諏訪の安曇族と出雲族
〜御柱と水辺の祭祀〜
諏訪大社・下社のヤサカトメ
諏訪大社・下社「春宮」
諏訪大社下社の祭神は、タケミナカタの妃とされるヤサカトメ(八坂刀売神)という女神だ。
だが、下社の祭神はいつでもヤサカトメだったというわけではないらしい。
『私の一宮巡詣記』(大林太良/2001年)によれば、それはタケミナカタの息子の片倉辺(カタクラベ)だったり、兄の事代主(コトシロヌシ)だったり、なぜか景行天皇の皇后、八坂入姫(ヤサカイリヒメ)だったりした記録もあるらしい。
それはおそらくこの夫婦が、イザナギとイザナミや、スサノオとクシナダヒメなどとは違って、本当のカップルじゃなかったせいではないか、とぼくは思う。
現に、夫のタケミナカタが活躍(?)する「古事記」には、妻のヤサカトメは登場しない。
ヤサカトメとは何者か。
「延喜式」神名帳に名を残す、川会神社の「社記」によれば、父にワタツミを持つ「海神の女」がヤサカトメだということだ。
そしてタケミナカタとヤサカトメは「治水のため水内山を破って水を流し、越海へ注ぎ、始めて平地を得た」のだという。
実はこの夫婦神による開拓の物語は、別の伝説として今も長野県には残っている。
上田に伝わる「小泉小太郎」の伝説と、安曇野に伝わる「泉小太郎」の伝説は、湖に住む龍とその息子による信州開拓の物語だ。
ぼくらの世代にはおなじみの日本昔ばなし「龍の子太郎」は、それらをベースに松谷みよ子が創作した児童文学だそうだ。
穂高神社の安曇族
長野県安曇野市の名神大社「穂高神社」。
古代に博多湾を中心に活躍した海人(あま)族、「安曇氏」が入植し、先祖のワタツミと「穂高見命」を祀った神社だ。
『諏訪神社七つの謎』(皆神山すさ/2015年)には、ヤサカトメは「安曇野に拠った安曇族が奉斎した女神」だろうと書いてある。
安曇族が信州に入植してきた時期については定かでないが、「龍の子太郎」に繋がる民話が示すように、歴史上のどこかで、タケミナカタに象徴される「越」の人々と、ヤサカトメに象徴される海人族が手を組んで、信州の開拓を行ったのだろう。
そして今も、両神は夫婦神として、諏訪湖を挟んで祀られている。
・・・いや、祀っている側(モレヤ神)からしたら、タケミナカタもヤサカトメも元は「侵略者」だったか。
諏訪の御柱と出雲族
長野県諏訪市の「手長神社」。
近所の「足長神社」とコンビを組んで、スサノオと結婚したクシナダヒメの両親「テナヅチ」と「アシナヅチ」を祀る。
諏訪地方の神社では、大も小も「御柱」なる4本の木で聖域を囲む。
上の写真は「手長神社」の境内摂社だが、そちらには当然のこと、その横にちょこんと佇む小さな祠にも、50cmぐらいの「御柱」が備えられている。これは可愛い。
諏訪の神社がなぜ御柱を立てるのかは謎らしいが、諏訪の神社で「テナヅチ」「アシナヅチ」といった出雲の神が祀られてるのも不思議だ。
4本の柱と出雲の神・・・。
それで思い浮かんだのが、弥生時代の出雲の王墓「四隅突出型墳丘墓」だ。
写真のようにコタツ風の大型墳墓で、聖域である埋葬部の周囲には、「4本の柱」を立てた穴の跡が見つかっている。
もちろん、現在の諏訪の「御柱」とは似ても似つかないが、さすがに1800年も経てば本来の意味なんて残ってる方が不思議だともいえる。
(墳丘上の4本柱)
実は出雲と諏訪では、他にも類似した祭祀の「痕跡」が見られる。
一つは「巨石信仰」だ。
出雲だと「須我神社」の「夫婦岩」や松江の「女夫岩」なんて磐座(いわくら)祭祀の跡が有名だが、諏訪にも古くから「諏訪七石」という奇石群があって、信仰の対象とされてきたという。
ただ現在では、あの諏訪大社の「硯石」でも大切にされてるとは言いがたい雰囲気で、何か「借り物」の信仰ゆえに忘れ去られたみたいな印象はある。
出雲と諏訪の水辺の祭祀
もう一つの類似点が「水辺の祭祀」だ。
『CGでよみがえる古代出雲王国』(2016年)というムック本には、こう書いてある。
とりわけ大切だったのが水と農耕にまつわる祭祀で、松江市の前田遺跡や出雲市の古志本郷遺跡などからは、首長たちが行ったと思われる水辺の祭祀の遺物が発見されている。
遺跡から見つかるのは、鉄刀、大刀の柄、和琴などで、王(首長)たちは、神を招き喜ばせる琴を奏でながら、川や水路に大刀を捧げ投じていたらしい。
なるほど、水辺なら諏訪にも諏訪湖っちゅうデカいのがある。
ムック本によれば、縄文時代には島根半島は独立した島だったらしく、いま出雲大社が建っている場所などは、大昔には海岸線だったという。
事情は諏訪も同じで、やはり縄文時代、諏訪盆地は大半が湖で、諏訪大社は4つとも、大昔の湖岸線近くに建っているという話だ。
もしも、出雲のオオクニヌシ、越のタケミナカタ、安曇野のヤサカトメの神話が、出雲から諏訪への「出雲族の東遷」を表してるのだとしたら、諏訪という地は出雲族の郷愁をかき立てるような場所だったのかも知れない。
さて現在の諏訪からは、残念ながら絶対確実といえるような出雲族の痕跡は消えてしまっているわけだが、彼らは一体どこに行ってしまったのだろう。
出雲族を追って全国を旅された、社会学者の岡本雅享さんの『出雲を原郷とする人たち』(2016年)によると、彼らは上野(群馬)を抜けて、武蔵(埼玉)に至ったのだという。
「吉見百穴と埼玉の出雲族」につづく
《追記1》『弥生時代を拓いた安曇族』亀山勝
安曇族について、もう少し詳しく。
穂高神社が監修したブックレットによれば、海人族とは「魚や塩の生産に従事したり、海や川の水上交通や交易を支配した人々で、安曇氏のほかに宗像氏などが有名である」。
安曇氏の本来の本拠地は、北九州の博多湾にある志賀島一帯だったが、しだいに日本中に拡散していったという。弥生時代の1世紀ごろには信濃まで到達したと見られるが、その目的はサケ漁だったそうだ。
・・・なんてのが通り一遍の説明になるだろうが、実はどうも安曇氏の正体は、そんなちょいと規模の大きい網元程度ではなかったようだ。
長らく水産試験場等に勤務された海洋学の専門家、亀山勝さんの著書『弥生時代を拓いた安曇族』(2013年)によれば、AD57年に後漢の光武帝に朝貢し、金印「漢委奴国王印」をもらってきた「奴国」とは安曇族の「国」であり、魏略・晋書・梁書には、彼らが自らを「太伯」の末裔だと話した記録があるそうだ(倭者自云太伯之後など)。
太伯は呉(今の上海あたり)を建国した人だが、その呉は紀元前473年に越に滅ぼされている (三国時代の呉とは別)。
その時、呉人たちの一部は海に逃れ、日本列島に辿り着いた者もいた。そのとき祖国の再起を誓った彼らが握りしめていたのが、「温帯ジャポニカ米」だったというわけだ。
これはイメージしやすい。
その伝播経路について、佐藤(洋一郎)は、日本列島、中国大陸、朝鮮半島の温帯ジャポニカ米のDNAを調べて、中国大陸と日本列島にあるが、朝鮮半島にはない遺伝子の存在を見つけた。
この事実から考えると、 中国大陸から朝鮮半島を経由することなく、直接日本列島に伝わった経路があったと考えられるわけだ。
(『弥生時代を拓いた安曇族』亀山勝/2013年)
温帯ジャポニカ米以外でも、「養蚕」は朝鮮半島より100年早いBC3世紀以前には日本に伝わっていたというし、「鵜飼」は朝鮮半島・台湾・沖縄には伝わらず、日本列島にだけ伝わったらしい。
つまりぼくらが漫然と想像する、中国から朝鮮半島を経て、対馬、壱岐、そして九州北部へ・・・、なんてルート以外にも、大陸と日本列島がダイレクトにやり取りするルートがあったということだ。
亀山さんが割り出した、呉人(安曇族)の航路はこうだ。
まずは拠点である「志賀島」から南下して「五島」に渡る。いい風を待って対馬海流を一気に横断し、 済州島の南を流れる黄海暖流に乗り、山東半島の「青島」辺りへ。
ここからは大陸沿いに南下して、杭州湾から大陸を離れ、東に向かう流れと対馬海流を利用して、志賀島に戻る。
このループだ。
そうやって呉人(安曇族)たちは、大陸から日本列島へ、長い時間をかけて少しずつ渡ってきたと亀山さんはおっしゃる。
祖国を失って逃亡してきたことから始まり、志賀島に拠点を得てからは、大陸に残された呉人の救出や、戦乱を逃れた亡命者の日本各地への入植・・・という、繰り返される呉人たちの活動が、日本の縄文時代から弥生時代への移り変わりの、根底をなしたのだという。
亀山さんは、呉人が持つ越人への復讐心と、祖国再建への思いにも言及されているが、縄文人の与り知らぬところで、日本の歴史が動かされていたということだろうか。
呉人(安曇族)が縄文社会に、容易に溶け込んでいけた点にも説明がある。
太伯は、元々は大国「周」の皇太子だったが、王位を弟に譲って蛮地とされる江南に渡った。その時太伯は、江南の風習に合わせて、体にイレズミを入れ、髪を短くしたという。
以後、「入郷而従郷」は太伯の教えとして、呉人に守られ続けたのだそうだ。
日本に入植した呉人たちも、当然そうしたことだろう。
ところでイレズミと聞いて思い出すのが、「魏志倭人伝」で「倭人」の風習として語られた「黥面文身」だ。
だが、当時の日本人がみな「黥面文身」かというと、それは実は違うらしい。
弥生時代の遺跡から出土した、「黥面」を描いた絵画や土偶の分布には偏りがあり、九州の東シナ海側、瀬戸内海、伊勢湾、三河湾といった海辺からは多く出るのに、内陸部からはほとんど出ないんだそうだ。
要は、海人の風習だ。
「古事記」には「黥面」について、こんなエピソードがある。
即位を控えて皇后探しをしていた神武天皇は、これはと思う娘に家来の「大久米命」を通じて、告ってみた。
すると娘は大久米命に「なんで目尻にイレズミを入れて、鋭い目をしてるのか」 と応えてきたという。
長浜浩明さんの計算によると、神武天皇の即位は紀元前70年頃になるが、その頃の奈良地方には、黥面の風習がなかったということだ。
もちろん、神武天皇の故郷、宮崎県の遺跡からも「黥面」関係の出土はないようだ。
大久米命のみが特筆されていたことから、神武天皇にイレズミはなかったと思われます。
(『日本の誕生』長浜浩明/2019年)
海人の風習「黥面」から見えてくること。
それは、大陸から弥生時代を構成する文明をもたらした呉人(安曇族)は、「入郷而従郷」の精神で縄文社会に溶け込んでいったので、あくまで海辺の民に留まり、日本の支配層になろうとはしなかったことだ。
それは彼らには取り返すべき祖国があり、復讐すべき相手がいたからだろう。
その結果、たしかに大陸からの渡来人はいたのに、縄文から弥生にかけて、DNA的にも言語的にも骨考古学的にも、日本人が日本人でなくなるような変化は起きなかった、というわけか。
《追記2》稲の日本史・米の日本史
折角なので、安曇族が紀元前5世紀に日本に持ちこんだという温帯ジャポニカ米について、佐藤洋一郎さんの本から引用しておく。
佐藤さんの主張は、稲の渡来ルートは朝鮮半島経由もあるが、中国大陸からダイレクトもある、というもの。
250品種の在来品種のSSR多型を調べてみよう。いま、RM1というSSR領域について調べると、この250品種の中には八つの変形版が知られている。これらには小文字のaからhまでの字があてられている。 aからhの変形版がどこに分布するかを調べてみるとおもしろいことに気がつく。
(中略)
中国には8タイプのすべてが、それぞれの割合こそ違え分布していた。つまり中国の水稲はRM1のタイプについてずいぶん多様である。SSRの性質から考えるとおそらくはここが水稲の故郷なのであろう。朝鮮半島にはここにはbタイプを除く七タイプが分布した。
(中略)
一方日本の品種のほとんどはaまたはbに限られている。 cも若千あるにはあるが、実数でいくとaとbが優位であることにかわりはない。
(中略)
朝鮮半島にbタイプがなかったことに再度注目しよう。bタイプの品種は、中国にも日本にも多く存在する。bタイプが朝鮮半島にだけなかった理由は、おそらくそれが中国で生まれ、朝鮮半島を経由せずに直接日本列島に来たからである。
(中略)
日本の水稲の渡来経路については従来、朝鮮半島からきたという説と大陸から直接きたという説があり対立していた。
(中略)
今回のSSRのデータは、二つの説はどちらも正しかったということを示している。
(『稲の日本史』2002年)
本の中では、佐賀大学の和佐野喜久雄さんの研究が紹介されていて、日本列島への稲の伝播には「三つの波」があったという。
んで、そのうちの「第二波」は、まさに亀山説を裏付けていると思う。
第二の波は縄文時代の最晩期から弥生時代前期初め(紀元前4、5世紀ころ)に中国から「北部九州北岸域」に直接渡来したもので、やはり短粒の品種であったという。
(「第二章 イネと稲作からみた弥生時代」)
佐藤さんの別の本では、稲の「開花日」から検証が加えられている。
「図1-4」のように、もしも稲作が陸伝いに伝播してきたとすると、北緯41度という日本だと「函館」にあたる寒冷地を、弥生時代のイネが生き抜いてきたことになって、有り得ない話になる。
また、早生から晩生が生まれることは「理論上も経験上もまずない」ことから、「旭」や「銀坊主」は、山東半島ルートより南から渡来した可能性が高いそうだ。
つまり、イネ品種の開花日の多様性をみると、イネの渡来経路は朝鮮半島経由のほか少なくともさらに低緯度の地域からの渡来を想定する必要がある——これがわたしの主張である。
(『米の日本史』2020年)