者が二体あるときに、男女で血縁者、おそらくキョウダイであるということが、四世紀では一般的であることがわかってきました。

(『巨大古墳の出現 仁徳朝の全盛』2011年)

『巨大古墳の出現 仁徳朝の全盛』2011年

いずれも応神天皇の命令で造られたから形もサイズも似ていたが、いかんせん、吉備勢力の実力では「上石津ミサンザイ古墳」のクオリティは望むべくもなく、総体として見劣りする「造山古墳」で満足するしかなかった・・・とか。

《追記》門脇禎二さんの説

後日、歴史学者の門脇禎二さんが「造山古墳」の被葬者を「御友別」と推測している文章を読んだので、参考になるかと思い引用。

造山古噴にだれが祀られているかというと、御友別だといった人はありません。みんな吉備津彦であるとか、吉備の首長であるとかいいますが、すでに申してきたように、吉備津彦は現地にきたこともないわけです。

もし伝承と結びつけるならば、御友別の墓だというのがいちばんふさわしい、その次の作山古墳は、御友別の子どもの稲速別の墓だと考えるのが、いちばんよいのではないか、と拙著(『吉備の古代史』NHKブックス1992)に書きました。

ところが、わたくしも書くまで気がつかなかったのですが、これは新説である、といわれました。


(『古代日本の「地域王国」と「ヤマト王国」上』2000年)