応神天皇の皇太子「菟道稚郎子」は自殺か、他殺か

神奈川県・前鳥神社の菟道稚郎子

前鳥(さきとり)神社拝殿

写真は2023年夏に参詣してきた、神奈川県平塚市の式内社で「前鳥(さきとり)神社」。


主祭神は応神天皇の皇太子で、皇位を異母兄の「大鷦鷯尊(仁徳天皇)」に譲って自害したという「菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)」。


菟道稚郎子を祀る神社といえば、皇子の宮室のあった「菟道(宇治)」に鎮座する「宇治神社」と「宇治上神社」が知られるが、前鳥神社の社伝によれば、仁徳の呼びかけで蘇生した菟道稚郎子は一族を引き連れて東国に移住し、死後この地で神として祀られたのだという。

前鳥(さきとり)神社鳥居

菟道稚郎子は、宇治のある山城国南部を拠点とした古代豪族「和珥(わに)氏」のヒメ(宮主宅媛)が産んだ子で、側室(妃)の子でありながら正室(皇后)の子、仁徳を差し置いて皇太子に指名されたという人物。


父の応神天皇はなぜか菟道稚郎子を寵愛し、有名な漢籍の博士「王仁(わに)」は、菟道稚郎子の家庭教師として百済から招かれている。


前鳥神社でも"学問の神さま"として菟道稚郎子を祀っているようだ。

栃木県・野木神社の菟道稚郎子

野木神社

2022年春に参詣した、栃木県の「野木神社」でも菟道稚郎子が祀られていた。


ただ、こちらの菟道稚郎子は、仁徳天皇の時代に「下毛野国造」に任命された「奈良別(ならわけ)」が、皇子の「遺骨」を奉じて祀ったものだという。


奈良別は日本書紀には登場しないので、菟道稚郎子との関係は不明だが、仁徳天皇の時代に同族(上毛野氏)の「竹葉瀬」「田道」の活躍が載っているので、全くの無関係ではなかったのかも知れない。


まぁそれでも、菟道稚郎子は播磨国の風土記では「宇治天皇」と書かれるほどの存在なので、さすがに死後の遺骨を持ち出したりはできないだろう。


ちなみに、日本書紀には即位の記録がないのに風土記で「天皇」と書かれるのは、他に「倭武天皇」のヤマトタケル、「息長帯比賣天皇」の神功皇后、「市辺天皇命」の市辺押磐皇子がいるようだ。

和珥氏と皇室

宇治神社

(宇治神社 写真AC)

それにしても、応神天皇がなぜ、皇族出身の皇后が産んだ大鷦鷯尊(仁徳天皇)ではなくて、側室の和珥氏との子を皇太子に指名したのかが「謎」ならば、父の命令に従わず、皇位を兄に譲って自害したという菟道稚郎子の真意も、「謎」というしかない。


そのせいか、菟道稚郎子の自害を一種の「他殺」だと疑う説は、昭和の昔から「定説」とされてきたのだそうだ。


例えば、ウィキペディアの「菟道稚郎子」のページには「参考文献」として『古事記における宇遅能和紀郎子について』(金澤和美/2007年)という論文が挙げられていて、そこでは昭和34年の神田秀夫氏の説として、菟道稚郎子の自害は「仁徳に攻め滅ぼされて自殺したと見るべき」という考察が引かれている。


そしてその背景は、「奈良の春日の丸邇(わに)氏と、葛城の葛城氏との争ひであつたと思ふ」とあり、金澤さんによれば神田説には「多くの説が従っている」んだそうだ。


また、同じ立ち位置の吉井巌氏は、仁徳天皇に皇位を譲ったという菟道稚郎子の美談は、他ならぬ和珥氏の「要請」によって、菟道稚郎子を「顕彰」するために日本書紀に挿入された、和珥氏側の伝承だという説を唱えているんだそうだ(昭和42年)。


実際には、仁徳天皇と対立して攻め滅ぼされたのだとしても、正史の上では「禅譲」によって「聖帝」に権力を委ねた「君子」として残して欲しい・・・といったような感じだろうか。

和珥氏とは

宇治川

(宇治川 写真AC)

一応「和珥氏」について触れておくと、元々は第5代「孝昭天皇」の皇子にはじまる皇族で、歴史学者の平林章仁さんによれば、「5〜6世紀の応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達の7天皇に9人のキサキを入れ、長期にわたり、天皇家の姻族として重きをなした」という一族。


ただ、菟道稚郎子を含めて、和珥氏のキサキが産んだ皇子が即位した記録はないそうだ。


また、軍事氏族の一面もあって、崇神天皇10年の「武埴安彦(たけはにやすひこ)」の反乱では和珥氏の「彦国葺(ひこくにふく)」が朝敵を射貫いているし、神功皇后2年の「忍熊王」の反乱でも和珥氏の「武振熊(たけふるくま)」が出撃している。


反乱を起こしたのはいずれも皇族なので、和珥氏には皇族に弓矢を向けても構わない地位と立場があったのだろう。


ちなみに垂仁天皇25年の条では、和珥氏は阿倍・中臣・物部・大伴と並ぶ五人の「大夫」とされている。

両面宿儺vs和珥氏

「両面宿儺」像

(「両面宿儺」像 飛騨高山観光公式サイト)

んで、そんな和珥氏を母とする菟道稚郎子が仁徳天皇の軍に攻められて自殺したが、和珥氏の「要請」で叛意は隠蔽され、兄弟で皇位を譲り合う美談に書き換えられた———というのが昭和の「定説」だということだが、・・・正直ぼくには今いちピンと来ない。


日本書紀は、菟道稚郎子は宇治に葬られたというから、菟道稚郎子が反乱?を起こして鎮圧されたのは、まさに和珥氏の本拠地ということになるだろう。


だが、和珥軍の総帥と思われる「武振熊」は、仁徳天皇65年に、勅命によって飛騨の怪物「両面宿儺(すくな)」を退治していて、"近衛軍"としての和珥氏の立場に変化はない。


それに、仁徳天皇の第三皇子「反正天皇」は、和珥氏から二人の娘を妃にもらっていて、臣下としての和珥氏の立場にも変化はない。


さらにはその時代、仁徳天皇の皇后のご実家として権勢を振るった葛城氏は、山城から近江にかけての「水運」を握っていた和珥氏とは「同盟関係」にあった、というような最新の学説もある。

(『謎の古代豪族 葛城氏』平林章仁/2013年)

皇族の反乱と河内王朝説

難波「高津宮」

(難波「高津宮」写真AC)

また、ぼくが不思議に思うのは、「仮に」仁徳天皇が菟道稚郎子を攻め滅ぼして即位したと考えたとき、それといわゆる「河内政権論」について言われる「強大」さとのあいだに、どんな整合性が付けられるのか、だ。

二世紀末から四世紀にかけては、実在した最初の天皇と目される崇神天皇の王朝が三輪山麓を本拠地として権勢を振るい、大和・柳本古墳群を展開した。


だがその後、応神天皇の王朝がそれまでの王朝にとって替わった


この時期に古墳の設営地が大和から大阪平野へと移動し、古市・百舌鳥古墳群が展開された。


誉田御廟山古墳や大山古墳をみると、この王朝の力がいかに強大だったかがうかがえる。

(『謎の四世紀と倭の五王』瀧音能之/2018年)

いわゆる「河内政権」の全盛期は、応神・仁徳・履中の時代になるんだろうが、この時代の天皇が本当に「強大」な権力を手にしていたかは、ちょっと疑わしいようにぼくは感じている。


まずは「忍熊王」にはじまって「大山守皇子」「隼別皇子」「住吉仲皇子」と、皇族の反乱が続いたこと。

昭和の「定説」に従うなら、菟道稚郎子もここに加わる。


さらに、重臣の「武内宿禰」には謀叛の嫌疑がかけられ、「葛城襲津彦」は天皇からの帰国命令に従わない。


仁徳天皇の53年には、それまで恭順していた「新羅」が朝貢を拒否。つづく55年には「蝦夷」までがヤマトに叛いている。飛騨の「両面宿儺」も何者かの反乱を暗示しているんだろう。


てなかんじで、日本書紀を読む限りでは、「河内王朝」の時代でもその前の時代でも、政権中枢は同じように内外にトラブルを抱えていて、落ち着くことがない。


「強大」な力をもった新王朝に「交替」したというなら、もうちょっと安定感があってもいいんじゃないかと、ぼくなどは思ってしまうんだが・・・。



百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵)と河内政権論」につづく