西暦242年頃、天日槍(アメノヒボコ)来日
鏡神社のアメノヒボコ
滋賀県蒲生郡竜王町鏡1289で「天日槍(アメノヒボコ)」を祀る「鏡(かがみ)神社」。
天日槍は垂仁天皇3年、長浜浩明さんの計算だと西暦242年頃に来日した新羅の王子で、天皇から播磨と淡路での居住を許されたものの、諸国を見て回りたいと近江の「吾名邑」にしばらく住んだと、「日本書紀」は書く。
その後、天日槍は若狭を経て但馬に定住したが、日本書紀には「近江国の鏡村の谷の陶人(すえびと)は、天日槍に従っていた者」だと書かれているので、当地に残された従者たちが天日槍を祀ったのが、鏡神社の創始のようだ。
古事記のアメノヒボコ
但馬に土着したアメノヒボコは子孫をなし、やがて死んで、神として祀られた。
それが但馬国一の宮、兵庫県豊岡市の「出石(いずし)神社」だ。
「古事記」には2点、アメノヒボコについて興味深い伝承が残されている。
まず、応神記にはアメノヒボコの系譜が詳細に記されているが、ヒボコの5世孫の娘は「息長帯比売命(おきながたらしひめ)の母君」だと書いてある。
つまり「三韓征伐」で有名な、神功皇后の母方の血を辿ると朝鮮半島からの渡来系だということを、古事記は秘密にしていない。
皇室と朝鮮との関係に、もともと隠すようなことは何もないということだろう。
それと、ヒボコの妻は、その母親が昼寝中に陰部に太陽光を受けたことで、性交なしに懐妊する「日光感生」で生まれたというが、こういう伝説は「扶余」から「高句麗」あたりの建国神話で出てくるもので、ヒボコの出身地・新羅のものではない。
つまりごちゃ混ぜ。
日本神話が朝鮮神話の影響を受けている、というような言説を見かけることがあるが、8世紀のヤマトの宮廷人の認識なんてこの程度の軽いもので、高句麗も新羅もろくに区別していない。
影響云々とまじめに議論するほどのものではないように、ぼくには思える。
天日槍の神宝提出
出石神社から南に向かうと、「出石城」をメインに開発された観光エリアがある。
ぼくらが訪れたときも多くの人で賑わっていたが、そのはずれにひっそりと鎮座するのが、アメノヒボコの息子・但馬諸助(もろすく)を祀る「諸杉神社」だ。
諸助本人には特に事績は残されてないんだが、その孫「清彦」のとき、事件が起こる。
それは垂仁天皇88年というから長浜浩明さんの計算で西暦284年ごろ、垂仁天皇が清彦に、アメノヒボコが来日時に新羅から持参してきた「神宝」を見せろと命じてきたのだ。
古代においてこれは大事件で、神を奪われることは、部族の降伏を意味したそうだ。
このように古代では武力で平定するのと、呪禱で祈り倒そうという行為が一体であったとなれば、征服したら必ずそこの豪族の持っている神宝を取り上げることが重要になります。
(中略)彼らの持っている守護神の象徴になるような大事なもの、そこに国魂がひそんでいるものと考えていた。それで降伏した豪族には必ず神宝を差し出させるのです。
(『神社の古代史』岡田精司/1985年)
常世の国の田道間守
続いて垂仁天皇は、清彦の子「田道間守(たじまもり)」に、常世国の「非時の香果」の捜索を命じた。
写真は田道間守を祀る式内社の「中嶋神社」。
今では、お菓子の神さまらしい。
そして田道間守は見事に、「神仙が集まる秘境」から「非時の香果」を持ち帰ることに成功した。
だが時すでに遅し、残念なことに垂仁天皇はすでに崩御していた。
悲しみに暮れる田道間守は天皇陵に赴くと、泣きわめいて殉死したのだった。
天日槍の渡来から50年がたち、その一族はヤマトに降伏して神宝を奪われ、臣従して忠臣となった。
似たような経緯を辿った国が、他にもある。
出雲だ。
日本書紀の出雲と但馬
崇神天皇60年(237年ごろ)、神宝の提出を命ぜられた出雲では、族長(出雲振根)の留守に弟が無断でそれに従ってしまい、兄の恨みを買った。
やがて兄が弟を殺すと、報告を受けたヤマトから「四道将軍」が出動して、出雲振根をぶち殺した。
さらに垂仁天皇も26年(254年ごろ)、物部十千根を派遣して「神宝一切」の検校を行った上で、全てを物部の管理下においた。
この頃の垂仁天皇の側近に、殉死の身代わりとして「埴輪」を考案した「野見宿禰(のみのすくね)」がいるが、彼は出雲族の出身だ。
降伏〜臣従〜功臣と、出雲と但馬は同じような流れを辿ったようだ。