神武天皇の部将②道臣命
大伴氏の祖、道臣命(ミチノオミ)
上の写真は、和歌山市県立博物館から近い市街地に鎮座する、「刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)」(2020夏参詣)。
熊野上陸の際の大嵐で、兄弟を失ったあとの神武天皇を支えた大功臣「道臣命(ミチノオミ)」を祀る。
八咫烏(やたがらす)の導きに従って大軍を監督して、無事に宇陀まで進軍させたり、あるときは待ち受ける敵の計略を見破ったり、またあるときは敵にを計略を仕掛けたりと、「日本書紀」が記す道臣命の活躍は目覚ましい。
懐かしのゲーム、光栄『三國志』なら武力90、 知力90の「趙雲子龍」といったイメージか。
この道臣命を祖とするのが、古代豪族の大伴氏だ。
大伴氏と聞くと、まずは「海ゆかば」の文化人・大伴家持が思い浮かぶが、もとはゴリゴリの体育会系「軍事氏族」だったそうだ。
主に外征を担当する物部氏に対して、大伴氏は宮城の警護や反乱の鎮圧などを担当したという。
そんな大伴氏のご先祖は、武力・知力だけでなく「魅力」のパラメータも凄かったようだ。
土地の豪族、八十梟帥(ヤソタケル)との決戦を控えた神武天皇は、必勝を期して「 顕斎(うつしいわい)」なる儀式を行った。
皇祖神・タカミムスビ(高皇産霊尊)を自らの心身に憑かせて、目に見えるようにして祀る、という意味らしい(『 日本の宗教の事典』学研)。
このとき、斎主(いわいぬし)つまり神主に指名されたのが道臣命だったのだが、神武天皇から「厳媛(いつひめ)」という女性の名前を与えられている。
神に仕えるのは女性だった時代だ。マジメな儀式なんだから、女装もしただろう。道臣命の容貌が優れていなければ、天皇に指名されるはずもない。
マッチョなイケメンが女装して、くそ真面目に女性シャーマンを演じている光景は、想像すると微笑ましいかも。
玉依姫は一般名詞か
(話は道臣命とはまったく関係ないが)そういえば神武兄弟の母君「玉依姫」を、女性シャーマンを表す「一般名詞」だと考える説がある。
ぼくらも南九州で見てきたように、タマヨリヒメの本場(?)といえば宮崎県だと思うが、どういうわけか千葉県にも、タマヨリヒメをご祭神とする神社、しかも一の宮がある。
上総国一宮、玉前神社(たまさきじんじゃ)だ。
上の写真は、九十九里浜の釣ヶ崎海岸に立つ鳥居で、タマヨリヒメが漂着した場所だと伝わる。
玉前神社のご神体は「玉」で、江戸時代の記録だとご祭神は「玉前命」だと書かれている。
それがなんで神武天皇の御母堂(玉依姫)になったかと言えば、「古事記」や「先代旧事本紀」に名前の見えている神以外は祭神として認めない、という吉田神道の「独断の余弊」だと、柳田国男は書いている。
んで続く文章の中で、タマヨリヒメは普通名詞だと柳田國男は言う。やや及び腰の文調から察するに、これは当時、柳田国男の独創だったようだ。
自分の見るところでは、玉依姫という名はそれ自身において、神の眷顧をもっぱらにすることを意味している。親しく神に仕え祭に与った貴女が、 しばしばこの名を帯びていたとてもちっとも不思議はない。
というよりもむしろ最初は高級の祭仕女官を意味する普通名詞であったと、見る方が正しいのかも知れぬ。
(「玉依姫考」/『妹の力』)
面白いのは、"玉に仕える巫女"が「玉依姫」に変えられた結果として、玉をご神体とする県社・郷社の祭神が軒並み「神武天皇」になったのではないか?という柳田の考察だ。
ぼくらも「北口本宮冨士浅間神社」の摂社に「神武天皇社」を見たことがあるが、いま神武天皇を祀ってる県郷社の多くは、元々はシンプルに「玉」を祀っていたのだろう。