有名神社の社殿や神座の向きについて

北面する大國魂神社

大國魂神社

東京都府中市の「大國魂神社」。


神社のご由緒によれば、祭神の「大國魂大神」は出雲のオオクニヌシと同一神とのことだが、これは話が逆さまだという話をよく聞く。

もともと、日本各地には土地の守り神としての「国魂の神」が大勢いて、それらを統合して人格神にまとめたものがオオクニヌシだという説明だ。


日本書紀によると崇神天皇の時代、大和には「倭大國魂」と「大物主」という土着の神がいたというが、こういうピンで語れる神さま以外は、みなオオクニヌシに合体させられたということだろうか。

それなら出雲から遠く離れた武蔵やら常陸やらに、オオクニヌシと見なされる神が現れても理屈は通るというものだ(常陸のニギハヤヒと茨城県の神社 〜多氏と鹿島神宮〜)。


ところで大國魂神社の特徴のひとつに、社伝が北を向いているという点がある。 

この点について、公式サイトに簡潔かつ的確な説明があったので、まずは引用から。

当社は、永承6年(1051年)に南向きであった社殿を源頼義が北向きに改めました。

これは、朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治めるという意味がありました。


通常、神社は南か東を向いています。古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていました。神様も同じように南を向くのが多いようです。

この他、御祭神に関係する方角を向いていたり、太陽の出る方角等各社の由緒によって向きを決めた神社もあります。

(Q2. 何故本殿は北を向いているのか)

北面する伊和神社

伊和神社と出石神社

(左・伊和神社   右・出石神社)

同じように社殿が北面する古社が、兵庫県宍粟市の播磨国一の宮「伊和(いわ)神社」だ。 

ただこの伊和神社、たしかに北を向いて鎮座しているものの、その方向には但馬の深い山並みが続くばかりで、伊和大神の神威をもって鎮めるべき強敵のようなものは見あたらない。


するとここにひとつ面白い話があって、伊和大神と土地争いを繰り広げたと「播磨国風土記」に書かれているアメノヒボコ(天日槍)という神、この神を祀る豊岡市の但馬国一の宮「出石神社」は、元々は西を向いていたという説があるのだ。

(『日本の神々 7 山陰』)


だとすると北向きの伊和大神と西向きのアメノヒボコの視線の先には、彼らが争ったという但馬の土地があったわけで、理屈は合うという話だ。

北面する鹿島神宮

「鹿島神宮」の神座

(出典『鹿島神宮』東実)

さて上の引用にもあるように、神社の向きにも色々とあるようで、例えば常陸国一の宮「鹿島神宮」の社殿は北を向いていて、その理由は大國魂神社と同じく、神威でエゾに睨みをきかせることにあったという。

だが不思議なことに、肝心の神座は東(太平洋)を向いている(=正面からは拝めない)

東面する日前神宮の神座

日前神宮の神座

(出典『日本の神々 神社と聖地 7 山陰』)

また、社殿こそフツーに南を向いているものの、神座はヨソを向いている古社もある。

紀伊国一の宮で、アマテラスの「八咫鏡」と一緒に作られたという「日像鏡」を御神体に祀る「日前(ひのくま)神宮」には「神階」がない。

伊勢の神宮と同様に、それを与える側に立つからだそうだ(人間だと天皇)。

そんな日本トップクラスの日前神宮の神座も、東を向いている(=正面からは拝めない)。

東面する神魂神社の神座

神魂神社の神座

その昔には出雲国造の居館があり、その祖神の斎場だったという松江市の「神魂(かもす)神社」。

出雲国造にとっては「熊野大社」「杵築大社(いまの出雲大社)」と並んで重要な神社だが、この現存する最古の大社造の社殿は南面し、本殿内部の神座は東を向いている(=正面からは拝めない)

西面する出雲大社の神座

出雲大社の神座

神魂神社と同じく南面する大社造だが、神座が正反対に西を向いているのが、言わずと知れた「出雲大社」だ。

ぼくらが参詣したときも、社殿を囲む瑞垣の西側に神座と向き合える拝所が設けられていて、拝殿より長い行列ができていた。


懐かしの『逆説の日本史』には、この西向きの神座の意味は、拝殿からオオクニヌシを「拝ませない」という意図があるのだ!と書いてあって、若き日のぼくらは大いに納得したもんだった。


だがきちんと調べてみれば、そのオオクニヌシから国を奪った張本人であるタケミカヅチ(武甕槌)も、上の方の図のように鹿島神宮で「拝ませない」状態にあるわけで、実は何の説明にもなっていなかった。


もちろん、万人が認める決定的な説明はまだ存在しない。だが『逆説』よりはマシな説明はいろいろある。

ぼくが最近知ったのは、『逆説』より10年ほど「前」に書かれた歴史家の大和(おおわ)岩雄さんの説で、「大国主神と神々の体系」という文章だ。

(『日本の神々 神社と聖地 7 山陰』より)

大和岩雄さんの説

日本の神々7

大和さんによれば、一般に神社の神殿が南面するのは、子午線を聖なるラインとみなす中国思想の影響によるもので、古来からわが国では、独自に東を神聖方位だと考えてきた。


また、わが国では古来、神は遠方から飛来してくるもので、神社に常在しているものではなかった


神は「ハレ」の日に東からやってきて、「神籬や石や木や鏡や剣や玉、さらには人など」に依り憑いた。


だから古い祭祀を残す神社では、神の依り代であるご神体は東を向いていた。鹿島神宮や日前國懸神宮、神魂神社がこのケースだ。


一方、出雲大社ははじめから、机上で生み出された神、オオクニヌシの住居として造営された。

神聖なる神はここでは常在しているので、出雲国造は神聖方向の東を向いて奉祀する。

結果、オオクニヌシの神像は西を向くことになる。


・・・てなかんじが大和さんの説明だが、同じように脳内から生まれた人格神のアメノヒボコが、元はオオクニヌシと同じように西を向いていたという情報は、大和説の補強になるとぼくは思う。

鹿島神宮のタケミカヅチ像

ん?

でも鹿島神宮のタケミカヅチも人格神では?という声が聞こえてきたが、心配ご無用だ。


記録上で、鹿島神宮の祭神がタケミカヅチだと明記されたのは平安時代に入ってからで、奈良時代の777年の時点までは、まだただの「鹿島の大神」だったようだ。

常陸の風土記にも、タケミカヅチの名は出てこない。

「タケミカヅチ」は後から上書きされた、新参の神名だったというわけだ。


出雲大社はいつできたか『古事記外伝』」につづく