倭の五王⑥武

 〜雄略天皇と宗像・伊勢・葛城・三輪の神々〜

雄略天皇の時代の伊勢

宝塚1号墳

写真は2021年秋に見学した、三重県松阪市の前方後円墳で「宝塚1号墳」。

5世紀初頭の築造で、「船形埴輪」の出土で有名だ。


墳丘長111mは旧伊勢国では最大サイズで、伊賀国を加えた三重県全体でも第4位。

丘陵上にある古墳からは、松阪の町並みが見渡せた。

『伊勢神宮の考古学』表紙

ところで伊勢に神宮が造営された理由について、昭和の本だとヤマトが「東国経営の拠点」として開発した———なんて説が見られるが、地元の考古学者・穂積裕晶さんの『伊勢神宮の考古学』(2013年)によれば、伊勢界隈には古墳時代の「港湾・湊に相当する有力な遺跡は現況では未確認」なんだそうだ。


また、伊勢や鳥羽から三河に渡海しようとすると、「伊良子渡合」なる潮流の速い難所を通過することになって、古代の船じゃー危険極まりないのだとも。


じゃあどこが「東国経営の拠点」だったかといえば、『風土記』や『万葉集』にも名前が見える松阪市の「的形(的潟)」が天然の良港として、第一候補になるそうだ。そこは、持統天皇が三河への行幸に使った湊なんだとか。

上のGoogleマップは、雄略天皇の御世までに三重県に造営された、全長50m以上の古墳の分布。


当時の東海道は、奈良県桜井から伊賀を抜けて、鈴鹿・四日市・桑名と北上するか、伊賀から東に向かって松阪に至るかだったそうだが、いずれにしても"伊勢"がルートから完全に外れた僻地であったことが見て取れる。


んじゃ、そんな僻地"伊勢"に5世紀後半ごろ、何があったかというと、現在の内宮「荒祭宮」の北側に、当時としては大規模な「祭祀遺跡」があったんだそうだ(今と同じかw)。


穗積さんによれば、その時代の度会郡には、その祭祀遺跡に見合うような規模の在地勢力は確認できないとのことで、ヤマトによる「国家祭祀(=原・伊勢神宮)」が想定されるとのこと。


ただ、祭祀遺跡が確認できるのは内宮だけで、外宮からは5世紀後半にさかのぼる考古資料は出ていないのだとか。


外宮を見下ろす、不敬な(?)高倉山古墳の存在から考えても、外宮のスタートはもっとあとの時代になるようだ。


【関連記事】アマテラスの相殿神と高倉山古墳 (伊勢の水銀と紡績の神)

雄略天皇と宗像、伊勢の神

沖ノ島

(玄界灘の沖ノ島 写真AC)

雄略天皇の時代に、ヤマトが国家祭祀を行った場所といえば、福岡県宗像市の「宗像大社」が有名だ。


玄界灘に浮かぶ神体島「沖ノ島」からは、4〜9世紀にかけての祭祀遺物が大量にみつかっていて「海の正倉院」とも呼ばれるのだそうだ。


日本書紀によると、雄略天皇が直接関与した神が4柱あったが、その一柱が「胸方の神」。


西暦466年、新羅征討を計画した天皇は、凡河内香賜(カタブ)と釆女(うねめ)を派遣して胸方神を祀らせたが、カタブは事もあろうに神に仕える釆女を手込めにしてしまう。


もちろん激怒した雄略天皇にカタブは斬り殺されたが、胸方神からは新羅への親征を禁止され、代わりに送った将軍たちは内輪喧嘩を繰り広げ、征討は大失敗に終わったのだった。

神島

(伊勢湾の神島 写真AC)

島自体がご神体とされる神体島には、沖ノ島の他にも瀬戸内海の「大三島」、そして伊勢湾の「神島」も挙げられる。


神島の「八代神社」には、「神宮神宝」と共通する祭祀遺物や「画文帯神獣鏡」などの銅鏡が保存されていて、昔から沖ノ島の国家祭祀との対比がなされてきたそうだ。


すると雄略紀には誠に興味深い記事がのっていて、宗像で起こった神女への婦女暴行と非常によく似た事件が、同じころの伊勢でも起きたのだという。

五十鈴川

(五十鈴川 写真AC)

雄略天皇3年(460年)、伊勢大神に仕えていた皇女(栲幡姫皇女)が、皇女の世話人(盧城部連武彦)に強姦されて身籠もっている、という知らせが天皇に届けられた。

天皇が到着したときには、すでに皇女は神鏡を五十鈴川のほとりに埋めて、自害してしまっていた。

その後の調べで、皇女の妊娠は讒言だと判明した———。


以上が事件の顛末だが、神域とされる宗像と伊勢で、神に仕える女性がともに汚されたという二つの事件が意味するものは何か。


まぁシンプルに考えれば、宗像 = 伊勢。


まだ伊勢には「皇祖神の祭祀」みたいな特別な意味はなくて、宗像同様に航海の安全と成功を祈る地方神、守護神・・・って段階だったんだろう。

雄略天皇の時代、宗像と伊勢はまだ同じぐらいの重さでしかなかったということか。


※穂積さんによると、神島の祭祀はヤマトによる国家祭祀ではなく、三河とも繋がりのある土着の氏族、麻続氏によるものである可能性が高いそうだ。

伊勢の大神と太陽信仰

『伊勢神宮の祖型と展開』表紙

古墳時代後半の皇室が太陽信仰をもち、太陽祭祀を行っていた根拠とされるのが、雄略朝より100年ほど後の第30代敏達天皇の時代の、この記録。

六年春二月の甲辰の朔に、詔して日祀部(ひのまつりべ)と私部(きさいちべ)とを置いた。

(『日本書紀・下』中公文庫)

昭和の頃は、この「日祀部」が宮廷内で太陽神の祭祀を掌った祭官だと考えられ、それを根拠に皇室の太陽信仰が論じられたわけだが、日祀部の実態が全く分からないだけに反論も多かったようだ。


その一人に、伊勢神宮の禰冝、神社本庁総長、皇學館大学理事長を歴任されたプロ中のプロの神道家、櫻井勝之進さんがいる。


櫻井さんによれば「記紀の天照大神も伊勢で祭られる天照大神も、断じて太陽神というような、いわゆる自然神ではなかった」とのことで、天体としての太陽との関係を否定されている。

(『伊勢神宮の祖型と展開』1991年)。


たしかに言われてみれば、日本書紀の神代(本文)で、「日の神(天照大神)」は「天下に主たるもの」として「地上」で誕生し、「光うるわしく輝いて上下四方に照りとおった」から、天に送られたのだった。


太陽のように輝くまばゆい存在ではあるが、太陽という天体自体は意味していない。


ゆえに櫻井さんは、天皇をあらわす「日の御子」も、あくまで皇祖(天照大神)の霊威を受け継いでいるという比喩的な意味であって、天体としての「太陽の子」ではないとお考えだ。


※ぼくも日本書紀を読んだ感想だけだが、皇室と太陽には直接の関係はないような印象がある。

伊勢神宮の創建

『古事記外伝』

古墳時代の伊勢に、土着の太陽信仰が存在したかどうかは定かでないようだが、その一方で、伊勢がいつから皇祖神を祀るようになったのかは、おおむね見当が付いているそうだ。


というのも、天武天皇の兄にして持統天皇の父である第38代天智天皇は、伊勢に皇祖神を祀ってるつもりがサラサラなかったらしいのだ。

伊勢神官とアマテラスの格の上昇は、たぶん漸進的に進んだわけではないだろう。

天武より以前の約50年間は、斎宮(斎王としてアマテラスを祀るために伊勢に送られた未婚の皇女)が廃絶していたことからも、それがうかがわれる。


また、天智に関しては、神宮の神領の一部を国家の領地に切り替えたという神宮側の記録もあり、むしろ関係はよくなかったと考えられている。


(『古事記外伝』藤巻一保/2011年)

で、そうなると伊勢神宮が今のような地位を得たのは、天武/持統の時代以降ということになるが、日本書紀には「伊勢の大神」が持統天皇に納税の相談を持ちかけた記事もあり、まだ皇祖神には程遠い。


結局はよく言われるところの、『続日本紀』文武天皇2年(698年)12月29日に載る「多気大神宮を度会郡に遷した」が、内宮が今の形になった記事、ということになるんだろうか。


同様に外宮の成立についても、『続日本紀』和銅4年(711年)に伊勢の磯部氏が「渡相(わたらい)神主の姓を賜った」あたりの話になるんだろうか(ここら辺の話題はまた、その時代で…)。

雄略天皇と葛城・三輪の神

葛城一言主神社

(葛城一言主神社)

雄略天皇が関わった残り二柱の神は、大和の葛城「一事主神」と、三諸岳(三輪山)の神。


このうち葛城の一事主神は人間の姿で現れると、天皇と一緒に狩猟を楽しんだり、帰路を見送ってきたりと友好的な間柄となった。


これはよく言われるように、この時代に葛城地域が完全に皇室の影響下に置かれたという事実を物語っている———という理解で良さそうだが、問題は皇居にも近い三諸岳(三輪山)の神だ。

三輪山

(三輪山 写真AC)

皇室とは長い付き合いのはずの三輪山の神だったが、日本書紀はその名を「大物主神または墨坂神」と断定できず、雄略天皇の命令で捕らえられた神の姿は、なんと「大蛇」だった。


天皇が斎戒せずに現れると、大蛇は雷のような音を響かせ、目を輝かせて威嚇してきたというから、まるで縄文・弥生時代の神のイメージだ。


昭和の頃の学説には、伊勢でアマテラスを祀る前は、皇室は三輪山の神を祀っていた・・・なんてものもあるようだが、雄略天皇の行動からは、三輪山への畏怖や敬意はまったく感じられない。


あるいはそういった雄略天皇の言動から、纒向に都があった崇神・垂仁・景行の皇統との「断絶」を読み取って、「王朝交替説」の根拠にされることもあるようだが、そもそも三輪山の神は最初から「祟り神」として現れ、その後も皇室と友好的だったことはないのでは?

考古学の成果によると、三輪山麓での国家祭祀は5世紀後半に始まったようで、これは丁度、伊勢の内宮(荒祭宮)の国家祭祀が始まったのと同じようなタイミング。


ただ、宗像にせよ、伊勢にせよ、その頃の国家祭祀は「在地の氏族を通して間接的に奉斎する体制」だったようで、三輪山においては一貫して三輪氏(大神氏)が鎮めていたんじゃないだろうか。

また、『古事記』『日本書紀』のオオタタネコ伝承では、天皇は託宣に従い、大神氏の祖であるオオタタネコを神主に任命して祭祀を行わせている。


藤森馨はこれらのことから、国家が三輪山の神のような在地の神を祭る場合には、在地の氏族を通して間接的に奉祭する体制を取っており、天皇家といえどもその祭祀に介入することはできなかったと論じている。


『古代豪族 大神氏』(鈴木正信/2023年)

考えてみれば、記紀のどこを読んでも皇室が三輪山を祀ったという話は見当たらないわけで、垂仁紀の「国見」の件も、「夢の中」でしか足を踏み入れてはならない「聖域(アジール)」が三輪山だったのでは・・・という鈴木正信さんの説の方が、ぼくにはスーッと入ってくる。


敏達紀の「天皇霊」の件も、死後の世界を含めた「聖域」との境界が三輪山だから・・・みたいに考えないと、まるで歴代の天皇の「地縛霊」がウロウロしているミステリーゾーンに思えてしまう。


※そういえばネットなどで、伊勢と三輪の神が「同体」であるような記述を見かけることがあるが、あれは室町時代に始まった「三輪流神道」とやらの教義にもとづくもので、オリジナルの信仰とは全く関係ない話のようだ。


清寧・顕宗・仁賢・武烈 〜記紀の「飯豊天皇」と両宮山古墳の被葬者〜つづく