神武天皇の部将①天富命

(阿波と安房)

阿波の国の天富命(アメノトミ)

大麻比古神社

徳島県鳴門市にある阿波国一宮「大麻比古神社」。

社伝によれば、忌部氏の祖「天富命(アメノトミ)」による創建だという。


天富命の名前は、正史『日本書紀』には出てこない。

彼の活躍が描かれるのは、忌部一族の斎部広成が807年に編纂したとされる歴史書『古語拾遺』の中でだ。


忌部氏の祖神は太玉命(フトダマ)という神さま。

その孫が天富命なので、彼らの子孫が祖先の活躍を書物でアピールしたってとこだろう。

大麻比古神社の御由緒には、アメノトミが守護神として太祖フトダマを祀ったのが神社のスタートだと書いてある。

アメノトミ、安房へ

古語拾遺

『古語拾遺』によれば、天富命は神武天皇の側近として、まず橿原の皇居の造営に当たったそうだ。

続いて彼は忌部の諸氏を率いて「種々の神宝、鏡、玉、矛、盾、木綿、麻」などを製造し、さらにはより肥沃な土地を求めて阿波に渡ったという。実に働き者だ。

そうして阿波は、麻や木綿の一大生産地に発展していったと『古語拾遺』には書いてある。


天富命の活躍は、それだけには留まらない。


阿波を富ませた彼は、阿波の忌部の一部を引き連れて、なんと千葉県の房総半島に渡っていったという。

天富命はここでも「麻・穀」を植えて、大成功を収めたそうだ。

上田正昭『新版 日本神話』

名著と名高い上田正昭『新版 日本神話』(1970年)によれば、忌部の分布の濃厚な地域には、「出雲・筑紫・讃岐・阿波・紀伊・安房」があるが、「それらの地域をつなぐルートは、陸上の道だけでは理解できない」とある。


アメノトミも、黒潮という「海上の道」柳田國男を渡っていったのだろう。

伊豆諸島、神津島の「阿波命神社」にも、「忌部氏の東遷」伝説が残されているそうだ。

布良崎神社

天富命に興味を持ったぼくらは、後日、南房総も回ってきた。


上の写真は、天富命の一団が海から上陸した地点といわれる、千葉県館山市の駒ケ崎に鎮座する「布良崎神社」の鳥居。

御由緒によれば、天富命は「麻・穀」の播殖のみならず、製錬技術、建築技術、漁業技術 をも指導したというから、まさにこの地に降臨した「神」だ。

洲崎神社

上は、館山市洲崎に鎮座する「洲崎神社」の随身門。

こちらは天富命が、フトダマの后神、つまりは自分のお婆ちゃんを祀ったのが始まりとされる神社だ。

安房神社

「安房神社」は安房国一宮にして名神大社、官幣大社の古社だが、それだけではない。なんと律令時代に「神郡」という領土を認められていた、7つの神社のうちの一社なんだとか。


ちなみに7つの神郡の内訳は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮、熊野大社(島根県)、日前國懸神宮、宗像大社と、安房神社だ。

これらの神社を、古代から中世までは 「独立国」だったと考える学者もいるそうだ。

(『アマテラスの誕生』筑紫申真)

個人的には、ヤマトの軍事行動に貢献した氏族の氏神かと思う。


写真はフトダマを祀る「上の宮」拝殿で、正面からはこぢんまりして見えるが、横から見るとさすがにデカい。ただし台風対策か、鉄筋コンクリート製。

かつうらビッグひな祭り(写真AC

安房を開拓した天富命は、最期は千葉県の勝浦市で没したという。その住居跡に建てられたとされるのが「遠見岬神社」だ。


ただし、旧社殿は江戸時代に津波で流されてしまい、 少し内陸に遷座して現在に至るのだとか。

ここは「かつうらビッグひな祭り」というイベントで有名らしい(画像は写真ACより)。


ということで、以上が天富命さんの事跡ということになる。


言うまでもないことだが、ぼくも「天富命」という人物が、実際に房総までやってきたとは考えてない。

忌部氏の東遷を人格化したのが、天富命さんの実像なんだろう。

港北ニュータウンの忌部氏

杉山神社

余談になるが、アメノトミの名前は遠く房総を離れた、神奈川県でも聞いた。

県内に多数分布する「杉山神社」を巡詣したとき、その一つ、横浜市都筑区茅ケ崎中央に鎮座する杉山神社に、興味深い社伝が残されていた。

こちらを創建したのは、安房国の忌部氏なのだという。

それによると、安房国の安房神社の社主の忌部勝麿という者が、天武天皇のころ、神託によって武蔵国杉山の丘に初めて神籠をたて、太祖高御産巣日神ならびに天日鷲命、由布津主(ゆふつぬし)命を祀ったのが杉山神社の始めであるという。

勝麿は由布津主命二十二代の末裔で、由布津主命は天日鷲命の孫である。

曲布津主命は、初めて安房神社を祀った天富命の子の飯長姫と婚し、それ以来その子孫は安房神社に奉仕していたというのである。

『武蔵の古社』(菱沼勇/1973年)

茅ヶ崎の杉山神社では、この社伝をもとに「延喜式」に載る「杉山神社」は当社であると主張しているそうだが、その真偽はさすがに不明のようだ。


神武天皇の部将②道臣命につづく