西暦100年頃、出雲で青銅器祭祀が終焉

(荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡)

荒神谷遺跡、358本の銅剣

荒神谷遺跡

1984〜85年の発掘で、弥生時代の銅剣358本など大量の青銅器が出土した、出雲市の「荒神谷遺跡」。


出雲空港から東南に、平野を5キロほど進んだ先の山麓にあって、何でこんなヘンピな場所に埋めたのか!?と不思議になったが、「古代出雲歴史博物館」の『展示ガイド』によると、弥生時代は遺跡のすぐ近くまで宍道湖(しんじこ)が迫っていたそうで、それほどアクセスの悪い場所でもなかったらしい。


荒神谷遺跡が発見されるまでは、弥生時代の銅剣は日本全体でも300本ほどしか見つかっておらず、それまで漠然とした"神話の国"だった出雲のイメージは、完全に覆されたという。

1984年以前に出雲に言及した歴史書などは、出雲をホンワカした"神話の国"だと思って書かれてるわけで、あまり当てにしない方がいいのかも知れない。


なお現地の案内板によると、銅剣が埋納されたのは「弥生時代中期後半から後期はじめ」ということなので、たいたい西暦100年前後の話だ。

加茂岩倉遺跡、39個の銅鐸

加茂岩倉遺跡

そして荒神谷発見の10年後の1996年、今度は大量の「銅鐸(どうたく)」が一カ所から発見された。

雲南市の「加茂岩倉遺跡」は、荒神谷遺跡からは3キロほど山奥に進んだ、正真正銘のヘンピな場所にあった。


加茂岩倉遺跡の衝撃は、単にたくさんの銅鐸が一カ所から現れたことには留まらなかった。

発掘された39個の銅鐸のうち、8組15個が「同笵銅鐸」、つまり出雲以外に同じ鋳型で作られた銅鐸が存在する"兄弟銅鐸"だったのだ。

これでいっぺんに可視化された、弥生人社会のネットワークが、下の「図40」。


(※出雲が世界の中心という意味ではないので、ご注意を。西暦100年ごろの日本各地が、相互にネットワークで結ばれていたことの一例として、出雲の視点からの図)

出雲の銅鐸と兄弟鐸の関係図

(「図40 出雲の銅鐸と兄弟鐸の関係図」)

「図40」の出典は、加茂岩倉遺跡の発掘を担当された田中義昭さんの『古代出雲の原像をさぐる 加茂岩倉遺跡』(2008年)という本。


よく知られるように、荒神谷の銅剣と加茂岩倉の銅鐸からは、本体に「×」の印が刻印されたものが多数見つかっていて、この件について田中さんの本には、両遺跡の「青銅器の一部が埋納されるまでのある時期、同じ集団の管理下にあったとも考えうる」という考察が紹介されている。


つまり、出雲の諸部族が保有していた大切な祭器を一つにまとめた人がいて、彼らが一つの意思を共有するかたちで青銅器の埋納が行われた・・・ってことなんだろうけど、その理由はいったい何だったのか。

青銅器祭祀の終焉

それを一言で片付けてしまうなら、単純に「いらなくなったから」ということのようだ。カッコ良く言うと「青銅器祭祀の終焉」。

農耕社会の成立

考古学者の石川日出志さんによると、刻印された「×」印の意味は「青銅器がもつ呪術的な役割を封じ込める」とか「逆に呪術的な役割を解く」とかいったものが想定されるとのことだが、実際、荒神谷や加茂岩倉に埋納された形式より新しい青銅器は、山陰ではほとんど見られないのだという。


出雲の青銅器のアップデートは、西暦100年ごろにはほぼストップしていたようだ。

祭祀の主役は墳丘墓へ

青木4号墓

それじゃ、何が青銅器にとって代わったのか。


上の、何だかよく分からない写真は、『展示ガイド』に載っていた「青木4号墓」なるお墓の一部分。

出雲では最も古く作られた「弥生墳丘墓」で、いわゆる「四隅突出型」のハシリだそうだ。


築造年代は弥生時代中期末とのことで、まさに荒神谷と加茂岩倉に青銅器が埋納された頃のことだ。

そして、ちょうどその頃から山陰を中心とするこの地方に墳丘墓が現れ、その後銅鐸祭祀が全面的に終焉する後期末にいたる間、この墳丘墓が徐々に各地にひろがっていく。

 それは、各地の地域集団が共同で豊穣を祈る宗教儀礼が中国地方から姿を消し、一部の有力者が各種儀礼の前面に現れ、その権限の継承に関心が移る時代へと変貌していくことを意味する。

(『農耕社会の成立』石川日出志/2010年)

四隅突出型墳丘墓

どうやら出雲では西暦100年ごろを境に、祭祀の主役は青銅器から墳丘墓に移行していったようだ。


上の写真は出雲市の「西谷墳墓群」のもので、3号墓上から見た2号墓。「四隅突出型墳丘墓」の完成品だ。

僕らの足下の3号墓は、西暦180年ごろに築造された52x42mの「四隅突出型」で、ここまで来るとサイズといい、副葬品といい、偉大なる"出雲王"の「王墓」だと言って差し支えない威容だと感じられる。


ただ、「四隅」を築いた出雲王の栄華は、ほどなく終焉を迎えてしまったようだ。

その顛末については、こちら(西暦237年頃、出雲振根、誅殺される〜四隅突出型の終焉と出雲族の東遷)を。

ちなみに、この時代についての文字記録としては、西暦107年に「倭国王帥升等」が後漢にドレイ160人を献じて謁見を請うた、というものがある(後漢書)。

出雲の祭祀に大きな変化が起きていた頃、「倭」では後漢の冊封に入ろうとする動きがあったという話。


西暦151年頃までに、第8代孝元天皇、河内の姫をお妃に(五斗長垣内遺跡)につづく