『アマテラスの暗号』を読んで
〜元伊勢(籠神社)・天照御魂神・大嘗祭の秘儀〜
日ユ同祖論をモチーフにした冒険小説『アマテラスの暗号』(伊瀬谷武)に文庫版が出ていたので、買って読んでみた。
なんでも「この小説における神名、神社、祭祀、宝物、文献、伝承、遺物、遺跡に関する記述は、すべて事実にもとづいている」んだそうだ。
でも、一匹の古代史好きとしては、ちょっと気になる箇所もあったので、そのうち3点だけ書き留めておくことにする。
①籠神社は「元伊勢」か
(籠神社)
本題に入る前に予備知識として、『アマテラスの暗号』の主人公の実家として出てくる、丹後国一の宮「籠神社(このじんじゃ)」の祭神について。
籠神社の現在の主祭神は「彦火明命(ひこほあかり)」といって、代々の社家である「海部(あまべ)氏」の祖神だが、社伝によれば大化の改新のころは「彦火火出見尊」つまりは神武天皇のおじいさん「山幸彦」を祀っていたのだという。
それが室町時代の『大日本国一宮記』では、「住吉」と一体だという「籠守権現」に代わっている。
住吉とは、摂津国の住吉大社で祀られている「住吉三神」のことで、住吉大社の世襲宮司・津守氏と海部氏が「同族」だからの展開だろう。
新しいところでは、『日本の神々 神社と聖地』シリーズが発行された1985年当時、籠神社の主祭神は「天照大神・豊受大神・天水分神」の三柱だったようだ。
んで何が言いたいのかと言うと、現在の祭神から神社本来の信仰や祭祀を考えるのは、非常に困難だということ。
例えば『暗号』では、秦氏が創建した「木嶋坐天照御魂神社」の、現在の「五柱」の祭神はバランスがとれた顔ぶれだと関心しているが、平安時代の神社名簿「延喜式神名帳」では、木嶋坐天照御魂神社の祭神は「一座」だと書いてある。
秦氏が、社名のとおりの「天照御魂神」だけを祀っていたのが、元々の、オリジナルの姿なんだろう。
「天照御魂神」は対馬でも祀られる海人(あま)族の神で、元々は「海照」だったという説もある。
(出典『古代の鉄と神々』真弓常忠)
んじゃー本題に入ると、元は大和の皇居で祀られていたアマテラスが伊勢神宮に落ち着くまでのあいだ、一時的に鎮座していた宮を「元伊勢」という。
かつての「与謝郡」に立つ「籠神社」では、アマテラスが4年間留まったという「吉佐宮」は当社であり、当社は元伊勢である、と主張しているわけだが、根拠となる史料に問題がある。
804年に伊勢神宮(内宮)が朝廷に提出した公文書『皇太神宮儀式帳』に記載された元伊勢は、上の地図の点線で結ばれたルート上にあって、籠神社のある日本海側、丹後国には及んでいない。
丹後の吉佐宮を元伊勢に含めているのは、鎌倉時代に「外宮」の神官たちが「偽撰」した『神道五部書』なる私文書の一つ『倭姫命世紀』だ。
神道五部書では、外宮が祀る(アマテラスの食事係の)トヨウケとは、本当は「豊受皇太神」といってアメノミナカヌシ(天之御中主神)、およびクニノトコタチ(国常立尊)を別名とする、宇宙の根源神———すなわちアマテラスより上位の存在であるぞ!という主張が展開されている。
もちろん、外宮がランクアップを狙って作文した「偽書」だ。
籠神社が「内宮」の元伊勢だというのは、その「偽書」に書いてある話というわけだ。
※804年の公文書に基づく上の地図の「宮」が信用されているのは、それらが当時、伊勢神宮の「神田」や「神戸」の場所だったというFACTがあるから(近江と美濃は除く)。
※また、『暗号』には、聖徳太子が7世紀に編纂した『先代旧事本紀大成経』にはアマテラスは伊勢に着く前には志摩国の「伊雑宮」に鎮座していて〜〜というくだりがあるが、その経典も江戸時代に「発見」されたという「偽書」だ。
(比沼麻奈為神社)
じゃあ「外宮」の元伊勢の方はどうか。
804年に外宮が提出した公文書『止由気宮儀式帳』によれば、外宮のトヨウケの元伊勢は、「丹波国比治の真奈井」という場所にあったという。
8世紀に成立した丹後国の『風土記』逸文には、「豊宇賀能売命(トヨウカノメ)」なる天女の伝説が載るが、文中で「比治の里」は、"郡役所の西北の隅の方"にあったと書いてある。
この「比治」については「比沼」の誤写という説があるようで、本居宣長、平田篤胤、折口信夫といった錚々たる面々が賛意を表しているのだとか。
そうなると不利になるのが「籠神社」で、籠神社の鎮座地は「丹波郡」ではなく「与謝郡」で、"郡役所の西北の隅の方"にあるというわけでもない。
すると条件を満たす「式内社」が丹波郡に一社あって、その名も「比沼麻奈為(まない)神社」という。
錚々たる面々は、こちらを「比治の真奈井」に推しているというわけだ。
②ニギハヤヒとアマテラスの本名
(石切剣箭神社)
『暗号』では、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」という神名には「天照」と入っているので、「アマテラスの御名」の一つだとされる。
その上で、最後に「饒速日(ニギハヤヒ)」とあるんだから、アマテラスとニギハヤヒは同一神だという。
ニギハヤヒは古代の大豪族「物部氏」の始祖とされ、日本書紀によれば、神武天皇より先に大和に「降臨」していたものの、国を天皇に明け渡して帰順すると、大和の平定に協力したという人物(神?)だ。
だが、日本書紀では「饒速日命」「櫛玉饒速日命」、古事記では「邇藝速日命」と表記され、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」なんて長い名前では出てこない。
その長い名前で出てくるのは、806〜906年のどこかで、誰かが書いたという『先代旧事本紀』という歴史書の中でだ。
物部氏に偏った内容から、没落して久しい物部系の人物による「偽書」だとされる(「国造本紀」だけは本物と認める専門家は多い)。
(真清田神社)
ただ、実は"長い名前"も途中までは、正史の日本書紀にも出てきている。
「尾張氏」の祖神、「天照国照彦天火明命」だ(第九段第八の一書)。
この神は、今の籠神社の主祭神でもあり、尾張国一の宮「真清田神社」の主祭神でもある。
略して「火明(ホアカリ)命」は、日本書紀の「正伝(本文)」では、天孫ニニギとコノハノサクヤヒメとの間に三番目に産まれた「尾張連たちの始祖」で、一番目は隼人の祖、二番目が皇室の祖(山幸彦)だ。
要は、日本書紀が「尾張連たちの祖」だという「天照国照彦天火明命」の神名に、日本書紀より100〜200年後の時代の物部氏が、始祖の「饒速日尊」をくっつけたのが、長い名前の正体だ。
むろん、その意図や意味は不明だ。
ちなみに『先代旧事本紀』の長い名前のニギハヤヒは、皇祖タカミムスビの命を受け、32将を率いて大和に天孫降臨したものの、地上でできた我が子の顔も見ないうちに死亡してしまい、「天上」に戻されて葬られたとある。
(廣田神社 写真AC)
ところで、日本書紀には4世紀ごろのアマテラスの「本名」が載っていて、実はホアカリ+ニギハヤヒよりも長かったりする。
神の言葉を聞かない仲哀天皇を祟り殺した神々を、神功皇后が「神降ろし」したとき、後に「天照大神」だと判明した神の名乗りはこうだった。
「神風の伊勢国の百伝(ももつた)う度逢(わたらい)県の拆鈴(さくすず)五十鈴宮におります神、名は撞賢木(つきさかき)厳之御魂(いつのみたま)天疎向津媛(あまさかるむかつひめ)命 」
この長い名前のアマテラスの「荒魂」は、今の神戸市「廣田神社」に祀られたが、このあと日本書紀に「天照大神」の名が出て来るのは、壬申の乱での天武天皇の「望拝」まで飛んでしまう。
その間、約300年、伊勢で祀られていたのは「伊勢大神」で、雄略・継体・欽明・皇極・持統の御世に登場しているが、猿を使いに寄こしたり、減税の交渉をしてきたりと、天下の皇祖神!というイメージはない。
※作中に出てくる「天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊」なる神を祀っている神社は「事実」としてありませんので、実際に存在する名称で検討しています。
③大嘗祭の秘奥義
『暗号』では「大嘗祭の究極の秘奥義」といわれる、「天皇が神座の寝床に臥すという行為」。
これ、別に知られざる秘密でも何でもなくて、高名な民俗学者・折口信夫が昭和3年(1928年)に発表した論文『大嘗祭の本紀』で展開した、有名な「仮説」だ。
ちょうど最近読んだ本に取り上げられていたので、チト長くなって恐縮だが、引用させて頂くことにする。
さて、この大嘗祭の意義について、昭和3年に国文・民俗・神道学者であり歌人でもあった折口信夫氏の論文「大嘗祭の本義」による大嘗祭観、すなわち大嘗祭の本義とは、真床追衾に見立てられた寝具に皇位継承者がくるまることにより、先帝の天皇霊を受霊し、天皇としてのカリスマを得る秘儀とする考え方が昭和期を通じて学界を席巻し、その影響は考古学にも及んだ。
しかし、昭和50年代の後半以降、それに対する異論が提出されはじめ、平成に入って国學院大學の岡田荘司氏が儀式書なども含めた古記録を広く渉猟して検証し、大嘗祭には折口説のような秘儀は存在せず、神膳供進(神に神饌を進める)と共食(それを天皇と神がともに食す)を中心とした素朴な儀礼であると論じて以降、細部での異論はあるが、この考え方が現在にいたるまで学界では広く受け入れられている。
昭和を通して折口説の影響下にあった大嘗祭論が、平成に至って学説の転換を迎えたわけである。
(『大嘗祭の考古学』穂積裕昌/2022年)
昭和を席巻した「仮説」だったが、文献の徹底的な洗い直しを経て、現在は否定されているという話。
なお、神話学者の松前健さんによれば、国王や首長が即位式などで毛皮や布をかぶる事例は、シベリアやモンゴル、突厥、さらにはインドのバラモンなど、アジア各地で広く見られたものらしい。
最後に、日本語とヘブライ語の相似について一点だけ。
『暗号』では「高天原(タカマガハラ)」とは、アブラハムが住んでいた「タガーマ州のハラン」つまり「タガマ・ハラン」のことではないか、というが、古代史家の大和岩雄さんによると、幅広い階層が参加している『万葉集』には「高天原」の表記は極めてわずかで、大半は「天原」「あまのはら」というんだそうだ。
タガマ・ハランと、あまのはら。
似てる?
ちなみに万葉集では「天照大神」の出番もゼロで、どうやら当時の古代人たちは、「高天原」も「天照大神」も、共通認識ではなかったようだ(あるいは記紀専用だったか?)。
あー、あと一点!
『暗号』では、京都・八坂神社で7月に行われている「祗園(GION)祭」とは「シオン(ZION)祭」のことだといって、古代イスラエルでも「第7の月」に同じように祭事を行ったことから「祗園祭の縁起はユダヤ文明にある」という。
しかしユダヤ暦の「第7の月」は、現在のグレゴリオ暦では9〜10月の間にあり、一方、明治維新までの祗園祭は旧暦の6月7日と6月14日に行われたと、八坂神社の宮司を務められた真弓常忠さんが書かれている。
正史『三代実録』によれば、祗園祭では、西暦865年には6月14日にメインの「御霊会」が開催されていたそうだ。
「伊勢神宮の心御柱とは」につづく