紀元前473年、呉の安曇族、日本へ!
志賀海神社の安曇族
博多湾と玄界灘を仕切る「海の中道」。
その先っぽの志賀島で、「安曇族」が祖神の「海神(わたつみ)」を祀って来たのが「志賀海神社」だ(2022春参詣)。
安曇族は古代からの有力な「海人族」で、一例をあげれば、飛鳥時代の提督で「白村江の戦い」で戦死した「阿曇比羅夫(ひらふ)」なんかが有名だ。
漁業というより、海運業を得意とした一族なんだそうだ。
弥生時代を創った安曇族
この安曇族こそが、日本列島に弥生文化を持ちこんだと主張する本がある。
亀山勝さんの『安曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち』(2009年)だ。
亀山さんは、長らく水産試験場などに勤務された海洋学のプロだ。そこで得た専門知識から弥生時代を検討したところ、本のタイトル通りの結論に到達された。
安曇族は、元を辿れば紀元前473年に「越」に滅ぼされた「呉(ご)」という国の遺民だ(三国時代の孫権の呉ではない)。
それが弥生時代の九州に逃げてきて定住し、同じような境遇の大陸難民の日本各地への入植をサポートして弥生時代の基礎をつくった、というのが亀山説だ。
ぼくも最初は正直、抵抗感があったが、理解してみれば納得のいく説明だった。
亀山さんの本が、世にあふれる「妄想本」でないことは、科学的な根拠が示されていることから分かる。
「図3 東シナ海&九州周辺の海流」は1936年当時、ほぼ全域が大日本帝国の領海ゆえに可能だった調査から得られた貴重なデータで、これをその道のプロが見れば、弥生時代前半の丸太をくり抜いた船で渡れるルートは一目瞭然らしい。
例えば、朝鮮半島の釜山から九州を目指して南に船を進めても、仮にうまく日本にたどり着けても島根半島とか能登半島で、運が悪けりゃロシアまで流されていっても不思議ではないという。
それで亀山さんが計算した、安全に大陸と九州を往復できる渡航ルートが「図4 航路略図」だ。
弥生時代前半に持ち込まれた「稲作」や「青銅器」といったテクノロジーは、主にこのルートで運ばれたというのが亀山説だ。
なるほど当時の近畿地方に、朝鮮半島には存在しない種類のイネが植えられていた理由も、このルートなら説明がつく。この時代、文明は北ではなく、南からやってきたというわけか。
そうして数世紀にわたって、せっせと大陸からヒトとモノを運んでいた安曇族だったが、彼らが面白いのは「多点分散型」で難民を入植させたことだと亀山さんはいう。
もちろんそれは結果論で、「海人」である安曇族は、川をさかのぼって初期の水田に適した場所を探したので、入植地は飛び飛びにならざるを得なかった。
しかし飛び飛びのおかげで水田稲作は広範囲に急速に広まっていったし、現地の縄文人の方が圧倒的多数なので、縄文のDNAや日本語の独自性は維持されたというわけだ。
安曇族の本拠地を「奴国」という。
魏志倭人伝にも出てくる国で、当時は日本でも最高レベルの工業国だった。
また、大陸からの難民が入植した土地を「アヅミ地」と亀山さんは呼んでいて、現在の渥美郡、安曇野、安角、安津見、明見、安曇川なんて地名の地域が該当するそうだ。
※安曇族については、こちらにもう少し詳細に書いてます - 諏訪の安曇族と出雲族
そういえば以前、奈良県の「唐古・鍵遺跡」を訪問して知ったことだが、この近畿最大級の弥生ムラには縄文時代からの継続性はほとんど確認できず、弥生時代前期に大和川をさかのぼってきた移民が定着したことからムラが始まったんだそうだ。
しかもその移民は、渡来系だと考えるしかない物証もあるというから、不思議だ。
弥生時代前期といえば、まさに安曇族が日本列島に渡ってきた時代にあたるが・・・。
(『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』藤田三郎)
「紀元前210年、秦の徐福、日本へ?」につづく
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