出雲神話⑰「鹿島神社」のしめ縄はタケミカヅチの封印か
出雲の「鹿島神社」のしめ縄
出雲市武志(たけし)町で「武甕槌命(タケミカヅチ)」を祀る「鹿島神社」(2019秋参詣)。
古事記には、「国ゆずり」を受け入れた大国主神は、出雲国の「多芸志(たぎし)の小浜」に「天の御舎」をつくり、建御雷神を「天の御饗」で歓待したと書いてある。
その舞台がこちらの鹿島神社だろうということだ。
(『古代出雲大社の祭儀と神殿』2005年)
【ご注意】角川ソフィア文庫『古事記』だと主客が入れ替わっていて、タケミカヅチがオオクニヌシを接待したことになっているが、それは本居宣長以来の誤読だそうだ。
(出雲大社・神楽殿のしめ縄)
出雲の鹿島神社が面白いのは、一番上の写真の通り、しめ縄が向かって左が「綯い始め」で太くなっていて、それがあの出雲大社と同じ形だと言う点だ。
出雲大社のしめ縄が一般と逆になっていることから、それは怨霊と化したオオクニヌシを封印する装置なのだと『逆説の日本史』(1992年〜)で有名になった説がある。
でもそれ、この鹿島神社だとオオクニヌシを隠居させた当のタケミカヅチが怨霊になって封印されてることになってしまうわけで、どうやらそれは、月刊ムー的なオカルト説だったようだ。
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出雲国一の宮「熊野大社」のしめ縄
(熊野大社のしめ縄)
実際のところ、出雲国造家がオオクニヌシを祀る以前から奉斎していた本来の祭神、「クシミケヌ」を祀る出雲国一の宮「熊野大社」のしめ縄も、向かって左が綯い始めで太かったりする。
と言って、んじゃそれが古代からの出雲国造家のしきたりかというと、国造さんの「邸内社」といわれる「神魂(かもす)神社」は一般的な右が太いタイプを採用していて、すっきり一刀両断で説明できるほど単純な世界ではないらしい。
それに、熊野大社のクシミケヌは現在ではスサノオの別名だとされているが、中世から近世までの長い期間、杵築大社(今の出雲大社)の主祭神はそのスサノオだったのだ。
スサノオは自分で希望して「根の国」に住んだわけで、怨霊となって誰かを祟ったり、そのせいで封印されたりする理由は、全くない。
常陸国一の宮「鹿島神宮」の神座
上の写真はタケミカヅチを祀る総本社、常陸国一の宮「鹿島神宮」の境内案内板の一部。
楼門をくぐると右手すぐに社殿が現れるが、南面が多い寺社にしては珍しく、北向きに立てられている。
鹿島神宮の社殿内配置図(出典『鹿島神宮』東実/1968年)
それで本殿内部の配置はというと、これが出雲大社と同じで「御神座」は正面を向かず、ここでは東を向いている(出雲大社は西向き)。
つまりは拝所からタケミカヅチは拝めないというわけで、出雲大社が「オオクニヌシの怨霊を封印してる」説には、いろいろと無理がありすぎるのだった。
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藤原氏のタケミカヅチ
ところで、その鹿島神宮のタケミカヅチ(武甕槌大神)だが、もともと常陸で信仰されていた土着の神ではなかったらしい。
藤原宇合が国司をつとめた712〜724年の間に編纂されたという「常陸国風土記」では、それは「香島天之(かしまのあめの)大神」という名で高天原から降りてきたとされている。
『日本の神々 神社と聖地 11』(1984年)によると、正史でタケミカヅチが鹿島神宮の祭神として記された初見は『続日本後紀』で、836年のこと。
思ったより遅い。
ただ807年の『古語拾遺』(斎部広成)に、「武甕槌神」が「鹿島神」だとあるので、中央貴族の間ではその頃までに、タケミカヅチの名前も定着していたという話だ。
ただそのタケミカヅチが常陸の「香島天之大神」と同じ神で、神名だけ変わったのかといえば、そんなに簡単な話でもないらしい。
(鹿島神宮・楼門)
『日本の神々11』の大和岩雄さんの記事によると、まず746年、鹿島神の祭祀に卜占の技術者として仕えていた卜部・中臣部らを、藤原氏が「中臣鹿島連」に成り上がらせた。
そのうえで鹿島神の分霊を、奈良の「春日大社」に遷座させたのが765〜768年ごろ。
んで、この「春日大明神」が806年の蝦夷征伐で、官軍とともに下ってきたものが、今の鹿島神の「タケミカヅチ」だと大和さんはいう。
大和さんは「春日風鹿島」と書いているが、タケミカヅチはあくまで、中央の藤原氏の神だということだ。
なお、タケミカヅチに入れ替わる前の土着の「鹿島神」は、大化の改新で常陸に国司が置かれたとき、祭祀官として「常陸国造」に任命された元・那珂国造の「多氏」一族が、代々祀ってきた神なんだそうだ。
風土記のフツヌシ
(香取神宮)
一方、日本書紀ではタケミカヅチの上官?として登場する、「フツヌシ(経津主神)」を祀る下総国一の宮「香取神宮」のほうは、祭神の入れ替えもなく、祭祀氏族もずっと物部氏だったということだ。
ただ、そのフツヌシも常陸国風土記では「普都(ふつ)大神」という名で天から降ってきたとされていて、現在の神名と異なるという点では、タケミカヅチと似たような経緯の存在を想像させる。
しかし遠く離れた肥前国(佐賀・長崎)の風土記には、フツヌシはすでに「経津主神」として登場していたりする。
物部の郷。
この郷の中に神の社があり、神の名を物部経津主の神という。
昔、小墾田の宮で天下をお治めになった豊御食炊屋姫の天皇(推古天皇)が、来目の皇子を将軍として、新羅を征伐させられた。
その時、皇子は、勅命を承って、筑紫に来て、 そこで物部の若宮部を遣わして、社をこの村に立て、その神を鎮め祭った。
これによって物部の郷という。
(『風土記・下』角川ソフィア文庫)
九州北部といえば、畿内に次いで物部氏が多く分布した地域だ(先代旧事本紀「天神本紀」)。
古くから定住していたからこそ、九州の物部氏は早い段階から中央と同じ「経津主神」の表記を共有したんじゃないかと、ぼくは思う。
出雲国風土記のフツヌシが、「布」「都」「怒/努」「志」と音しか共有できてない点が、出雲における物部氏の歴史の新しさを表しているような気も、何となくする。
(稲佐の浜)
古事記のフツヌシ
ところで話を出雲に戻すと、出雲国造が制作した「出雲国風土記」と「出雲国造神賀詞」、そして正史「日本書紀」にも登場するフツヌシは、なぜか「古事記」には全く出てこない。
その理由は、古事記のベースは蘇我氏が作った「天皇記(帝紀)」だったから、ライバルだった物部氏の氏神を入れるわけにはいかなかったんじゃないか・・・というのが前回までの話。
ただそれだけでは、なぜ古事記ではフツヌシに代わって、タケミカヅチが国譲りの主将に成り上がったのか、の説明にはなっていない。
蘇我氏とタケミカヅチに、何らかの関係があるという話は聞いたことがない。
古事記成立の三段階プロセス
それでもう一度『六国史以前』を開いてみれば、非常に興味深いことが書いてあった。
古事記には、ざっと三段階の過程を経て成立したという説があるらしい。
『古事記』本文においては音読法や施注法、表記法などさまざまな面において不統一や未整理が散見されるのである。
そして、これら個別の要素の多様性にくわえて、本文全体の成立過程についても複数の段階が想定されている。
神田秀夫は音訓と字句の分布状況から本文の編纂過程が古層(敏達朝前後)・飛鳥層(舒明朝前後)・白鳳層(元明朝)の三段階に分けることができるとした〔神田秀夫1959〕。
(中略)
これらの諸説をかえりみて言えることは、時期設定や区分はそれぞれの見地によるが『古事記』本文は複数の段階をへて完成した可能性が高いということである。
(『六国史以前 日本書紀への道のり』関根淳/2020年)
第一段階の「敏達天皇」の在位は572〜585年。
ちょうど物部守屋と中臣氏の「廃仏派」が、蘇我馬子ら「崇仏派」とバトルしていた時代にあたる。
第二段階の「舒明天皇」の在位は629〜641年。
百済の「豊璋」が人質で来日したりして、半島情勢が緊迫していた時代。
そして第三段階の「元明天皇」の在位は707〜715年。
その序文によれば古事記が成立した時期に当たるが、藤原京から平城京への遷都にともない、「藤原不比等」が最高権力者に上り詰めた時代だ。
(奈良・平城宮跡 朱雀門 写真AC)
面白い事実は、このとき藤原京に残されて、トップの座を藤原不比等に奪われた左大臣「石上(いそのかみ)麻呂」が、物部氏の出身だったことだ。
物部フツヌシから、藤原タケミカヅチへ。
まるで神話の再現だ。
だとしたら、現在ぼくらが手にしている古事記を書いたのは、やはり元明朝の藤原氏だったってことなんだろうか?