丹後「元伊勢」の豊受(トヨウケ神)

〜比治の真奈井の羽衣天女伝説・トヨウカノメ〜

内宮の「元伊勢」

天の橋立

日本三景、京都府宮津市の「天の橋立」。 

春に訪問した「安芸の宮島」では肝心の厳島神社・大鳥居が改修中でガッカリだったが、今回はその不思議な光景をじっくり堪能できた。


と言ってもぼくらの旅の目的はそこではなくて、丹後地方にあるという「元伊勢」を、自分たちの目で確かめておくことにあった。

檜原神社

「元伊勢」というのは、現在三重県伊勢市で皇祖アマテラスを祀る「皇大神宮=内宮」 と、トヨウケという神を祀る「豊受大神宮=外宮」が、伊勢に遷宮してくる前に鎮座していた場所のことを言う。


このうち「皇大神宮=内宮」については、皇室の正史「日本書紀」に、崇神天皇(長浜浩明さんの計算で在位207〜241年)の時代に皇居から大和の「笠縫邑(かさぬいむら)」に移された後、次の垂仁天皇(同241〜290年)の時代に大和から近江、美濃を経て伊勢に至ったという記録がある。


ぼくらも以前、"笠縫邑の元伊勢"の比定地である「檜原(ひばら)神社」を参詣した。 

いまは大神神社の摂社なので伊勢っぽさはゼロだったが、神籬(ひもろぎ)を祀る古い信仰が残されていて、とても見応えがあった。

外宮の「元伊勢」

古事記

で今回、丹後地方で見てきたのは、「豊受大神宮=外宮」の「元伊勢」だ。 

そこで祀られる神さまを「トヨウケ」と言って、アマテラスの食事の世話をする任務を帯びているそうだが、調べてみるとかなり不思議な神さまだと分かった。


まず、皇室の正史「日本書紀」に、トヨウケは出てこない。 

それだけでも不思議だが、2回出てくる「古事記」の方でも、その出方が何だか変だ。


まず一回目は、火の神を生んで女陰を焼かれ、病に伏せっているイザナミのゲロやウンコから神々が生まれるシーン。

ここで5人の神が生まれた後、なぜか5人目の神の「子」と して、トヨウケの名が紹介される。

4人目までの神々の子は紹介されないので、なんだか唐突に取って付けたような印象がある。

(次於尿成神名、彌都波能賣神、次和久產巢日神、此神之子、謂豐宇氣毘賣神)


2回目は天孫降臨。 


アマテラスが天孫ニニギに伴って天降りする神を指名していくシーンで、リーダー格の「五伴緒(いつとものお)」に続いて、思金神(おもいかね)、手力男神(たぢからお)、天石門別神(あめのいわとわけ)の3神に特殊な任務が与えられ、鎮座地が紹介される。

それでここで何故か、前後の脈絡と一切関わりなく「次に登由宇気神は、伊勢の外宮として、度相(わたらい)に鎮座の神である」という一文が挟まれてくるわけ。

これもかなり唐突なタイミングで、実際に読めば誰でも、差し込み?とかインサート?とか思うに違いない。

(次登由宇氣神、此者坐外宮之度相神者也)

籠神社の「真名井神社

籠神社

さてこの不思議なトヨウケが伊勢に祀られるようになった経緯は、「止由気宮儀式帳」なる古文書に記されている。平安時代初頭の804年に、伊勢神宮から朝廷に提出された報告書だ。


それによると、雄略天皇(同457〜480年)の夢にアマテラスが現れて「丹波国の比治の真奈井に座す我が御饌(みけつ)の神、等由気太神」を伊勢に寄越せと命じてきたので、 言われたとおりにしたという。


問題は、トヨウケが鎮座していた元伊勢である丹波国の「比治の真奈井」とは何処なのか、ということだ。

真名井神社

圧倒的な支持を受ける第一候補は、丹後国の一の宮で、天橋立のすぐ近くに鎮座する「籠神社(このじんじゃ)」だ。

こちらの奥宮はその名もズバリの「真名井神社 」といって、巨石の神籬なんかもあったりして、こりゃいかにも本命っぽい。


ただ、誰もがその説に賛成というわけじゃない。

 文化人類学者の故・大林太良氏は著書『私の一宮巡詣記』(2001年)の中で、「比治の真奈井」は籠神社の奥宮ではない、と書かれている。

それは丹後地方に残る、トヨウケの出自となる伝説から見て「自然」ではない、ということらしい。


その伝説とは「丹後国風土記」逸文に残された、「羽衣天女」の伝説だ。

風土記の「羽衣天女」の伝説

奈具神社

正史「日本書紀」には登場せず、「古事記」には出ては来るものの、強引に割り込ませた感が強い記述ばかり・・・。

それにもかかわらず、あの伊勢の外宮で祀られているトヨウケとは、そもそも何処から来た神なのか。


「日本書紀」のちょっと後に編纂が始められた「丹後国風土記」の逸文によると、トヨウケはもともとは、丹後の「比治の山」の頂きにある泉に舞い降りた、8人の天女のうちの一人だったという。


羽衣を老夫婦に隠されて、天に帰れなくなった天女は老夫婦と暮らしはじめ、万病を癒やす酒を醸して老夫婦に財をもたらした。しかし、やがて金持ちになった老夫婦は天女が不要になって、屋敷から追い出してしまう。


行く当てもなく丹後をさまよった天女が辿り着いたのが、竹野郡の「奈具」の村。

ここを安住の地とした天女は、今も「豊宇賀能売命(トヨウカノメ)」の名で、奈具の社に祀られているという・・・。


で、上の写真がその「奈具神社」(京丹後市)。 

南部の山城国にリソースを取られる事情も分からないではないが、京都府はもっと丹後国にも力を入れるべきだ!と叫びたくなるほど朽ちかけた社殿で、ちょっと天女が気の毒になった。

多久神社

「多久神社」(同市)の祭神もトヨウカノメだが、こちらは別名を「天酒明神」といって、酒造りの神という側面が強調されている。

酒を造るには米が必要なわけで、そこから「稲の豊穣にかかわる神」に発展したようだ。

「比治の真奈井」はここだ

比沼麻奈為神社

そして大林氏が、こここそが「比治の真奈井」だと「自然に」考えられるという場所が 、「比沼麻奈為(ひぬまない)神社」が鎮座する、峰山町久次だ。

日本の神々

比沼麻奈為神社は「久次岳」の東麓に鎮座しているが、久次岳は「真名井山」とも「真名井ヶ岳」とも呼ばれ、「丹後国風土記」逸文の「比治山」は当地だと見る説が有力だと、『日本の神々7』には書いてある。

丹後国丹波郡の式内社「比沼(治)麻奈為神社」について「延喜式」久条家本は「比沼麻奈為神社」と記して「ヒヌマナイノ」と訓じるが、吉田家本・中院家本は「比治麻奈為」と記して「ヒヌノ」「ヒチマナ井」の両訓を付しており、右の風土記逸文の記事とあわせて、社名については論争がある。

(『日本の神々 神社と聖地 7 山陰』1985年)

ま、要は、ぶっちゃけ名前がそのものやんけ!ということだろう。 

丹後国は713年に「丹波国」の北部5郡が分割されて成立したそうだが、うち籠神社が鎮座するのは「与謝郡」で、比沼麻奈為神社は「丹波郡」だ。

後者の方が「丹波国の比治の真奈井」に近いと感じるのは、ごくフツーの感覚だろう


天女はこの丹波の「比治の真奈井」に降りたって、死んでトヨウカノメの神に祀られて、いつしかトヨウケと名を変えて、気が付いたら伊勢の外宮で神々の頂点に立っていた、ということだろうか。

・・・なんとも不思議なお話だ。

比沼麻奈為神社

丹後のアマテラス?

なお、外宮のトヨウケだけじゃなくて、内宮のアマテラスも一時、丹後に鎮座したことがあるというような話も見かけるが、それは「日本書紀」よりも400年以上もあとの鎌倉時代に、伊勢の外宮がまとめた経典が出典だというので、ぼくら一般人が関わるような話題ではないだろう。


そもそも、本当にそういう事実があるのなら、802年に外宮の「止由気宮儀式帳」と一緒に提出された、内宮の報告書「皇太神宮儀式帳」にそれが書かれているのが、自然だ。


一説によれば、その経典(神道五部書)は外宮が内宮を凌駕する目的で、トヨウケをアマテラス以上の存在に押し上げようと図った、政治的プロパガンダの一部だという。


"鎌倉時代の伊勢神道"などについてマジメに勉強している専門家を除けば、話がウソくさいしゴチャつくだけなので、むしろ積極的にスルーすべきネタだと、ぼくには思える。