西暦180年頃、倭国大乱と鳥取の遺跡

(妻木晩田と青谷上寺地)

山陰最大、妻木晩田遺跡

妻木晩田遺跡

山陰地方の「弥生ムラ」としては最大級の規模を誇る、大山町の「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」。米子駅からは東に10キロほどの立地だ。


これまでに約240棟の住居跡と、約510棟の建物跡、数カ所の墳墓群が見つかっていて、遺跡の広がりは有名な「吉野ヶ里遺跡」の約3倍にも及ぶという。


妻木晩田ムラが営まれたのは、紀元1世紀から4世紀初頭の約300年間。

そのうち、ムラが最も繁栄していたのは、弥生時代後期後葉、2世紀後半の頃だろうと、『日本海を望む「倭の国邑」妻木晩田遺跡』(濵田竜彦/2016年)という本に書いてあった。

妻木晩田遺跡

・・・んーでも、なんか違和感があるな。


2世紀後半といえば「後漢書」なんかに「倭国大乱」なんて記述があって、「倭人」たちが殺し合いをしていた時代の話だ。

その内乱を収束させるために卑弥呼が女王に共立され、邪馬台国が「倭国」の中心に躍り出たという時代・・・。


そんな殺伐としたヒャッハーな時代に、妻木晩田ではムラが最盛期を迎えていた・・・と。

山陰最大の規模のムラなのに、ここに限っては戦闘とは無縁に平和を謳歌していたとか、そんなの有りえる話なんだろうか。

仙谷一号墓

上の図は、鳥取県の公式サイトから借用してきた妻木晩田でも最大の弥生墳丘墓「仙谷一号墓」。


見てのとおり、2C後半の出雲で造営された王墓「四隅突出型墳丘墓」と同じタイプで、西暦180年ごろ、出雲との友好関係を背景にして強力なリーダーシップを発揮した「王」のために築造されたお墓だろうと、濵田さんの本には書いてある。

日本海を臨む「倭の国邑」妻木晩田遺跡

「倭国大乱」の時代、出雲と妻木晩田は仲良く共存共栄の道を歩んでいたということか。

妻木晩田には、ムラ全体を囲むような「環濠(かんごう)」もなく、戦闘や防衛の痕跡はほとんど見あたらないそうだ。


どうやら鳥取県の西部については、「倭国大乱」とは無縁の世界が広がっていたようだ。

あるいはそこは、中国人が「倭国」と呼んだエリアではなかったのだろうか。

青谷上寺地遺跡の弥生人骨

語りかける弥生の人骨

一方、妻木晩田から東へ40キロ、鳥取県のほぼ中央部には、戦闘の痕跡で有名な遺跡がある。

鳥取市の「青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡」だ。


ここからは100人分以上の弥生人骨が見つかっていて、うち10人分以上の骨には「殺傷痕」が残されていた。

それらに治癒現象は認められず、殺されてすぐに、ムラの一画に打ち捨てられたことが明らかだという。

コンビニで買ってきた古代史のムック本にも、青谷上寺地は「倭国大乱の激戦を裏付けた」発見なのであった!と大見出しだ。

頭蓋骨の殺傷痕

昨今の科学の発展は目覚ましいもので、何とそれらの人骨から採取されたDNAがすでに解析され、骨のルーツがとっくに明らかになっていたりする。

解析結果によると、「父系」をあらわす核DNAのY染色体は縄文系が、「母系」をあらわすミトコンドリアDNAは大陸系が、多数を占めたのだという。

しかも母系のハプログループには家族や親類といった血縁関係が認められず、雑多な出自の集団だというから不思議だ。

弥生興亡 女王卑弥呼の登場

そんな気の毒な骨たちで有名な青谷上寺地だが、鉄器や中国貨幣、漢鏡などハイテク品の普及も早く、高度で最新の技術をもった人々が住むムラだったと考えられてるそうだ。


そこが「集団虐殺」を受けたわけだが、骨の専門家によれば、殺された人たちの顔立ちは「渡来系」なんだという。

(『弥生興亡 女王卑弥呼の登場』2010年)


・・・うーむ、父系は縄文、母系は大陸、本人たちは渡来系か。

メッチャややこしい人たちだが、彼らが何者なのか、ぼくに思い当たるのはこの地図か。

弥生時代後期の朝鮮半島

東夷伝」による諸民族の地理的位置

講談社学術文庫『古代朝鮮』井上秀雄/1972年

最近では、長浜浩明さんや室谷克美さんが拡散してスッカリ有名になった話だが、「魏志倭人伝」と一緒に『三国志』に収録されてる「魏志韓伝」を読むと、卑弥呼の時代の朝鮮半島南端には、中国人が「倭人」と呼ぶ人たちが住んでいたことが分かる。


この「倭人」たちのルーツは縄文人なので、父系が縄文系で問題ない。

また、一般的に危険な荒海を渡って新天地を求めるのは男どもなので、渡航先で家庭を持てば母系は大陸系だろう。


ってかんじで、青谷上寺地で皆殺しにされたのは、この半島出身の渡来系「倭人」たちという可能性はないんだろうか。

魏志「韓伝」によれば、ちょうど「倭国大乱」の時代、朝鮮半島では楽浪郡やその支配下の県の統制が弱まり、それらの郡県の人々が南下して、「三韓」の諸国に流入する事態が起こっていたという。


そうした南下する人の流れに押し出される形で、最南端の「倭」から日本列島に移住していった「倭人」が骨の主なのでは・・・などと考えてみたんだが、まぁそんな短期間に青谷上寺地に100人規模のムラを作るなんて、ちょっと難しいか。


ただ、「遺跡展示館」の説明には、見つかった人骨は「弥生時代後期(約1800年前)のもの」と書いてあって、それだと虐殺は「倭国大乱」を卑弥呼の共立で収束させた"後"の事件になるわけで、彼らが渡来系であることを含めて、事件を「倭国大乱」に結びつけて考えるのは、ちょっと安直じゃないかという気がしないでもない。

田和山遺跡の神殿

田和山遺跡

たとえば、松江市の「田和山遺跡」。

写真は、松江市公式サイトのPDFから借用したものだが、弥生前期末〜中期後半(BC400〜AD100)に運用されたという三重の環濠が見て取れる。


環濠からは拳サイズの「石礫(つぶて)」が大量に発見されたことから、山城として籠城戦に使われた防御施設だという説があるが、不思議なことに守るべきムラ(居住域)は、環濠の"外側"にあるのだった。


んじゃ、実際に守られていた山頂には何があったかといえば、九本柱からなる建物跡が見つかっていて、これはどうも出雲大社で有名な「大社造り」の、祖形なんじゃないかという話がある。

つまりは「神殿」だ。

新・古代出雲史

『新・古代出雲史』(関和彦/2001年)という本には、田和山遺跡の石礫には多くの未使用品が含まれていたことから、それらは「神の城」に奉納された武器ではないかという考察がある。


「出雲国風土記」の「大原郡」の条に記載されている、「大穴持命(オオクニヌシ)」が八十神と戦うために城を築いたというエピソードからインスパイアされたという説だが、これは面白い。


環濠や武器があるからといって、ただちに「倭国大乱」の戦闘と結びつくわけではないようだ。


西暦180年頃、第9代開化天皇、丹波の竹野媛をお妃に(赤坂今井墳丘墓)につづく