記紀の「飯豊天皇」と両宮山古墳の被葬者
(清寧・顕宗・仁賢・武烈の時代 )
(飯豊山 写真AC)
吉備「両宮山古墳」の被葬者は誰か
安康天皇三年(457年)に葛城氏の当主「円(つぶら)大臣」を滅ぼした雄略天皇は、その7年には吉備「下道臣」前津屋(さきつや)を物部に誅殺させ、さらは吉備「上道臣」田狭(たさ)を任那に追放して、その妻「吉備稚媛(わかひめ)」を奪っている。
西暦480年に雄略天皇が崩御すると、(略奪婚の)吉備稚媛は雄略天皇との間の子「星川稚宮皇子」に皇位を狙えとそそのかし、「大蔵の官」に籠城する。
あらかじめ雄略天皇に「星川皇子」の謀叛の可能性を伝えられていた大連の「大伴室屋」は、すかさず軍を起こすと「大蔵」を包囲し、稚媛と星川皇子の母子を焼き殺す。
稚媛と星川皇子を救うために吉備「上道臣」は軍船40艘を出撃させるが、ふたりの死亡を聞くと吉備に撤退。その行為は皇太子の怒りを買い、叱責の上、支配下の「山部」が没収されたという。
こうして吉備氏を叩いて即位したのが、第22代「清寧天皇」だ。
(両宮山古墳 岡山観光WEB)
ところが不思議なことに、雄略・清寧の親子に叩かれて弱体化したはずの5世紀後半の吉備には、墳丘長206mという大型の前方後円墳「両宮山古墳」が築造されている。
206mというと、5C前半の「造山古墳」(350m)や5C中頃の「作山古墳」(282m)に比べると小さい印象があるが、同じころの天皇陵も200mソコソコが多く、あの継体天皇の「今城塚古墳」でさえ190mと、墳丘の小型化が進められた時代だったようだ。
考古学者の広瀬和雄さんによれば、「造山/作山地域」と「両宮山地域」は、いずれも「河川交通」と「山陽道」が交差する要衝で、5世紀の吉備の首長たちに共同の葬地として選ばれたのは同じだったが、両宮山古墳には造山/作山には無かった盾形の「周濠」や「周堤」が二重にめぐらされたりと、より「畿内的」に近づいているのだという。
この点について地元の考古学者・西田和浩さんも「吉備の古墳が畿内の古墳スタイルに統一化されていくようだ」つまりは「吉備が倭政権に取り込まれていく姿を現し」ていると、よりハッキリと書かれている。
ところが両宮山古墳は、そういった畿内との親縁性を高める一方で、「葺石と円筒埴輪の外部表飾が見あたらない」という謎があり、「葬送儀礼が通常どおりでなかった可能性」があり、つまりは「未完成古墳の可能性」(宇垣匡雅)が考えられるのだという。
これは不思議だ。
それでぼくが思い出したのが、5世紀に行われていたという「キョウダイ葬」で、当時は同じ古墳には夫婦ではなく、血の繋がった親子やキョウダイが埋葬されたという説だ。
歴史学者の門脇禎二さんは、造山古墳の被葬者に応神天皇に仕えた「御友別(みともわけ)」を挙げられるが、その吉備最大の前方後円墳はヤマトがはじめて百舌鳥に築造した「上石津ミサンザイ古墳」の96%相似形だという話があって、広瀬和雄さんからは、ヤマトに指示された設計図に沿って吉備勢力が手がけたものの、実力不足もあって「上石津」には見劣りする結果になったのが「造山」ではないか・・・という可能性が提示されている。
(上石津ミサンザイ古墳 写真AC)
んで、それを聞いてぼくが感じたのは、ヤマトが吉備に天皇陵クラスを求めたのは、そこに御友別の「妹」で、応神天皇が愛した「妃」の兄媛(えひめ)が「帰葬」される計画があったんじゃないか———ということ。
「帰葬」ってのは、地方出身の天皇妃などが、畿内ではなく故郷の古墳に埋葬されることで、例えば日向で最大の前方後円墳「女狭穂塚古墳」(176m)の被葬者について、地元の考古学者・北郷泰道さんは、仁徳天皇の愛妃で日向出身の「髪長媛」を想定されているが、そういう方法でヤマトの権力を地方に誇示した意図が考えられるんだそうだ。
(出典『古墳時代の南九州の雄 西都原古墳群』2017年)
というわけで、もしも両宮山古墳が5世紀当時の「キョウダイ葬」や「帰葬」のしきたりに基づいて造営されたのだとしたら、その被葬者には吉備上道臣(または吉備窪屋臣)の実の娘で、雄略天皇のお妃だった「稚媛」が候補に挙がるんではないか、とぼくには思える。
ただ稚媛は星川皇子をそそのかして謀叛を起こしたので、その時点で工事が中断され「外部表飾」のない、チト寂しいルックスに終わった、とか。
※なお、稚媛は焼死してしまったので、実際に誰が埋葬されたのかはヒントすらない状況か。
また、それじゃ「作山」の被葬者は誰なんよ、といえば仁徳記に出る吉備海部直の娘「黒日売」が思いつくが、このヒメは日本書紀には出てこないので、詳細は不明だ。
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古事記の飯豊天皇
(角刺神社 葛城市公式サイト)
古事記によれば、飯豊王は第17代履中天皇の「娘」だという(顕宗・仁賢にとっては叔母)。
履中天皇は(長浜浩明さんの計算だと)431年崩御なので、清寧天皇が崩御して飯豊王がヤマトのトップに立ったのは、最若でも54才のこと。
ところが古事記では、その時点ではまだ顕宗・仁賢の兄弟は発見される前だったとされるのだ(日本書紀では仁賢が清寧の皇太子に指名される)。
明治生まれの磯野フネさん(52才か)が、あのとおりの完全な老人の容姿(失礼!)なんだから、古墳時代の50代はもっと老け込んでいたことだろう。
そんな高齢女性の飯豊天皇が崩御すれば、その瞬間、皇統は断絶し、皇室は消滅する・・・そんな史上最大のピンチをサラッと描く、古事記なのだった。
日本書紀の飯豊天皇
(喜多方市の「飯豊山神社」写真AC)
一方、日本書紀によれば、清寧天皇崩御(485年)の記事における飯豊皇女の続柄は、顕宗・仁賢の「姉」(天皇姉飯豊青皇女)。
三姉弟の父「市辺皇子」が雄略天皇に殺されたのが457年なので、三姉弟の年齢は485年ー457年で、最若で28才だ。
実は日本書紀には清寧天皇三年(483年)のこととして、飯豊皇女が生涯に一度だけ「女の道」を知ったという記述があるが、これも古事記の年齢だと結構ヤバい話になるか(失礼!)。
さて、日本書紀によれば、父・市辺皇子を殺された顕宗・仁賢兄弟は、父の部下だった「日下部連使主(おみ)」親子の手で播磨まで逃亡し、身分を隠して「忍海部造細目(ほそめ)」という「屯倉の首(おびと)」に仕えていたという。
そこに「伊予久米部小楯(おだて)」なる政府高官が「たまたま」訪れて、「細目」の新築祝いの宴席で顕宗・仁賢兄弟を「発見」したというわけだが・・・こりゃー話が出来すぎだ。
なので歴史学者の和田萃さんは、「忍海部造細目」は飯豊皇女(忍海飯豊青尊)のために設置された名代「忍海部」を管理する地方伴造で、要するに顕宗・仁賢兄弟は飯豊皇女の領地のなかで「庇護」されてきたのだろうと言われる(『ヤマト国家の成立』2010年)。
そして飯豊皇女は、清寧天皇の人柄や、タネのあるなしを確認の上、「小楯」に命じて弟たちを「発見」させた・・・というのは、ぼくの想像。
さらに想像を膨らませるなら、飯豊皇女、人生ただ一度の経験のお相手は、清寧天皇だったのではないか、という気もするが、それはさすがにゲス過ぎるか、わし。
(玉丘古墳 兵庫県立歴史博物館)
ちなみに『播磨国風土記』には、播磨時代の顕宗・仁賢についての独自記事が、「賀毛郡・玉野の村」に出てくる。
そこでは二帝は「高宮」におられて、小楯を使者に国造の娘「根日女(ねひめ)命」に求婚したりしているが、ネヒメから承諾されたのに何故か兄弟で延々と譲り合い、そんなことをしてるうちにネヒメは亡くなってしまったのだという。
悲しんだ二帝は、小楯を使者にして「玉で飾った」ネヒメのお墓を造らせて、その古墳を「玉丘」、その村を「玉野」と呼ばせたのだという。
それが現在、兵庫県加西市玉丘町の「玉丘古墳」で、二帝が「玉で飾れ」と言ったとおりに葺石には白い玉石が使われていて、「文献の記述と遺跡が補完しあう数少ない例」(森浩一)なんだそうだ。
18才崩の武烈天皇
以下は100%の受け売りなので手短に済ませるが、日本書紀に見える第25代武烈天皇の「悪逆非道」は、「捏造である」可能性が高いんだそうだ。
まず日本書紀が描く、武烈天皇の悪行はこう(ちなみに①は武烈二年なので、天皇は当時12才?)。
①妊婦の腹を割いて、胎児を見る。
②人の生爪を剥ぎ、山芋を掘らせる。
③池の樋から人を流して、出てきたところを三刃の矛で刺殺する。
④人の頭髪を抜き、本に登らせる。その木を切り倒して落下させ殺す。
⑤人を木に登らせ、弓で射落とす。
⑥女を裸にして、女を馬と交わらせる。その陰部を調べて、潤っている者は殺し、潤っていない者は官婢とした。
んで古事記が仲哀天皇の「殯宮」で行われたという「国の大祓」のうち、「国津罪」の内容がこう。
このようなありさまに、驚き恐れて、天皇を殯宮に安置申し上げ、その儀礼を執り行い、さらに国事として祓いの捧げ物を供えて、生きたままの獣の皮を剥ぐ罪、獣の皮を逆さに剥ぐ罪、田の畦を破る罪、田に引く水の溝を埋める罪、神域に糞を放る罪、親子の姦涯の罪、馬・牛・鶏・犬との獣姦の罪などあらゆる罪を求めて、国家としての罪・穢れを祓ったうえで、また再度、建内宿祢が祭場に居て、神託を求めた。
(『古事記』角川ソフィア文庫)
両者が対応をみせているのは一目瞭然で、要するに武烈天皇の「悪逆非道」なんて、「国津罪」から逆算した作り話ということらしい。
この記述と対応する『古事記』仲哀天皇条では「国の大祓」が詳しく記されている。
これは後の〈大祓詞〉という祝詞で天津罪と国津罪とに分けられる。
その国津罪の中には生膚断(いきはだだち)と畜(けもの)犯せる罪が見られる。
ここで、武烈天皇の暴虐記事との関連が見えてくる。
生膚断は前掲の①③④⑤に関連し、また畜犯せる罪とは獣姦であるから⑥に関連しよう(『古事記』にはまさに馬婚とある)。
想像をたくましくすれば②は『古事記』にある「生剥・逆剥」の言葉による発想とも考えられよう。
これらは、社会的秩序を乱す重大な罪である。
中華思想を利用し、悪の天皇の記事を捏造しようとした『日本書紀』武烈天皇条の構想者は、その不徳の内容を日本独特の倫理観を基底において描いたことが明らかとなる。
それは日本の伝統的な「ツミ」の観念に基づくものであった。
(『ここまでわかった 日本書紀と古代天皇の謎』より「武烈天皇」大脇由紀子)