出雲神話④風土記のスサノオ一家
〜意宇の安来神社 〜
出雲国「意宇(おう)郡」のスサノオ
島根県安来市でスサノオを祀る「安来(やすぎ)神社」(2022秋参詣)。
古代の安来市は、松江市の南部と合わせて「意宇(おう)郡」を形成していた。
出雲国風土記によれば、「国土の果て」の安来郷にやって来たスサノオが、心が安らかになったと言ったので「安来」と名付けられたという。
※以下の引用は『風土記(上)』角川ソフィア文庫より
安来の郷。
神須佐乃袁の命が、国土の果てまでお巡りなさった。
その時、ここにやって来られて、「わたしの御心は安らかになった」とおっしゃった。
だから安来といった。
(島根県公式サイト)
「大原郡」のスサノオ
山間部の大原郡には、スサノオ本人の話題が2本載せられている。
佐世の郷。
古老が伝えて言うことには、須佐能袁の命が佐世の木の葉を頭に挿して踊られた時に、挿しておられた佐世の木の葉が地面に落ちた。
だから、佐世といった。
御室山。
神須佐乃呼の命が御室をお造りになって宿った所である。
だから、御室といった。
「飯石郡」のスサノオ
(須佐神社 写真AC)
出雲国風土記で、スサノオ本人の話題は全部で4本。
残る一本が、飯石郡(雲南市)の「須佐」の地名についてで、式内小社「須佐神社」の縁起譚であり、古事記がスサノオを「須佐之男」と表記することから、出雲におけるスサノオの根拠地とも見なされている場所の件だ。
須佐の郷。
神須佐能袁の命が、「この国は小さいとはいえ、国として手頃な良いところである。だから私の御名は、木や石などにはつけまい」とおっしゃって、すぐにご自分の御魂をここに鎮め置かれた。
そして大須佐田・小須佐田をお定めになった。
だから、須佐といった。正倉がある。
ただ、「須佐」をスサノオの本拠地と見なすのは、あくまで古事記の影響下において。
出雲国風土記のスサノオが、記紀のスサノオとは全くの別の神であるのは、上の引用を見てのとおりだ。
スサノオの本拠地はどこか
んで、風土記だけを見た場合だが、スサノオの本拠地は飯石郡の北にある「神門郡」(出雲市南部)だった可能性が考えられると、ぼくは思う。
というのも、スサノオの娘の二人が、神門郡で「大穴持命(オオクニヌシ)」に求婚されたというからだ。
八野の郷。
須佐能袁の命の御子、八野若日女の命がご鎮座していた。
その時、天の下をお造りになった大神、大穴持の命が結婚しようとして、家を造らせた。
だから、八野といった。
滑狭の郷。
須佐能袁の命の御子の和加須世理比売(わかすせりひめ)の命が鎮座していた。
その時、天の下をお造りになった大神の命が、結婚して妻問いに行かれた時に、その社の前に岩があった。
その表面はつるつるとして滑らかだった。そこで、「滑らかな岩だなあ」とおっしゃった。
だから、南佐といった。
神?とはいえ、若い未婚の女性が親元を離れて一人暮らしをするとは考えにくいので、少なくとも娘たちが結婚適齢期の頃、風土記のスサノオは神門郡に住んでいたんじゃないかとぼくは思う。
ちなみにカミムスビの娘も、神門郡で大穴持に求婚されている(出雲郡でも)。
風土記からみるカミムスビの信仰圏は、神門郡から北に広がっているので、南の山間部に東西に広がっているスサノオの信仰圏との境界が、実は神門郡あたりにあったのかも知れない。
(出雲大社の銅鳥居)
面白いのは、神門郡のすぐ北の「出雲郡」には、スサノオのエピソードが出てこないことだ。
中世から江戸時代のある時期まで、杵築大社(出雲大社)の主祭神はスサノオだったと聞くが、風土記をみる限りではスサノオの信仰は「出雲郡」にはないわけで、どうやら後世に他の郡から持ちこまれた神だった可能性が高そうだ。
さて、娘がいれば息子もいる。
安来を「地の果て」だというくらいで、スサノオ本人の代までは、その勢力圏は宍道湖の南までに限られたようだが、息子たちの代には島根半島の「島根郡」「秋鹿郡」まで進出していたようだ。
山口の郷。
須左能袁の命の御子、都留支日子(つるきひこ)の命が、「わたしがお治めになっている山の入り口だ」とおっしゃった。
だから山口と名づけられた。
方結の郷。
須左袁命の御子、国忍別(くにおしわけ)の命が、「わたしがお治めになっている土地は、国形えし(良い)」とおっしゃった。
だから、方結といった。
恵曇の郷。
須作能呼の命の御子、磐坂日子(いわさかひこ)の命が国を巡行された時に、ここに到着して、「ここは国が若く美しい。土地のありさまは画鞆のようだなあ。私の宮はここに造る」とおっしゃった。
だから、恵伴といった。
多太の郷。
須佐能呼の命の御子、衝桙等呼与留比子(つきほことをよるひこ)の命が国を巡行された時に、ここに到苦して、「私の御心は、明らかで正しくなった。私はここにご鎮座しよう」とおっしゃってご鎮座した。
だから、多太といった。
ところで、記紀のスサノオと風土記のスサノオでは、そのイメージはまったく一致しない。
そのギャップを埋めるのが、スサノオの息子たちの名前だという説を読んだ。
これについて、スサノオの御子神に注目すると興味深い事実に気づく。
八箇所に登場する七神の御子神たちの記事は、いずれも地名伝承など短い説話ばかりだが、その名前はツルギヒコ命、ツキホコトオヨルヒコ命など、"剣"や"鉾"を名に含む、武神的性格を連想できる。
つまり、スサノオと御子神たちのトータルが記・紀のスサノオ像なのである。
(『伊勢神宮と出雲大社』2010年)
しかし「など」とは言うけども、そのツルギヒコとツキホコの二人しか武器っぽい名前はいないような気がするし、総勢7人中2人では補完関係というには弱いような気もする。
それに他の5人は、スサノオの何を補完してるというんだろう。
あと、スサノオに「武神的性格」なんてあったのか、疑問もある。
むしろ完全武装してスサノオを迎え撃った、アマテラスの方が武神っぽいイメージがあるようにぼくには思える。
実際のところ、ヤマタノオロチを殺して手に入れた「草薙剣」を、スサノオは自分で使わずにアマテラスに献上してるわけで、スサノオはただの気の荒い、悪戯好きの乱暴者という「設定」なんじゃないかと、ぼくには思える。
水野祐氏の説
というわけで、出雲国風土記からダラダラとスサノオ一家の記事を引用してみたが、それはできる限り史料は正確に把握したいと思ったから。
例えば上掲の『伊勢神宮と出雲大社』には、こんな説明がのっている。
東西のクニの出現は、神話の分布図から見て取ることもできる。
水野祐氏は、『出雲国風土記』から出雲東部にオオナモチ(=オオクニヌシ神)系神話、西部にスサノオ系神話に分かれると指摘。
東西それぞれ、固有の信仰を有していたことが分かる。
前者を奉斎し、アメノホヒを祖としていたのが出雲東部、意宇郡を本貫とする勢力であった。
のち、出雲は統一されるが、神話の上でもオオナモチ命はスサノオの娘を娶ることでスサノオ神話も吸収し、出雲の統合神オオクニヌシとして杵築大社に祀られていくのである。
出雲国造家とスサノオ
(特急やくも 写真AC)
最後になったが、出雲国造の手で733年に成立したという出雲国風土記が、実は記紀のスサノオをまったく受け入れる気がなかったことが、冒頭からわかる。
記紀では有名な「八雲立つ」はスサノオが詠んだ歌だとされているが、風土記でそれは、「国引き」を行った「八束水臣津野命(やつかみずおみずぬ)」の言葉として登場しているのだ。
大穴持(オオクニヌシ)の件では古事記に歩み寄ってるようにも感じられる出雲国造家だが、なぜかスサノオの方は、出雲を3分の1ぐらい支配した現実的な王・・・のイメージにとどめたがっている。
そんな印象が、ぼくにはある。
とはいえ、後に政治的に苦境に陥った出雲国造さんは、先祖代々信奉してきた「最も尊い神なる熊野大神・櫛御気野命(くしみけぬ)」をスサノオに習合させ、出雲大社で「天つ神」として祀るようになるというんだから、歴史はまことに複雑だ。