播磨国風土記の「漢人」と「韓人」

播磨国風土記の応神天皇

射楯兵主神社

姫路城の中曲輪内に鎮座する、式内社の「射楯兵主神社」。


「射楯(いたて)神」には水軍の神だという説もあるが、その根拠は「播磨国風土記」にある。


風土記によると、神功皇后が三韓征伐で海を渡ったときに船の舳先にいた「伊太代(いたて)の神」が鎮座しているので、この地を「因達の里」と呼ぶようになったのだそうだ。


住吉三神より、もうちょっとピンポイントで神功皇后を守護した神なんだろうか。

射楯兵主神社・拝殿

「因達の里」以外にも「播磨国風土記」には神功皇后のエピソードがポツポツ見えるが、なんといっても多いのが応神天皇にまつわる説話だ。


「飾磨」「揖保」「神前」「託賀」「賀毛」の各郡あわせて、ザッと34本も記事がある。


それも「ナニナニ天皇の御世に」のように時代を表すための登場ではなく、応神天皇ご本人が狩りをしたり、手を洗ったりと実際に播磨を巡幸したという記事だけでだ。


「常陸国風土記」の「倭武(やまとたける)」も登場回数の多い天皇(?)だったが、それとは比較にならない応神天皇の播磨での人気だ。

播磨国

(出典『風土記の世界』三浦佑之/2016年)

ただ、正史である「日本書紀」には、応神天皇が播磨に行幸したという記録はない。淡路島から吉備には回っているので、その前後に立ち寄ったという設定なんだろうか。


播磨国風土記で面白いのは、「郡」ごとに天皇が棲み分け(?)をしている点で、第15代応神天皇以前に播磨に行幸したと書かれる第12代景行天皇は「賀古」「印南」にのみ登場。


一方、応神天皇以後に巡幸したという第17代履中天皇は「美嚢」にのみ登場で、上記の応神天皇のエリアとは重なることはない(奥地過ぎるのか、宍禾郡に天皇の行幸はない)。


以前読んだときにも感じたことだが、やはり「播磨国風土記」は頭のいい人が編纂した、よく整理された風土記だと思う。

※明石郡、赤穂郡の本文は現存せず

播磨国風土記の時間軸

(播磨国一の宮「伊和神社」)

天皇の振り分けを空間的なヨコ軸の整理だとして、播磨国風土記では時間的なタテ軸もよく整理されている。


それは三段階に整理されていて、まずは大汝命(大国主)、少日子根命(スクナヒコナ)、火明命(ホアカリ)、阿遅須伎高日古根命(アジスキタカヒコネ)らが活躍した「神代」。


神話の登場人物なので、この神々が天皇と関わることはない。


つづいて「韓国」から渡って来たという「天日槍命(アメノヒボコ)」が、播磨土着の「伊和大神」や「葦原志許乎命(アシハラシコオ)」と土地争いを繰り広げたという時代。


日本書紀には新羅の王子、アメノヒボコが来日したのは第11代垂仁天皇の3年とあるので、長浜浩明さんの計算だと西暦242年頃のこと。

当然、伊和大神や葦原志許乎命もその頃の人物のはずだ。

出石神社

(天日槍を祀る「出石神社」)

そして彼らの土地争いは、景行天皇(長浜さんの計算で在位290〜320年)の時代の内には片付いていたようだ。


296年からの九州親征が播磨の何者かに妨害されたという話はないし、熊襲を征伐した日本武尊が帰路に倒したという「荒ぶる神」は、播磨でなく吉備と難波に現れている。


そして景行天皇を継いだ第13代成務天皇(在位320〜350年)の時代には、播磨は完全にヤマトの勢力下に組み込まれていたようだ。


『先代旧事本紀』によると、播磨では成務天皇の時代に「針間国」と「針間鴨国」に国造が置かれているし、さらに応神天皇の時代には「明石国」にも国造が置かれている。


応神天皇が巡幸したのは、もはや安全地帯となった後の播磨なのだった。

めでたしめでたし。

荒ぶる女神・御蔭大神

などと和んでいたら、なんと応神天皇の御世になってもまだ、恐ろしい荒ぶる神が残っていた。


播磨国風土記によれば、「枚方の里」の「神尾山」にいる「出雲の御蔭(みかげ)大神」は、通行人の半分を殺すという暴虐ぶりで、陳情を受けた朝廷は祈祷師を派遣したものの、どうやら効果はなかったようだ。


実は「御蔭大神」は女神さまで、先にこの地に来た男神が去ってしまっていたので、怨み怒って人間に八つ当たりをしていたのだった。


そこへ河内国の茨田(まむた)郡、枚方の里から「漢人(あやひと)」がやってきて、この神を敬い祭ったところ、神はようやく和やかに鎮まることができたのだという・・・。


播磨国風土記の特徴のひとつに、この「漢人」「韓人」といった渡来人の存在がある。

山陰の風景/養父市

(養父市の風景)

播磨国風土記の「漢人」と「韓人」

とか言ってるぼくだが、「漢人(あやひと)」と「韓人(からひと)」が同じ集団を別の呼称で言ったものか、それともそもそも別の集団なのか、実はよく分かっていない。


日本書紀に初めて「漢人」が出てくるのは、神功皇后5年に新羅を攻めた「葛城襲津彦」が連れてきた「俘人(とりこ)」たちで、葛城の4つの邑の「漢人」たちの始祖になったという。


彼らは先端技術をもつ渡来系工人集団だったと、歴史学者の平林章仁さんが書いている。


一方「韓人」は、応神天皇7年に来朝した「高麗人・百済人・任那人・新羅人」が第一号で、「武内宿禰」は彼らを率いて「韓人池」を造らせたのだという。


土木工学に秀でた人たちだったのか、それとも単なる人足だったのかは不明だ。


ただ、あくまで個人の感想だが、播磨国風土記では「漢人」と「韓人」は、何となく描き分けられてる印象が、ぼくにはある。

鬼ノ城

(鬼ノ城 写真AC)

「韓人」が壊した石像

まず「漢人(あやひと)」についてだが、「御蔭大神」の他にも土着の「伊和大神の御子神」を敬い祭ったりして、播磨の土地に溶け込もうとする姿勢をうかがうことができる。


一方「韓人(からひと)」は、鎌の使い方を知らないとか、富み栄えて「韓室(からむろ)」を造ったとか、自分たちの生活習慣のままに「城」を築いたとか、何となくビミョーに「厄介者」「ヨソ者」扱いされている印象が、ぼくにはある。


その印象を決定づけたのが、次の「韓人」のエピソードだ。


これも応神天皇の御世のことだが、揖保郡の神嶋に、仏像に似た美しい「石像」があったのだという。

そこに「新羅の貴人」がやってきて、石像の美しい表面を剥がし、輝く「瞳」を掘り取ってしまった。

神は悲しみ、激怒して嵐を起こすと、新羅の貴人の船を海に沈めてしまったのだという。


新羅の貴人たちを埋葬した場所を「韓浜」といい、土地の人は石神の前を通るときは「韓人」の話はせず、瞳のことも喋らないのだそうだ。

4世紀の朝鮮半島

渡来人と帰化人

田中史生さんの『渡来人と帰化人』(2019年)によると、313年に楽浪郡を滅ぼし、帯方郡も攻略した高句麗は、「郡の経営を担ってきた漢人や、華北の争乱を逃れた中国系の支配層・知識層を取り込み、彼らを積極的に登用した」のだという。


それは百済も同様で、「楽浪・帯方の遺民、華北の争乱を逃れた中国系の支配者や知識人を取り込んで、成長を加速させていた」という。


どうやら応神天皇の御世に朝鮮半島から渡来してきた人々には、中国系と朝鮮系がいたような感じだが、それがイコール「漢人」と「韓人」として認識されていたのかどうかは、結局のところ、よく分からないのだった(今後の宿題だ)。


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