西暦253年頃、倭姫命、伊勢へ

(天津彦根命と建許呂命)

伊勢の弥生ムラ「隠岡遺跡」

隠岡遺跡

外宮からほど近い丘の上にある弥生ムラ、伊勢市の「隠岡(かくれがおか)遺跡」(2021秋見学)。


驚くべきことに、1984年にこの遺跡が発見されるまでは、弥生後期から古墳初期の伊勢市あたりは、人が住まない未開の地域だと見なされていたそうだ。

それゆえ『日本書紀』に記載される「倭姫(やまとひめ)による天照大神の伊勢遷座」などは、ただの作り話だと断定されてきた。


だが長浜浩明さんの計算だと、天照大神の「伊勢遷座」は西暦253年頃の出来事で、隠岡遺跡は3C後半の住居跡・・・。

もちろん、単に年代が近いだけの話でそれ以上のものではないが、伊勢のイメージが大きく変わるきっかけになった遺跡の発見であったことは間違いない。

倭姫命の巡幸ルート

倭姫命巡幸路

日本書紀によれば垂仁天皇25年、すでに皇居を離れて「笠縫邑」で祀られていたアマテラスの安住の地を探すべく、ヤマトヒメの「巡幸」がはじまった。

日本書紀には、ルートは宇陀から近江、美濃、そして伊勢だと記録されているが、伊勢神宮に伝わる文書『皇大神宮儀式帳』には、より詳細な記録が残されているそうだ。

古代の鉄と神々

それが上の地図の破線のルート。

神道学者の真弓常忠さんが書かれた名著、『古代の鉄と神々』(1985年)が出典だ。

実はこのルートには隠された秘密があったという。

ご苦労なことに真弓さんは、ヤマトヒメが滞在したとされる宮の場所を踏査されたそうだ。そして「巡幸地」が、いずれも古代の産鉄地であることに気が付いた。


砂鉄を原料にしたタタラ炉以前の製鉄は、褐鉄鉱(かってっこう)の団塊「スズ」を原料にした露天タタラで行われていたそうで、そこでは自然風が利用されたという。

濃尾平野の西の壁、養老山地から吹き下ろす強風は、露天タタラにはうってつけだ。


「スズ」は「沼沢や湿原に生える葦・薦・茅のような植物の根に、沈殿した水酸化鉄が、鉄バクテリアの自己増殖によって固い外殻を形成した」もの。

こいつは銅を熔解するより低温の700〜800度で鍛造することができたそうで、日本書紀に書かれたヤマトヒメの「巡幸」は、この「スズ」を求めた旅路ではなかったかと、真弓さんはお考えだ。

多度大社のアマツヒコネ

多度大社

巡幸路には「桑名」の名が見えるが、現在、三重県桑名市でアマテラスの三男「アマツヒコネ(天津彦根命)」を祀るのが、名神大社の「多度大社」だ。


アマツヒコネは、アマテラスとスサノオの「誓約(うけい)」から3番目に生まれた男神で、長兄は皇室の祖神「アメノオシホミミ」、次兄は出雲臣の祖神「アメノホヒ」という超VIPだ。


アマツヒコネは河内や山城など多くの国造や豪族の祖先だとされているが、どういうわけか古墳時代、遠く東国にもアマツヒコネを「太祖」だとする一族がいた。

「タケコロ(建許呂命)」の一族だ。

東国のタケコロ一族

馬来田駅

今は駅名としてのみ名を残す、千葉県木更津市の「馬来田国」、同君津市・富津市の「須恵国」、神奈川県大磯町の「師長国」、茨城県土浦市・つくば市の「茨城国」、福島県須賀川市の「石背国」などの国々が、タケコロの一族が国造を張った地域だ。


だが彼らは最初から、東国に暮らしていたわけではないだろう。

実際、支配領域も隣り合わせとは限らず、むしろ「出雲系」の国造と入り乱れるかたちで、「まだら」状に分布しているように見える。

御上神社の製鉄神・天之御影神

御上神社

滋賀県野洲市の「御上神社」。

アマツヒコネの「嫡流」を称する「三上氏」という豪族が、アマツヒコネの子「天之御影神(あめのみかげ)」を祀ってきた古社だ。


こちらの祭神「天之御影神」は、桑名の多度大社でも祀られているが、神名が異なる。

多度大社での名は「天目一箇神(アメノマヒトツ)」、タタラ炉を見つめて片目を失ったという、製鉄の神だ。

青銅の神の足跡

また、平安初期の氏族名鑑「新撰姓氏録」で、アマツヒコネの後裔として頻繁に名前がでてくる「額田部(ぬかたべ)氏」も、天目一箇神を奉斎して金属鋳造を専らとした集団だろうと、民俗学者・谷川健一さんの『青銅の神の足跡』(1979年)には書かれている。

何だかアマツヒコネからは、「鉄」の臭いがプンプンしてる・・・。

ヤマトヒメの軍事行動

ヤマトヒメの巡幸ルートには、別の説もある。


ヤマトヒメが旅立ったのは、その直前に垂仁天皇が時の首脳陣、「五大夫」に対して神祇祭祀の拡充を命じた後のことになり、この両件は一連の繋がった話だと見ることができる。

このときヤマトヒメに同行した?、「五大夫」のメンツが面白い。


○四道将軍として東海の攻略を担当した皇族、武渟川別(たけぬなかわわけ)

○外征に活躍した「和邇」の彦国葺命(ひこくにふく)。

○のちに伊勢祭祀を掌握した「中臣」の大鹿島。

○出雲の神宝を検校した「物部」の十千根

○ヤマトタケル東征の副将軍「大伴」の武日


以上、中臣を除けば皇軍の主力をなす軍団長たちというわけだ。

伊勢神宮

伊勢神宮側にも、巡幸の各地で国造や県造が「神戸」などをヤマトヒメに進献した記録があることから、歴史学者の田中卓博士は「明らかに皇威の宣布(大和朝廷の勢力拡大)であった」と述べられている———。

と、所功さんが『伊勢神宮』(1973年)という本で紹介されている。


つまりは、軍事行動だった可能性もあるってことだ。

とんでん

西暦250年ごろ、近江〜美濃〜北伊勢のどこかで、アマツヒコネを信奉する製鉄集団がヤマトに降伏した。

彼らは(武渟川別あたりの)軍団に組み入れられて、東日本の太平洋側に豊富に分布する砂鉄を求めて「屯田」した。

やがてその忠誠と功績が認められ、西暦320年ごろ、そのまま現地の国造に任命されていった・・・。


その一族のリーダーがタケコロだったのでは、などと考えてみたんだが、「常陸国風土記」によれば、タケコロは第15代応神天皇の誕生(355年頃)まで神功皇后の朝廷に仕えていたというので、彼がヤマトヒメ巡幸(253年頃)を知っているとなると、軽く100才オーバーか。


西暦254年、出雲、ヤマトに降伏か(出雲と物部、意宇と蘇我)につづく