西暦310年頃、日本武尊の東征(1)

伊勢の海人と尾張氏

走水の弟橘媛

浦賀水道

横須賀市で、ヤマトタケルと弟橘媛(オトタチバナ)を祀る「走水神社」から眺めた、浦賀水道。

向こう岸に見える煙突は、千葉県富津市の火力発電所か。


対岸までは10キロ足らずだが、海流を横切るので真っ直ぐに進めない海の難所で、漕ぎ手12人のカッターボートで5〜6時間、古代の舟なら10時間はかかると、実際に防衛大時代にチャレンジ経験のある海自の教官の談話を読んだ。

(『神話のなかのヒメたち』産経新聞出版)

走水神社

オトタチバナの父は、穗積氏(物部氏)の忍山宿禰という人。

伊勢国の式内社「忍山神社」には、そこがヤマトタケルとオトタチバナが初めて出会った場所だという伝承がある。


物部氏は軍事氏族として有名だが、「十種神宝(とくさのかんだから)」に象徴されるように、「呪術」も得意にした氏族とも聞く。


古事記によれば、オトタチバナが海中に没した7日後に、ヒメの「櫛(くし)」だけが海辺に流れついて、タケルに拾われたという。

櫛は、イザナギ vs 黄泉醜女や、白雪姫 vs ママ母でも使われたように、呪具として機能する。


もしかしたらオトタチバナは初めから、タケルのピンチには身を投げ出して、物部の呪法でタケルを守る使命を負っていたのかも知れない。

なぜ伊勢に立ち寄ったか

弟橘媛

浦賀水道を眺めていて、ふと一つ、疑問がわいた。

日本書紀によれば、上総に渡ったヤマトタケルは「葦浦」「玉浦」を抜けて蝦夷との境に迫ったが、そのとき蝦夷たちは遠目に「王船」を見ただけで戦意を失い、降伏したという。


でもそれほどの船団を、タケルはどこで調達したんだろう。


長浜浩明さんの計算だとヤマトタケルの東征は西暦310年ごろのこと。

4世紀の三浦半島には、逗子市(と葉山町)に神奈川では最大級、90mの前方後円墳「長柄桜山古墳」が造営されていて、確かにヤマトの勢力圏ではあったようだ。

でもここらの漁民に、そんな船団が必要だったとはチト考えにくい。

相模の古社

それで思い出したのが、静岡の「焼津神社」の社伝だ。

『相模の古社』(1971)の記述によると、ヤマトタケルは伊勢から「海路」を通って焼津に上陸し、その地点はいまも例祭の神輿の旅所になっているんだそうだ


なるほどタケルが「道を枉げて」伊勢に立ち寄ったのは、おばの倭姫命(ヤマトヒメ)の仲介で、伊勢の「海人族」の協力を得るためだったとすれば、納得がいく。

なぜ尾張じゃないのか

熱田神宮

いや、でも船を借りたいなら、尾張氏でも良くないか?

摂津の津守氏(住吉大社)や丹後の海部氏(籠神社)とは同族といわれる尾張氏も、伊勢湾を拠点にした有力な海人族で、第5代孝昭天皇の皇后を出したりして、皇室との関係は古くて深いはず。


しかも古事記には、ヤマトタケルは伊勢のあと尾張に立ち寄って、尾張国造の祖、ミヤズヒメ(美夜受比売)に求婚したと書いてある。

船団ぐらい、出してくれてもいい。


ただ・・・、ぼくがヤマトタケルのキャラで今いち好きになれないのが、オトタチバナを連れていながらミヤズヒメにも求婚した、この一点だ。


まぁ政略結婚というやつで、オトタチバナも納得してるんだろうけど・・・とブツブツ言いながら日本書紀の方を見てみると、おいおい、こっちのタケルは尾張には寄らず、伊勢から駿河にポンと飛んでるじゃないか。

二股かけたってのは、古事記だけの話だったのか。

伊勢神宮の考古学

そういえば『伊勢神宮の考古学』(穗積裕晶/2013年)では当時の東海道として、現在の三重県松阪市から対岸の三河まで、船で渡るルートが想定されていた。

702年の持統上皇の三河行幸も、松阪から船を出したという話だ。

古墳時代の東海道

でもなんで、地続きの尾張を通らないんだろう。

その理由は、これか?

その頃の尾張国と尾張氏

伊勢湾周辺の主な弥生集落

(出典『東西弥生文化の結節点 朝日遺跡』原田幹)

実はこんな感じで、古代の尾張は大半が湿地帯だったらしい。


この地図は弥生時代のものだが、近江の伊吹山に向かったヤマトタケルは、大垣まで舟を使ったという説がある。


市の教育委員会が行ったボーリング調査の結果、大垣城の下には砂州が堆積してることが分かっていて、古墳時代の大垣が海の近くだったことは明かなんだそうだ。

(『継体大王と尾張の目子媛』森浩一ほか/1994年)

継体大王と尾張の目子媛

また、地図中の東海地方最大の弥生集落、清須市の「朝日遺跡」は、古墳時代に入る頃に放棄されたムラだが、その理由は「水没」だったそうだ。

当時はまだ、水陸の境界線が不安定だったということか。


というわけで上の地図を見るかぎり、わざわざ尾張に回っていくより、伊勢で船を用意した方が時間も手間も省けそうだ。

古代船

それに、ヤマトタケルが東征に出た4世紀初頭の尾張氏は、まだそれほど頼りになる存在ではなかった可能性がある。

『継体大王と尾張の目子媛』によると、尾張氏が完全にヤマトの傘下に入って勢力を拡大していったのは、文献で分かる範囲では4世紀末からだということだ。

それを考古学で表すと、こうなる。

濃尾平野東部の古墳の変遷

(出典『邪馬台国時代の東海の王 東之宮古墳』赤塚次郎)

濃尾平野南部では、4C前半に"庄内川水系"(瀬戸市、春日井市、守山区あたり)に前方後「円」墳が造営されてるが、そのころ尾張氏の本拠地、"名古屋台地(熱田台地)"には円墳が少々あるだけ。


それが、4世紀も後半(380年ごろ)に入ってようやく前方後「円」墳が現れると、5C末までには一気に東海最大の勢力に成長・・・。

そういった流れのようだ。


面白いのは、よく"東海地方に多い"といわれる前方後「方」墳が、尾張氏にはほぼ無縁というところだ。

最初から前方後「円」墳という点が、尾張氏とヤマトとの関係の実態を、如実に示してるんだろう。

日本武尊の死

能褒野墓
能褒野墓

ところで、もしも古事記のいうように、ミヤズヒメと二股かけた上でオトタチバナを偲んだのだと聞けば、その真心を疑う人もいるだろう。


でも正史・日本書紀のヤマトタケルは、尾張には寄らずに伊勢から焼津に直行、浦賀水道でオトタチバナを失ったのだった。

タケルの旅は続き、タケルがついに「我が妻よ」と思わず声に出してしまったのは、地の果て、群馬県の碓氷峠でのことだった。


そこからさらに険しい信濃をこえて、ようやく辿り着いた尾張でミヤズヒメと出会い、ヒメに疲れた心と体の癒やしを求めたとしても、このタケルを薄情だと非難する人は、そう多くはないだろう(ま、都には妻も子もいるんだけどね)。


回復したタケルは、近江の伊吹山に荒ぶる神を退治に出かけ、反対に祟られて病に倒れてしまう。

死期を悟ったタケルは山を下りるものの、尾張のミヤズヒメの家には寄らずに、 伊勢を目指す。


やがて力尽きたタケルは、伊勢の「能褒野(のぼの)」という地で亡くなった。

そこは、 タケルがオトタチバナと初めて出会った忍山神社まで、わずか3キロほどの地点だった。


西暦310年、日本武尊の東征(2)〜房総と武蔵の出雲族〜」につづく