(「斎宮歴史博物館」2025夏見学)
第12代景行天皇が九州親征から還幸された翌20年、というから長浜浩明さんの計算だと西暦300年頃、天皇の娘「五百野(いおの)皇女」が派遣されて「天照大神」を祭ったという。
五百野皇女は、景行天皇と「三尾氏」の姫との間にうまれた子で、三尾氏というのは近江国高島郡の豪族のようだ。
(斎宮のジオラマ)
五百野皇女は、伊勢の「斎王(斎宮)」としては二代目で、前任は「天照大神」を大和から伊勢に遷座させた「倭姫命」。
日本書紀によれば、ヤマトヒメは垂仁天皇25年(253年頃)、それまで「豊鍬入姫命」が大和国の「笠縫邑」で祭っていた「天照大神」の鎮座地を求めて旅にでて、近江、美濃を巡ったのち、伊勢を気に入ったという「天照大神」の言葉に従って、斎宮を五十鈴川のほとりに建てたという(磯宮)。
それから実に47年。ヤマトヒメもようやく自由の身になれたのだった。
ちなみに西暦300年頃というと、景行天皇は(長浜さんの計算だと)33歳なので、母(日葉酢媛命)を同じくするヤマトヒメは、かなり年上のお姉さんだったようだ。
(斎宮のジオラマ)
ところが、任を解かれたはずのヤマトヒメは、その後も伊勢に留まっていた。
10年後の景行天皇40年(310年頃)に、蝦夷討伐を命じられたヤマトタケルは「道を枉げて」伊勢に立ち寄ると、おばのヤマトヒメから「草薙剣」を受け取っている。
もう斎王は五百野皇女が務めているというのに、10年もの間、ヤマトヒメは伊勢で何をしていたんだろうか。
(斎宮のジオラマ)
・・・といっても、そもそも「天照大神」の伊勢遷座の話自体、よく考えてみれば疑問だらけだったりする。
日本書紀によれば、崇神天皇5年(209年頃)に発生した疫病の原因を疑われた「天照大神」は、一緒に祀られていた「倭大国魂」ともども皇居を出され、「倭の笠縫邑」に移された。
そこで崇神天皇の皇女・トヨスキ入姫が「天照大神」を祀ることになったわけだが、その状況は崇神天皇7年に疫病が終息したあとも延々と続けられ、ついには43年もの長きに渡って、「天照大神」は皇居の外で皇女の祀りを受けていたのだった。
・・・でもそれって果たして、「皇祖神」に対する扱いといえるんだろうか。いや、そもそも疫病の原因ではないかと疑われる皇祖神なんて、考えられるものなんだろうか。
そしてなぜ「天照大神」は、皇居に戻ることができなかったんだろうか。
(笠縫邑候補地「桧原神社」2020年冬参詣)
その理由をフツーに考えれば、その「天照大神」がぼくらの知る皇祖神「天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)」じゃなかったから———になるんじゃないかと、ぼくは思う。
この時代のヤマトは、征服した部族からは神の宿る「神宝」を取り上げて、石上神宮に収蔵したそうだ。垂仁天皇の時代には、出雲や但馬がそんな憂き目にあっている。
遷座地を探してヤマトヒメがウロウロしたところから考えると、おそらく「天照大神」は服従の証しに祭祀権を取り上げられた神だったが、長い年月のうちに、それがどこの部族の神だか不明になっていた。ヤマトヒメはそれが伊勢の神だとようやく突き止めて、元の部族に返還した———。
それが垂仁天皇が25年に、重臣たち(五大夫)を前に詔した「天神地祇の祭祀を怠らない」の一環として行われた、伊勢遷座の実態という気がしているが、詳しくは【関連記事】にて。
(桧原神社)
んで、そんな元々の「天照大神」の立ち位置が反映しているのか、後世、伊勢神宮の「天照坐皇大御神」が皇祖神として崇敬されるようになってからも、アマテラスと斎王の距離感はビミョーに遠いものがあったそうだ。
神話学者の松前健さんによると、斎王はアマテラスの「御杖代」とされながら、普段は神宮から20kmも離れた斎宮に籠もっていて、年三回の「三節祭(神嘗祭+月次祭)」のときにしか、神宮に出仕しなかったという。
出仕しても庭前に太玉串を捧げて拝礼するだけで、いまいち存在感がない。
また、三節祭で最も重要な秘儀を「由貴大御饌」というが、これにも斎王は参加しない。
つまり、神宮で最も重大な秘儀に斎王はまったく関与せず、したがって斎王はもともと内宮の祭神天照大神とそれほど密接な関係にあったとは思えないのである。
(『日本の神々 神社と聖地 6 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』1984年)
まぁ、松前さんによれば、「天照大神は平安朝の中頃まで宮廷では祭られなかったし、天皇が即位などに際して伊勢までおもむくこともなく、また宮廷と伊勢神宮の建物の構造もまったく異質であった」とのことで、アマテラスが最初から皇祖神の地位に君臨していたかといえば、いろいろ疑問もあるようだ。
【関連記事】アマテラスは皇祖神か(あるいはタカミムスビか)
(「隠岡遺跡」2021秋見学)
【集落】
1970年代までは、弥生〜古墳時代の伊勢は開発の遅れた「不毛の地」だと考えられていて、ヤマトヒメの巡行などは有りえない作り話だと決めつけられていたそうだ。
それが80年代以降、外宮に近い「隠岡遺跡」が発見されて、弥生後期の集落跡が現れたり、内宮に近い「桶子遺跡」から銅鐸の破片が採集されたりして、伊勢が無人の荒野ではなかったことが分かったそうだ。
(出典『伊勢神宮の考古学』穂積裕昌/2013年)
【お墓】
古墳時代の伊勢国は、最後まで巨大な前方後円墳はつくられなかった地域で、4世紀中では松阪市に造営された4基の前方後方墳が目立つぐらい(図16)。
そのうち築造が古い「筒野古墳」からヤマトのシンボル「三角縁神獣鏡」が二面出土していて、タイミング的には景行天皇か成務天皇から下賜されたものの可能性はある。
4基のうち一番大きい「向山古墳」は全長82m。こちらは4世紀後半の築造らしいので、神功皇后や応神天皇の時代のものになりそうだ。
(「御墓山古墳」2022夏見学)
ちなみに「三重県」でいうと、古墳の大きさベスト3は全部「伊賀国」にある。1位の伊賀市「御墓山古墳」は全長188mで、しかも奈良の「佐紀陵山古墳」の相似形という上級グレード。
一方「伊勢国」で一番大きい松阪市の「宝塚古墳」は111mなので、チト見劣りしている印象あり。
(Googleマップ)
【交通】
それと穂積さんによれば、現時点では伊勢市域に古墳時代の「港湾」の存在は認められず、それは持統上皇が三河への行幸に使った松阪市の「的潟」が有力視されているそうだ。
つまり昭和の頃に主張されていた、伊勢がヤマトの「東方経営の拠点」だから、そこに神宮が創建された説は、すでに根拠を失っているというわけだ。
というわけで、上のGoogleマップが当時の「東海道」。まだ湿地が多く、陸地化の途上にあった尾張は「東山道」に属していたと考える研究者が多いのだとか。
(出典『古代の鉄と神々』真弓常忠/1985年)
さてヤマトヒメに話を戻すと、5世紀後半まで祭祀の痕跡がないという伊勢で、3世紀後半のヤマトヒメは一体なにをしていたのだろう。
それを「製鉄」に関わる仕事だと言われるのが、八坂神社宮司、住吉大社宮司などを歴任された神道のプロ、真弓常忠さんだ。
上の図は、804年成立の公文書『皇太神宮儀式帳』に基づくヤマトヒメの巡行路になるが、真弓さんは実際に「元伊勢」といわれる地域を踏査して、それらが古代の初期製鉄に必要な原材料、「スズ(褐鉄鉱の団塊)」の産地であることを確かめられたんだそうだ。
そんな「スズ」を採取して、自然風を利用した「露天タタラ」の技法で製鉄を行っていたのが、ヤマトヒメの一団という話のようだ。
(『古代の鉄と神々』真弓常忠/1985年)
真弓さんの「鉄」を「朱(硫化水銀)」に置き換えた?のが、蒲池明弘さんの『邪馬台国は朱の王国だった』(2018年)。
当時「朱」はヤマトの経済力を支えた貴重品で、日本最大の産地が奈良盆地にあったそうだ。んでそれに次ぐのが伊勢で、蒲池さんは「奈良から伊勢に至ったヤマト姫の遍歴を、次なる鉱床の探査と発見をシンボライズした物語として読むこともできると思う」と書かれている。
(出典『邪馬台国は朱の王国だった』)
ヤマトヒメの巡行を「皇威の宣布」、つまり軍事行動だと論じたのが歴史学者の田中卓氏だ。
田中氏は、日本書紀が垂仁25年条で、まず天皇が五大夫に「天神地祇の祭祀を怠らない」と詔したことに続けて、ヤマトヒメを出発させている点から、それらはひと続きの話だという。
つまり、五大夫は神祇を正すという勅命によって、「天照大神」の遷座地を探すヤマトヒメに随行したのだろうと。
たしかに『皇太神宮儀式帳』にも、五大夫はヤマトヒメの「御送駅使(はゆまつかひ)」と称されているそうだが、んじゃ、この五大夫の内訳はというと———
○四道将軍として東海の攻略を担当した皇族、武渟川別(たけぬなかわわけ)
○武埴安彦の謀叛を鎮圧した「和邇」の彦国葺命(ひこくにふく)
○ヤマトを代表する祭司氏族「中臣」の大鹿島
○出雲の神宝を検校し、降伏させた「物部」の十千根
○ヤマトタケル東征の副将軍「大伴」の武日
以上、中臣を除けば皇軍の主力をなす軍団長たちというわけだ。
(大若子命を祀る「櫛田神社」2025夏参詣)
『皇太神宮儀式帳』によると、ヤマトヒメの巡行では各地の「国造」や「県造」がつぎつぎに「神の御田ならびに神戸」をヤマトヒメに献上したという。
というわけで、五大夫はその武威で在地豪族を帰服させていった———つまりは「皇威の宣布(大和朝廷の勢力拡大)」だったというのが田中博士の卓説だと、『伊勢神宮』(所功/1993年)という本に書いてある。
(大若子命を祀る「大間国生神社」2025夏参詣)
一方、『伊勢国風土記』の逸文では、ヤマトヒメは中臣の大鹿島と忌部の玉櫛命に加え、神武天皇の時代に伊勢を平定した「天日別命」の子孫、「大若子命」を随行させている。
安佐賀山の荒ぶる神に行く手をはばまれた時、垂仁天皇の勅命によってオオワカゴがその神を祭り鎮めたとあるので、どうやらオオワカゴは中臣・忌部のように、祭祀に関わる人物だったようだ。
さてさて、ヤマトヒメに随行したのは軍事チームだったのか、それとも祭祀チームだったのか・・・。
(「焼津神社」2021冬参詣)
———という感じで、ヤマトヒメ巡行の「真の」目的についての諸説を紹介してみたわけだが、肝心のヤマトタケルの伊勢訪問の目的が最後になった。
日本書紀によれば、上総に渡ったヤマトタケルは「葦浦」「玉浦」を抜けて蝦夷との境(日高見国)に迫ったが、そのとき蝦夷たちは遠目に「王船」を見ただけで戦意を失い、降伏したという。
でもそれほどの船団を、ヤマトタケルはどこで調達したんだろう。
それで思い出したのが、静岡の「焼津神社」の社伝だ。
『相模の古社』(1971)の記述によると、ヤマトタケルは伊勢から「海路」を通って焼津に上陸し、その地点はいまも例祭の神輿の旅所になっているという。
なるほどタケルが「道を枉げて」伊勢に立ち寄ったのは、ヤマトヒメの仲介で、伊勢の「海人族」の協力を得るためだったとすれば、納得がいく。
伊勢地方で最大の豪族が「度会(わたらい)氏」だが、この人たちは元々は「磯部氏」といって、海人の一族だったという。
ぼくは伊勢に残ったヤマトヒメは、度会氏をはじめとした伊勢の漁民を統括するような仕事をしていたんじゃないかと思っている。
彼らはヤマトヒメから返還された、彼らの守護神「海照(あまてる)神」を奉じて、はるかな東国への遠征に出たのかも知れない。
景行天皇(12)につづく