紀元前210年、秦の徐福、日本へ?

安曇族の「風浪宮」と徐福

風浪宮

海洋学を専門にする歴史作家の亀山勝さんが書いた『安曇族と徐福』 (2009年)の中で、亀山さんが弥生時代の海人族「安曇氏」が、北(玄界灘)の「志賀島」と合わせて、南(有明海)の拠点にしたのではないかといわれるのが、福岡県大川市の「風浪宮(ふうろうぐう)」だ。


その「風浪宮」に、安曇族の案内で訪れた大陸からの亡命者の中には、歴史好きなら誰もが知るビッグネームも考えられるという。


秦の方士「徐福(じょふく)」のご一行様だ。 

安曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち

紀元前210年、始皇帝に東方に長生不老の薬ありとプレゼンして資金をゲットした徐福は、「百工」という技術者集団と3000人の少年少女を船に乗せて、出航したという。


もちろん、徐福の行き先は公式の記録(史記)には残っていない。


ただ、『三国志』の「呉書」には、孫権が諸葛直らに徐福を探させたという記事があり、捜索先の「亶洲」は台湾の先にある人口の多い島ということなので、そりゃー日本列島だろうという説がある。


また、5世紀に書かれた『後漢書』でも、徐福の記事は「倭」の条の中にあるので、その著者も徐福の行き先は日本だと思っていたようだ。

吉野ヶ里と徐福

吉野ヶ里遺跡

徐福がはじめ、有明海北岸を拠点にした可能性は、風浪宮の北にある「吉野ヶ里遺跡」にも窺えるという。


そこには漢の武帝が行った祭祀と類似した遺構を持つ墳丘墓があるらしく、徐福とは年代はズレているものの、大陸の「方士」が関与していた可能性は十分に考えられるという。


少年少女のなかに、徐福の「方士」の能力を受け継いだ人がいたのかも知れない。


それに、そもそも弥生中期にはじまったという青銅器の製造なども、一連の工程は「完パケ」として導入しなければ意味がないわけで、徐福の百工とその後継者たちの存在は、ハナっから否定してしまっては勿体ない話のような気がする。

徐福の3000人の少年少女

徐福伝説

(『徐福伝説』諸星大二郎)

でもそうなると疑問として湧いてくるのが、そんな先端技術をもつ集団が、なぜ今に名を残すような国を建てて、弥生時代の日本を支配しなかったのか、だろう。


まだ邪馬台国すらない時代なんだし、現地の縄文系弥生人に中国語を覚えさせ、中国式の生活をさせれば、「もう一つの中国」の出来あがりじゃないか。


だが、現代の日本人の言語にもDNAにも、その痕跡は残されていない。 

彼らは日本の支配層にはならなかった。 


ならば徐福の連れてきた3000人(実際には130〜200人ほどか)の少年少女たちは、一体どこに行ってしまったんだろう。

全国徐福伝説地

全国徐福伝説地

(出典『安曇族と徐福』)

ここで思い出したいのが、彼らを渡来させた安曇族の行動様式だ。 

一つは、入植は「多点分散型」だったこと。 

もう一つが、彼らの始祖(太伯)のモットー「入郷而従郷(郷に入っては郷に従え)」だ。


少年少女たちは安曇族の方針に従って、少人数に分かれて日本各地に散ったんじゃないだろうか。

もちろん、百工から受け継いだ技術を携えてだ。


上の「図3 」は亀山さんの『安曇族と徐福』から引用した「全国徐福伝説地」。


だが、徐福は一人しかいないんだから、実際には少年少女たちが「徐福」として入植していった先が、それらの伝説地だったんじゃないだろうか。


聞けばそれらの地域では今も地場産業として、弥生時代に伝わったという金属加工や機織り、陶工、造船などが盛んなんだという。

ニギハヤヒと神武天皇

物部氏の氏神・石上神宮

石上神宮

ところで、全国に分散した特殊技術をもつ一族というアイデアは、ぼくに日本古代史上に実在したある氏族の名前を思い起こさせる。

「八十物部」とか「物部百八十氏」とかいわれて日本中に分布した割りに、そのルーツがよく分からない「物部氏」だ。


この物部氏の始祖と言われる人物が、「日本書紀」で神武天皇の大和入りを助けたと記録される「ニギハヤヒ(饒速日)」だ。


ニギハヤヒは、神武天皇がもつ「天つ表(しるし)」と同じものを持っていて、神武天皇より先に畿内に入って土豪ナガスネヒコの「君主」になっていたが、執拗に「天孫」に逆らうナガスネヒコに業を煮やすとこれを殺害。

神武天皇の軍門に降ったのだった。


興味深い記述が二点ある。まず、「天つ神の子」は神武天皇以外にもたくさんいること。 

ただしその中でも、神武天皇だけは「天孫」という特別な存在であること。

十種神宝

ところで物部氏といえば、各方面の技術に通じた軍事氏族として名高いが、それ以外にも「祭祀」や「呪術」の方面でも、特別な技能を発揮したという話だ。


上の図はニギハヤヒが降臨にあたって与えられたという「十種神宝(とくさのかんだから)」で、物部氏はこれを使って、生き返りの呪法まで可能だったというから凄い。


でもそれって、誰に教わったんだろう?


ウィキペディアの情報によれば、古代中国には「祈祷、卜占、呪術、占星術、不老長生術、煉丹術、医術などの神仙方術を行って禍を除き、福を招き入れる能力を持ったヒト」がいたという。


彼らのことを「方士」と呼ぶが、その中でぼくら日本人でも知ってる人物はといえば、まぁ徐福だろう(笑)。


ぶっちゃけた話、徐福の少年少女たちから、のちの皇室と物部氏が出たというのが、現時点でのぼくの想像だ。

そしてきっと彼らには、何らかのヒエラルキーとか役割分担とかがあったんじゃないだろうか。

鵜戸神宮

鵜戸神宮

なに!それじゃお前は、神武天皇のルーツは大陸にあるというのか!


安心していいのは、言語やDNAから考えても少年少女は現地の縄文系と結婚していっただろうから、仮に、神武天皇やニギハヤヒがその末裔だとしても、もはや大陸に祖国があるというような発想もなければ、中国語も漢字も知らんという状態だろう。

まだ日本には、国家も国境もない時代だ。


それに、ざっと計算してみても、長浜浩明さんの計算だと神武天皇はBC96年の生まれで、昔のことなので平均20才で子供が生まれるとしたら、父「ウガヤフキアエズ」はBC116年生まれ。

その父の「山幸彦」はBC136年生まれ。

「ニニギ」はBC156年生まれ。

「天忍穂耳」はBC176年生まれ。

「天照大神」はBC196年生まれ。

そして「イザナギ」はBC216年生まれと、だいたい徐福団が日本に着いたBC210年ごろに、皇室の祖となる赤ちゃんイザナギが誕生した計算になるわけで、かなりの時間が流れている。


仮に今日、日本で生まれた赤ちゃんの7代前が大陸系だったとして、帰化後ずーっと日本で暮らして、日本人と結婚して、日本語しか話せない一族を、あいつらは大陸系だとかいう人はいないだろう。

ぼく自身、平民の出なので、7代前の爺さんなんて顔も名前も知らないし、出身地も知らない。


ま、以上はあくまでも「実在する文献」に残された「文字記録」から想像した、「可能性の一つ」としての話。


日向神話の神社と聖地〜神武天皇の旅立ち〜につづく