倭の五王⑤武

〜雄略天皇と葛城氏の滅亡(鏡の復権)〜

葛城氏は滅亡したか

雄略天皇の像

2023年春に参詣した奈良県御所市の名神大社「葛城一言主神社」。

境内には、記紀の中で「一言主(一事主)」の神とのカラミが記される、第21代雄略天皇の像があった。


よく知られるように雄略天皇は、日本書紀では「一事主神」と対等に接したが、古事記では「一言主之大神」を怖れ畏まって拝礼したと、全く異なる立場で描かれている。


この点について、葛城氏の権勢を大きくみる人は古事記が本来の伝承で、日本書紀は後世の書き換えだと考えるようだが、ぼくは「古事記の原型は蘇我氏の天皇記(帝紀)」説を支持しているので、葛城氏の「同族」を主張した蘇我氏が、天皇が平伏するストーリーに書き換えたものだと思っている(個人の感想)。

雄略天皇の像

ところで日本書紀をみる限り、大豪族・葛城氏は457年に当主の「円(つぶら)大臣」が雄略天皇に焼き殺されたことで、実質的に滅亡したように思えるが、これには反対意見もあるらしい。


歴史学者の加藤謙吉さんによれば、葛城氏を南部(玉田宿禰 ー 円大臣)と北部(葦田宿禰)の二系統に峻別する立場では、雄略天皇が滅ぼしたのは南部の葛城氏だけで、北部の葛城氏は「その後も隠然たる力を保持」したと考えるのだという(加藤さんご自身は滅亡論者)。

葛城一言主神社

(葛城一言主神社)

ただ、日本書紀が引用する『百済記』には442年のこととして、新羅を討つために派遣された「沙至比跪(さちひこ)」なる人物が新羅と組んで加羅を伐ち、天皇が激怒したという件があり、「一説によると」沙至比跪は天皇に許されないことを嘆いて「石穴に入って死んだ」のだという。


定説ではこの「沙至比跪(さちひこ)」は葛城氏隆盛の礎を築いた「葛城襲津彦(そつひこ)」を指すとのことだが、もちろん神功皇后5年(長浜浩明さんの計算で357年頃)にデビューしたソツヒコ本人では長生き過ぎるので、二代目、三代目の葛城系外務大臣的な人物のことなんだろう。


それが朝鮮側の記録の中で、天皇の逆鱗に触れて自殺したということだが、442年というと雄略天皇のお父さん、第19代允恭天皇の御世。


この允恭天皇も息子の雄略天皇同様に、葛城氏の当主(玉田宿禰)を誅殺しているのはご存じのとおりだ。

葛城氏の拠点「南郷遺跡群」の変貌

南郷遺跡群・想像図

(出典『葛城の王都 南郷遺跡群』坂靖)

では、ぼくが葛城氏は雄略天皇の手で実質的に滅ぼされたんだろう、と思う理由を三点。


まずは葛城氏の一大拠点で、ソツヒコ以来、葛城氏が朝鮮半島からの高度技術者を渡来させて鉄器やガラス製品を生産したという「南郷遺跡群」(葛城市・御所市)の変容。


橿原考古学研究所附属博物館のサイトによると、5世紀中葉までは工業地帯だった南郷遺跡群は、雄略天皇の御世にあたる5世紀後半には「知識人系渡来人」たちの集落に変わっていたのだという。

その古墳時代の集落は、5世紀前半~中葉の前半期と5世紀後葉~6世紀の後半期に内容が大きく分かれる。 

(中略)

前半期は、韓半島系渡来人が推進する鉄器生産を核とした手工業生産を経済基盤し、以下の諸施設群に分かれる。

(中略)

後半期は、大壁建物が各所に樹立されて、技術者系ではなく知識人系渡来人が主導する集落へと大きく変貌した。

その嚆矢として、高所に大型倉庫群(井戸大田台遺跡)、低所に居館状遺構(多田桧木本遺跡)が造営され、中間層の知識人系渡来人の居住区や一般層居住区が各所に配置された。

加藤謙吉さんによれば、5世紀前半までの南郷遺跡の技術系渡来人は、葛城氏の手で「私的に掌握されていた」が、葛城氏滅亡後は皇室から直接統治を受けるようになったという。


やがてその一部は山城に移住して開拓にあたり、のちに「秦氏」と呼ばれる技術系集団になったと考えられるんだそうだ。

短命に終わった百舌鳥の天皇陵

五大古墳群の展開と消長

(出典『『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』今尾文昭/2014年)

5世紀に入ってから天皇陵が造営された堺市の「百舌鳥古墳群」には、天皇陵候補が3基ある。


築造順に「上石津(百舌鳥)ミサンザイ」「大仙陵」「土師ニサンザイ」の3基で、百舌鳥に埋葬された天皇は「仁徳」「履中」「反正」の3帝のみ。

反正陵と思われるニサンザイは、考古学者の一瀬和夫さんによれば、440年頃の築造だ。


そしてその土師ニサンザイを最後に、天皇陵はお隣の「古市」や大和の「佐紀」「馬見」に移っていくわけだが・・・、わざわざ葬地として開拓した百舌鳥は、なぜ三代で終わったんだろうか。

『前方後円墳とはなにか』

考古学者の広瀬和雄さんによれば、前方後円墳とはそのビジュアルを半ば強制的に《見せる墳墓》なんだそうだ。


古墳時代初期の西暦300年頃には、奈良盆地に入ってくるルートの入口には必ず巨大な前方後円墳がそびえ立って、来訪者を出迎えたというが、5世紀になって湾岸に造営された百舌鳥古墳群がそのビジュアルを見せたい相手は、なんといっても瀬戸内海を渡ってくる百済や新羅の使者たちだったことだろう。

五色塚古墳

(海と古墳 写真AC)

で、これは個人の感想だが、その当時、朝鮮半島との窓口のような仕事をしていた葛城グループなら、そうした前方後円墳の湾岸への誘致を猛プッシュするに、十分な動機があったんじゃないだろうか。

倭国の強大さを見せつけて、交渉を有利に進めたい・・・てな感じで。


しかし427年に高句麗が平壌に遷都して、いよいよ南下政策を本格化させてくれば巨大古墳を自慢してる場合ではない。

葛城グループの意向は無視されるようになって、葬地はもともとの古市古墳群に戻された・・・とか。


もしも葛城氏が457年以降も「隠然たる力を保持」していたというのなら、百舌鳥は440年以降も天皇の陵地に使われ続けたんじゃないだろうか。

室宮山古墳の三種の副葬品

室宮山古墳

(出典『葛城の王都 南郷遺跡群』坂靖)

上の写真は、5世紀初頭に築造されたという御所市の「室宮山古墳」で、墳丘長238mは全国でも18位という規模。


同時期の古墳で、これより大きいのは267mの「五社神古墳」(神功皇后陵?)と290mの「仲津山古墳」(応神天皇陵?)ぐらいなので、4世紀後半のヤマトの中じゃナンバースリーの地位だったか。


で、多くの専門家がこちらの被葬者に想定するのが、われらが葛城襲津彦というわけだ(立地も葛城の王都・南郷遺跡の近くだ)。

近畿中部の大古墳群

(出典『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』今尾文昭/2014年)

ところでこの室宮山古墳には面白い話があって、考古学者の田中晋作さんによると、本来は排他的で分布が重ならない三種の副葬品が、三つ一遍に出土している「特異な」ケースなんだそうだ。


三つの内訳は、こう。

○300年頃から「大和・柳本」の勢力が配布した「三角縁神獣鏡

○350年ごろから「佐紀」の勢力が葬儀に使い始めた「石製模造品」

○400年頃から「古市・百舌鳥」の勢力が配布するようになった「帯金式甲冑」。


田中さんによれば、こうした副葬品の流れは「畿内政権」の内部において、有力勢力の主導権が「大和柳本」から「佐紀」へ、さらに「佐紀」から「古市・百舌鳥」へと移動したことを表しているんだそうだ。

石製模造品

(石製模造品 出典『大和の考古学』)

じゃあ、本来は排他的で分布が重ならないはずの副葬品が三種類とも出土した「室宮山古墳」には、一体どんな意味があるのか。

それは「畿内政権の主導権の交代に際してキャスティングボートを握った勢力」だろうと田中さんはいわれる。


キャスティングボートとは「議会において2大勢力が拮抗していずれも過半数を制することが出来ない時に、第三の少数勢力が決定権を握る状態のこと(Wikipedia)」。

甲冑

(出典『古市古墳群の解明へ』田中晋作)

だが、もしも室宮山古墳が葛城襲津彦のお墓だったとした場合、そんな弱小の第三勢力みたいに扱われることなんて、あり得るもんだろうか。


同じく三種類の副葬品が出土している古墳に、京都府城陽市の「久津川車塚古墳」(180m)があるが、こちらも山城国南部という地域では最大級のサイズで、中小の古墳をはべらせて「久津川古墳群」を形成し、"王者の棺"と呼ばれる「長持形石棺」も出土するという、大首長のお墓だ。


ぼくにはこちらも、キャスティングボートを握る第三勢力・・・というような脇役的な存在ではなかったような気がする。

久津川車塚古墳

(久津川車塚古墳 城陽市公式サイト)

というか、そもそも5世紀になってから「古市・百舌鳥の勢力」が配ったという「甲冑」って、ヤマトが国運を賭けた一大国家事業として大量生産したものであって、田中さんは「勢力」というけど、要するにヤマト政権=皇室そのものが造って配ったものなんじゃないのか。


それを配布するのは、朝鮮問題こそが国家のメインテーマだと表明し、豪族たちの意識をそちらに向けさせるプロパガンダの一種でもあり、恩賞でもある・・・。


そんなかんじで捉えると、5世紀初頭の地域最大の首長墓に三種の副葬品が使われたのは、そこにおいて歴史が統合され、全員がヤマト国家を構成するメンバーだと知らしめる儀式的な意味があったようにも思えてくる。


当然その儀式のあとは、豪族たちに与える副葬品は「甲冑」で一本化されていって不思議ではない。


んで、そうしてヤマトが国家として朝鮮問題に一点集中していったとき、最も利益を享受したのは葛城氏のグループだったんじゃないかと、ぼくは思う。


なお、佐紀や馬見からは「甲冑」が出土しないそうだが、そこらはおそらく皇后・皇妃・皇子といった皇族の墓地で、甲冑を欲しがるような人たちではなかったんじゃないかと思う。

具体的には、景行皇后の「八坂入媛命」とか景行皇子の「五百城入彦皇子」、仲哀母の「両道入姫命」、応神皇后の「仲姫命」や応神皇妃「高城入姫命」応神皇子「額田大中彦皇子」なんかは、佐紀や馬見の200m級でも不思議ではないと思う。

5世紀半ばに「鏡」が復権

『鏡の古代史』

ところが、そうして朝鮮朝鮮といいながらセッセと甲冑を配っていた5世紀中頃、割って入るように配布が始まった副葬品があった。

それは「鏡」。

かつて三角縁神獣鏡を配ったように、ヤマトはまたもや銅鏡を配り始めたのだという。


考古学者の辻田淳一郎さんによると、5世紀半ばから「同型鏡群」と呼ばれる銅鏡の流通が増加しているそうだが、それらは中国の南朝(宋)が「倭国」からの要望に応じる形で一気に生産し、「将軍号」や「郡太守」の徐正と合わせて授与したものだろうという話だ。

日本列島における同型鏡群の分布

(出典『鏡の古代史』辻田淳一郎/2019年

ヤマトが自分でも作れる銅鏡をわざわざ中国から下賜してもらった理由は、もちろん中国王朝の「権威」が必要になったから。


朝鮮半島への軍事的動員などで溜まってきた豪族たちの反発心を懐柔するために、「前期的」秩序の再興を目指したのだろうと、辻田さんは書かれている。


一例をあげると、銘文入り鉄剣の出土で知られる「稲荷山古墳」(埼玉県)や「江田船山古墳」(熊本県)からも、甲冑と一緒に「同型鏡群」が出土しているが、大量生産品の甲冑を配っても、かつての三角縁神獣鏡のような秩序維持の効用は得られなかったのかも知れない。

大伴・物部・中臣らの復権

この鏡秩序への回帰運動が、葛城氏を排除していった允恭天皇〜雄略天皇の御世に始められたことは、まことに興味深い話だ。


実は同じころ、鮮やかに復帰してきたのが、田中晋作さんが「大和柳本の勢力」といい、三角縁神獣鏡を配ったとされる大伴・物部・中臣といった、高天原以来の古豪たちなのだ。

5世紀の豪族

上の表はぼくが3分で作った雑なもんだが、日本書紀の各天皇の記事に、どんな豪族が登場しているかを表したもの。

応神天皇から履中・反正にかけて、大伴・物部・中臣はどうやら「干されて」いたようだが、允恭天皇の頃には完全復活している。


ぼくはこの古豪たちの復活と、「同型鏡群」配布の開始はリンクした出来事じゃないかと想像しているが、雄略天皇が彼らを強く必要とした別の事情もあったらしい。

では、なぜ、両氏(※大伴・物部)がそのような職位に就いたのかというと、結局、井上(※光貞)氏が指摘されるように、彼らが雄略直属の軍事力を構成し、敵対勢力打倒の原動力となったからと考えざるを得ない。


しかも執政官はこの両氏にかぎられ、大和の在地土豪は就任していない。


すなわち大王に権力を集中し、大伴・物部を執政官とする軍政的な政治が行われ、葛城氏型の在地土豪たちは完全に政権の中枢から締め出されたとみられるのである。


(『大和の豪族と渡来人』加藤謙吉/2002年)

『大和の豪族と渡来人』加藤謙吉

加藤謙吉さんが引用でいわれている雄略天皇の「敵対勢力」には吉備氏なども考えられるが、なんといっても葛城氏が目障りだったことだろう。


歴史学者の平林章仁さんの本には、葛城氏が築き上げた豪族ネットワークを、允恭天皇と雄略天皇がいかにして破壊していったかの詳細な検討があるが(『謎の古代豪族 葛城氏』2013年)、そうやって追い詰めていった葛城氏を最後になって許すほど、雄略天皇は甘くはないと、加藤さんは葛城氏の滅亡を主張されているのだった。

しかし塚口氏のように、葦田宿禰系葛城氏が雄略朝以降もなおしばらく健在で、葛城県の管理権を握り、県への大王家の介入を拒むほど有力であったと解することが、はたして可能であろうか。


記紀では市辺押羽皇子は、即位前の雄略により、円大使主の滅亡直後に殺害されたと記されており、これに信を置けば、当然、市辺押羽と夷媛の婚姻、仁賢・顕宗の出生も、その殺害時期の前に求めなければならなくなる。


市辺押羽と葦田宿禰・蟻臣との親密な関係に基づくならば、むしろ葦田宿禰系葛城氏も、市辺押羽と運命をともにしたと見た方が自然であろう。


市辺押羽の殺害と葛城氏の滅亡とは別個の事件ではなく、一体的・連動的な動きとしてとらえる必要がある。


(『大和の豪族と渡来人』加藤謙吉/2002年)

最後に「訂正」を一つ。


ぼくは以前の記事で、田中晋作さんを「政権交代」の論者だと思い込んで批判的に書いたことがありますが、それは田中説を紹介している別の本、『古代豪族と大王の謎」(水谷千秋)を先に読んでいたことから生じた先入観というやつで、田中さんご本人は「政権交代」すなわち「皇統の断絶」については何も言及されていないと、今回知ることになりました。


「政権交代」は水谷千秋氏のお考えであって、田中さんの主張はあくまで「畿内政権」内部における「主導権の移動」で、その点について、ぼくは全くの同意なのであります。


倭の五王⑥武 〜雄略天皇と宗像・伊勢・葛城・三輪の神々〜」につづく